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18、3日目―抗えない口づけ

喉が渇いている。 さっきまで感じていた、表面的な渇きとは質が違う。 もっと奥、身体の深い場所――骨の髄に近いようなところから、何かがじわじわと枯れていくような感覚。 水分や気力ではない。もっと根源的な、何か。 (……これ、本当に俺の体か……?) 掌が、細かく震える。 その震えすらも、もうどうでもよくなりかけていた。 「れーちゃん」 名前を呼ばれる。 それだけで、意識が凛に引き寄せられる。 指先がそっと頬に触れた瞬間――電流のような感覚が、背骨を這い上がった。 「っ……」 おかしい。 異常だ。 触れられた場所に、じんわりと熱が残る。 まるで、その手の温もりを肌が記憶しようとしているみたいに。 まるで、もう「触れられること」が当たり前のように――俺の身体が、凛に馴染もうとしている。 「昨日より、もっと素直になってるね。可愛い……」 「……っ……」 違う。違うはずなのに。 でも、否定の言葉は浮かぶ前に霧散していく。 「ふふ、何も言い返さないんだね」 「……言うことがないだけだ」 「本当に?昨日までなら……ね?」 「……っ……」 鋭く突かれた。 反論しようとするたびに、喉の奥が引きつるように乾く。 「れーちゃん、苦しい?」 「……苦しくなんか……っ」 そう言いかけた瞬間、呼吸が止まりかけた。 体内から押し上げてくるような熱が、腹の奥をじわじわと蝕んでいく。 これまでの「変調」とは明らかに違う。 何かがはっきりと、変わろうとしている。 ――いや、もう変わりつつある。 「ほら、ゆっくり息を吸って」 そう囁きながら、凛が俺の髪をやわらかく撫でた。 その手つきが、あまりにも優しくて――それだけで、心が静かに鎮まってしまいそうになる。 (……なんで、落ち着く……?) 昨日までなら、凛に触れられることすら嫌だった。 けれど今は、その手を振り払う気力さえ湧かない。 抗おうとするたび、意識がやすやすと絡め取られていく。 「れーちゃん」 凛の声が、やけに耳に馴染む。 まるで、最初から俺の中にある「決まった音」であるかのように。 その響きが、静かに胸の奥へと溶けていく。 (……待て……俺、今何を……) 「……っ……」 「息が荒いね。ゆっくり呼吸、しよ?ゆっくり、だよ」 (やめろ……!) 叫びたかった。 拒絶の言葉をぶつけたかった。 けれど喉の奥が張りついたように詰まり、言葉にならない。 「れーちゃん」 また、名前を呼ばれる。 それだけで、心臓が跳ねた。 恋?――違う。そんなわけがない。 けれど、反射的に鼓動が高鳴るこの現象を、どう説明すればいい? (違う、これは……!) 息が荒くなり、体がじっとりと熱を含む。 脈打つ感覚は、いつものリズムとは違う。 鼓動が、凛の声や動きに合わせて引っ張られるように感じる。 「……やっぱり、効いてきたね」 満足げな微笑みが、まるで夢の中のようにぼんやりと見えた。 「……ぁ……」 声が、うまく出ない。 言葉にならない音が、喉の奥で溶けていく。 腹の奥に広がるのは、湿度を帯びたような鈍い疼き。 痛みというより、押し寄せてくる衝動だった。 「ねえ……れーちゃん」 「昨日より、僕の匂いが近く感じるでしょ?」 「っ……」 言葉が追いつかない。 いや、思考そのものが遅れている。 凛の言葉の意味を理解したくないのに、頭のどこかでちゃんと理解してしまっている。 (こいつの匂いが、近い……?) 違う。そんなことあるはずがない。 でも―― (俺が……こいつの匂いを……) 「……っ……!!」 駄目だ。これは、もう―― これは、俺の意思じゃない。 俺の身体じゃない。 「れーちゃん、昨日までは『違う』って言えたのにね」 「……っ……」 言えない。 もう、言葉にできるだけの確信がない。 自分の状態に、自信が持てない。 (……俺は……) 「……大丈夫だよ」 凛の指先が、そっと俺の顎を持ち上げる。 ひやりとした指の温度が、喉の奥に触れたとき、身体がぴくりと震えた。 「れーちゃんは、僕の番だから」 その言葉が、胸の中に鈍く落ちる。 重たく、静かに、逃れようのない呪縛のように。 (……っ……) 違う。そんなはずはない。 俺はα。番なんて――凛と番になれるはずがない。 なのに。 「もう、逆らえないでしょ?」 「……っ……!!」 逃げたい。 この身体ごと、全部から逃げ出したい。 けれど、足が動かない。 手も、口も、まるで自分のものじゃない。 「れーちゃん」 低く、甘く、耳元で囁かれた瞬間、呼吸が止まりそうになる。 凛の顔が、すぐそこにある。 肌と肌の間にある空気が、すっと溶けていく。 (……やめろ……っ……!!) けれど、拒絶の動きは生まれなかった。 ふわりと唇が触れる。 羽のように軽く、けれど確実に。 俺の意思を、ゆっくりと確認するように。 (……っ……) 拒むはずだった。 突き飛ばすはずだった。 でも、できなかった。 (……離れられない……!!) 顎を支えた凛の指が、俺を導くように深く引き寄せる。 舌が触れ合った瞬間、息が詰まった。 「……っ……」 体の奥が、ぴくりと震える。 昨日までなら、こんなもの――ただの暴力だった。 けれど今は。 (……違う……ひどく、心地いい……) 熱が、染み込んでいく。 それは水のように自然で、気づかぬうちに体の中を満たしていく。 唇の隙間から、凛の気配が、感覚が、静かに広がっていく。 「れーちゃん……気持ちよさそうな顔してる」 「……っ……」 否定したい。 けれど、何かが崩れてしまいそうで、口を閉ざすしかなかった。 (……俺は……) 凛の唇が、そっと離れる。 そして、ささやかれる。 「ほら、息して?」 その声に導かれるように、息を吸う。 すると、体がかすかに震えた。 その震えは、もう―― 恐怖だけじゃなかった。 (……なんだ、これ……) 俺が、俺じゃなくなる。 -------------------- 20250831:改稿 --------------------

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