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21 3日目―口移しの水

ぼんやりと目を開けたまま、どれほどの時間が過ぎたのか、自分でもよく分からなかった。 空腹は確かにある。 けれど、それ以上に、胃の奥が拒絶していた。 喉は渇いているはずなのに、一滴の水を受け入れる気にもなれなかった。 乾いているのは、きっと身体だけじゃない。 思考も、感情も、何もかもが擦り切れて、パサパサになって、どこにも焦点が合わない。 体が動かないという、それだけのことで、ここまで心が削られていくなんて―― アルファだった頃の自分には、想像すらできなかった。 (食えない、飲めない……) あの頃は、そんなことあり得なかった。 どれだけ疲れていても、腹が減れば飯を食い、喉が渇けばペットボトルのキャップを捻った。 それが、普通だった。 それが今じゃ、ほんの少し指を伸ばすだけのことすら億劫で、 目の前にある水のコップすら、まるで他人の家の食器のように遠く感じた。 「……情け、ない……」 絞り出した声は、かすかに割れていた。 届く先などどこにもなくて、たとえ誰かに聞かれても、何になるというのだろう。 俺の掌は、もう“誰かの意志”に馴染みかけている。 そのとき――ドアの開く音がした。 ガチャリ、と、あまりにも静かに。 「起きてたんだ、れーちゃん」 凛が、あのいつも通りの柔らかい笑みを浮かべながら、部屋に入ってくる。 手には、水の入ったグラスと、ゼリー飲料の小さなパウチ。 その姿が視界に入った瞬間、肺が圧迫されるような感覚に襲われた。 息が浅くなる。 皮膚が先に凛の気配を察知したかのように、粟立っていく。 「……ほら、少し飲もうか。何も入ってない水だよ」 凛は俺の傍に腰を下ろし、差し出す。 けれど、手は伸びなかった。いや、伸ばせなかった。 腕が重い。 指先はしびれて、力の通り道が分からない。 「……無理……」 情けなさが喉に詰まった。 けれど、それを飲み込める余裕もなかった。 口に出してしまった。 凛は、少し目を細めて、静かに息を吐く。 「……そっか。うん、大丈夫。れーちゃんのこと、ちゃんと分かってる」 その声は、やけに優しくて、やけに恐ろしい。 凛はグラスを引くと、自分の口元に運び―― 「……ちょっとだけ、ごめんね」 そう言って、水を一口含み、そして―― そのまま俺の唇に、自分の唇を重ねてくる。 「っ……!!」 反射で背中が跳ねた。 けれど、それ以上の拒絶はできなかった。 吐き出すことすら叶わないまま、 ぬるくなった水が、じわじわと舌を滑り、喉へと落ちていく。 (こいつの口から、水を――) 思考がまとまらない。 けれど、身体だけは従順に水を受け入れていた。 「ん、ちゃんと飲めたね」 笑う凛の顔は、あまりにも自然で、どこか日常的ですらあって、 それに怒りが湧くどころか、沈黙してしまった自分が怖かった。 (……俺の口は、もう……) 俺の意思で、ただ水を飲むことすらできない。 与えられることを、当然のように受け入れ始めている。 惨めで、悔しくて、それなのに―― どこか、“心地いい”なんて。 「まだ渇いてる?」 囁く声とともに、凛はもう一度水を含んで―― 「……やめろっ……!」 震えた声で叫んだ。 凛の動きが止まる。 「れーちゃん?」 「……やめろ……自分で……できる……!」 それでも言葉にする。 たとえ、声がかすれていても。 たとえ、思いが届かなくても。 言った瞬間、腕に力を入れようとする―― けれど、上がらない。 肘も、手首も、他人の体みたいに鈍い。 「できないよ。れーちゃんの身体、今、力はいらないでしょ?」 静かに断言されて、胸が詰まる。 (違う……違うはずなのに……っ) 「でも、苦しいままよりは、ちゃんと飲んだ方が楽になるよ」 再び、水が唇に注がれる。凛の唇を使って。 もう、抵抗すらできなかった。 その事実が、全てを物語っていた。 喉を伝って落ちていく水が、妙に甘い。 甘いのは、味じゃない。 “状況”が、意味を変えていた。 (俺は……こいつの“口”を、待ってたのか……? それとも、凛自身……?) 胸の奥がざわつく。 思考が、本能に追いつかない。 けれど本能だけが、何かを確信している。 そのときだった。 凛の匂いが、ふわりと強くなった。 (っ……!!) 脳が痺れるような、濃密な香り。 空気が変わる。 この部屋が、凛の存在で満たされていくような錯覚。 「ああ……出てきたね。れーちゃんの、フェロモン」 「……は……?」 「ほら、自分でも感じるでしょ? 空気が熱い。息が重い。何もしてないのに、変なとこが疼く」 まさに、それだった。 喉の渇きは、凛を“欲した”せいなのかもしれない。 身体の奥が、しっとりと濡れて疼いていた。 吐息は熱を帯び、皮膚は凛の存在を拾い始める。 シーツの下――下腹部の奥に、まだ知らない熱が灯っている。 それが、静かに、だが確実に広がっていく。 (これが、発情……? いや……まだ、始まり……?) 「次の注射を待つまでもないかも……ね」 「……やめろ……やめてくれ、凛……!」 言葉は拒絶だった。 でも、身体は――熱を放っていた。 もう、どこにも―― 隠せる場所なんて、残っていなかった。 -------------------- 20250831:改稿 リアクションやコメントいただけると嬉しいです♪ -------------------

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