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20 3日目―遠い夢、近い現実
部屋は、静まり返っていた。
あまりにも静かで、耳鳴りのような無音が、かえって不穏に響く。
凛の気配が――ない。
ほんのついさっきまで、ベッドのすぐ隣に確かにいたはずなのに。
それがふっと消えるだけで、部屋の空気の密度すら変わった気がする。
(……いつ出ていった?)
そう思いながら、身体をわずかに起こす。
シーツがわずかに沈んで、その重さが自分の体重ではないように感じられた。
鈍く、重い。まるで今の自分自身の象徴のように。
見上げた先には、何の飾り気もない無機質な天井が広がっている。
窓はなく、時計もない。
昼か夜かも分からない。
何時間、あるいは何日ここにいるのかも定かではなくなっていた。
いや、違う。凛と一緒に寝た回数が日にちだ。
それはわかっている。
なのに──この部屋はまるで、時間という概念そのものを喪失させる箱のようだった。
息を吐く。
ただ、それだけのことで、少しだけ楽になる自分がいた。
(凛がいないだけで……こんなに、違うのか)
その事実が、ひどく悔しい。
けれどそれ以上に――その不在に「寂しい」と感じている自分の存在が、もっと怖かった。
熱をはらんだ身体の芯を、どこか冷たい感情が撫でていく。
それはおそらく、凛がいなくなったことで生まれた、名もなき焦燥。
彼の手も、声も、匂いも――今はない。
(……俺は、何を求めてる?)
答えの出ない疑問だけが、胸に残る。
目を閉じると、意識が静かに沈んでいく。
それは、まるで“自分”を探して、深海の底へ潜っていくような感覚だった。
夢を、見た。
眩しい照明に照らされた、真っ白なスタジオの天井。
目を細めながらも、その強い光を正面から受け止めることが、たまらなく嬉しかった。
カメラの前で、俺は笑っていた。
それは作り笑いなんかじゃない。
心の奥から湧きあがる“好き”の気持ちが、そのまま表情になっていた。
「いい表情!」
誰かの声が飛んできて、胸の奥がふっと軽くなる。
自分がこの場所に“いられる”ことが、誇らしかった。
(……俺、あの仕事、ほんとに好きだったな……)
メイク室の鏡、慌ただしくも温かなスタッフの気配。
失敗して笑われたり、悔しがったり、反省したり――
そんな全部が、当たり前の日常だった。
夢の場面が切り替わる。
今度は、放課後の体育館。
やわらかな夕焼けがガラス窓から差し込んで、床を淡く染めていた。
バスケットボールが弾む音。
ほこりっぽい空気に混じる汗と木材の匂い。
それらすべてが、胸に優しく沁みていく。
床に寝転がって、凛と他愛もない会話をしていた。
くだらない話で笑い合い、ふざけて水をかけ合って、叱られて――
でも、それすらも“楽しい”の一部だった。
それが、俺たちの“普通”だったのだ。
(……凛……)
あの頃の凛は、まだ幼くて、素直で、透明だった。
隣にいるのが自然だった。肩を並べているだけで、嬉しかった。
まるで兄弟みたいで、家族みたいで――
(どうして、こうなった……)
あの頃の俺たちは、もっと健全だった。
ただの友達で、けれど確かに心を通わせていて。
もし、もっと早くに何かを言葉にできていたら――
たとえば「好き」だとか、「一緒にいると楽しい」とか。
そういう想いをちゃんと伝えられていたら、こんな風に歪まずに済んだんだろうか。
けれど、もう遅い。
夢の中の凛が、ふとこちらを振り返った。
いつもの、見慣れた笑顔。
だけど、何かが――決定的に違っていた。
胸の奥が、かすかに警鐘を鳴らす。
手を伸ばそうとした、その瞬間。
世界が、崩れた。
足元が割れ、景色が反転する。
上下が逆になり、音が消える。
匂いも、光も、感触すらも――全てが、呑み込まれていく。
(……あ……)
指先に残った凛のぬくもりだけが、最後に黒く染まっていった。
目を覚ます。
現実が、容赦なく襲ってくる。
天井。ベッド。重たい身体。汗のにじむ感触。
どれも夢よりもずっと味気なくて、無色で、冷たい。
変わらないのは、部屋の空気だけ。
変わってしまったのは、俺の方だ。
夢の中で笑っていた“俺”は、紛れもなく本物だった。
なのに――今の俺は、どこか誰かに作られた別人のようだ。
手を伸ばしてみる。
その手が、自分のものじゃない気がした。
(これは、俺の“手”か……?)
見慣れていたはずの手の甲が、微かに震えている。
けれど、もはやその震えすら自分の意志では止められない。
凛の匂いが、まだ空気の中にうっすら残っている。
呼吸するたび、鼻腔の奥が熱くなる。
(違う。違う……はず……違っててほしい)
否定すればするほど、確かだったものの輪郭が、ゆっくりとにじんでいく。
「……俺は……」
ぽつりとこぼれた言葉は、誰にも届かない。
自分の耳にすら届いたかどうかも、怪しいほどかすれていた。
夢の中の“俺”は、確かにそこにいた。
堂々と、まっすぐに生きていた。
けれど今の俺は――
「……帰りたい……」
その一言を、口にしてしまった瞬間。
俺は気づく。決定的に。
もう――帰れない。
それを、一番知っていたのは、他でもない。
他の誰でもない、俺自身だった。
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20250831:改稿
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