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19 3日目―芽吹く本能
呼吸が浅い。
けれど、それは単なる過呼吸の類ではなかった。
胸の奥が、焼けつくように熱く、そして重くなっている。
吸い込んだ空気さえ、甘く濁って感じられた。
凛の唇が離れたというのに、そこに触れた感触が消えない。
唇の輪郭だけが、じんわりと熱を帯びて残っている。まるで火傷の痕のように。
(……どうして、こんな……)
皮膚の下、筋肉の奥、もっと深く――
臓器の裏側に、火種のようなものが灯っている。
その火は、静かに、けれど確実に身体の奥へ広がっていく。
「れーちゃん、大丈夫?」
凛の声が、鼓膜ではなく、脳の中に直接染み込むように響いた。
言葉というより、感情を纏った波。
それは、この声が優しいからではない。
俺が……変わってきているから、だ。
(冗談じゃない……ふざけるな……っ)
心の中で必死に怒鳴った。
けれど、手のひらが僅かに震えているのを、自分でも止められない。
寒さではない。むしろ身体は、どこか熱を持っている。
なのに、芯から力が抜けていくような頼りなさが、じわじわと広がっていた。
凛はベッドの脇に腰掛け、無言でこちらを見つめている。
その視線が刺さる。気にしたくないのに、気になってしまう。
「……なんだよ、見るな」
掠れた声が、どうにか喉を通った。
凛はふっと微笑んで、目を細める。
「見るよ、可愛いから」
「……ふざけんな」
怒りを乗せたつもりの言葉は、虚ろに空気の中へ落ちていった。
反発が、まるで手応えを持たず、霧のように消えていく。
そのとき、凛の手がそっと額に触れた。
そのぬくもりに――心の奥がほっとしている自分に気づいて、凍りつく。
(何で、安心してんだよ……)
それが、一番怖かった。
怒りより、羞恥よりも――
拒絶できなくなっていることが、なによりも恐ろしい。
俺が俺でなくなっていく。
凛に、上書きされていく俺。
「熱、少し上がってるかもね」
額に置かれた手が、すべるように頬へと移り、さらに耳の裏をなぞる。
「……っ、やめろ……」
震えた声が、制止の形だけをなぞる。
ほんの数時間前までなら、確かにそれは「拒絶」だった。
だが今は、もはや「抵抗」とすら言えない。
(ああ……やばい……やばい……)
この身体はもう、俺が知っていたものではない。
思い通りにならない。意思と切り離されている。
「れーちゃん、まだ足先が冷たい。温めてあげるね」
「触んな……」
口では拒んだ。
でも、その直後――
足首にふれる手のぬくもりに、全身がぞくりと震える。
それは嫌悪ではない。
鋭敏になった神経が、触れられるたびに過敏に反応してしまう。
(ああ、もうだめだ……)
痛いほどにわかる。
もう、これは「アルファの身体」ではない。
いくら否定の言葉を並べたところで、理屈をこね回したところで――もう終わっている。
アルファであれば感じるはずのない匂いが、今ははっきりとわかる。
肌にふれる手、声の響き、体温、すべてが俺の奥へと沈み込んでくる。
こんな感覚――知らなかった。
凛が顔を寄せてきた。
またキスが来るのかと身構えたが、彼はただ、俺の首筋に鼻を寄せただけだった。
「……いい匂いだね」
耳元で囁かれたその言葉に、心臓が跳ねる。
「やっぱり、れーちゃんの身体は僕に合ってきてる……嬉しいなぁ……」
その声が、妙に現実的に響いた。
夢や妄想のたぐいではない。
今、確かにここで進行している現実だった。
(……もう、合ってる……?)
その言葉を飲み込んだ瞬間――
腹の奥がまた疼く。
そこは、本来存在しないはずの器官が目覚めつつある場所。
オメガ特有の受容器官。
俺は――本当に、オメガになりかけている。
いや、「なりかけている」などという生ぬるい段階では、もうないのかもしれない。
次の注射が来れば、確実に終わる。
「……っ……」
肩に置かれた凛の手が、異様なほど重く感じた。
その重みが、ゆっくりと心の奥へと沈んでいく。
逃げ道など、最初から存在しなかったのだ。
そう思いかけた瞬間、どこかで「それでもいい」と感じてしまいそうになる。
「れーちゃん、大丈夫。全部、僕が面倒見るから」
その言葉は、柔らかいのに――ひどく冷たくて、重たかった。
まるで、逃れられない呪いのように。
甘やかで、圧倒的な呪縛のように。
(……俺は、どこまで……奪われるんだ……)
凛の重みが絶対に外れない鎖となって俺を縛り付ける。
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20250831:改稿
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