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17 3日目―目覚めと7回目の注射
目を開ける前から、異物のような違和感が体中にまとわりついていた。
喉の奥がじわじわと乾き、呼吸するたびに粘膜がひりつく。
胃の底に広がる空虚。
そして、もっと奥。
奥深く――腹の底に、鈍い熱が蠢いている。
(……なんだ、これ……)
それは昨日の感覚よりも、もっと明確に“内側”を侵食していた。
湿度を帯びたような不快な疼きが、じくじくと広がっていく。
まるで自分の体の中に、熱を持った異物が棲みついて、内側から変質させているような……そんな感覚。
(……待て、こんなの……)
「おはよう、れーちゃん」
その声が、意識の隙間に滑り込んできた。
目を開けるより先に、指先の感触が肌に触れる。
柔らかくて、静かで、まるで悪意を包み隠す絹のようだった。
「っ……」
跳ね起きようとした瞬間、身体が驚くほど重たかった。
まるで筋肉の隙間に鉛を詰め込まれたかのように、動かない。
仰向けのまま、俺は凛を見上げるしかできなかった。
凛の指先が、ゆっくりと鎖骨の上をなぞる。
そこを通り過ぎるたびに、神経が過敏に反応して、
ぞわり、と身体中を駆け上がっていくような感覚が残された。
「……やめろ……」
低く、警告するように吐いたつもりだった。
けれど、それは押し殺したうわごとのようにしか聞こえなかった。
「どうして?」
その問いかけは、どこまでも無邪気で――底が知れない。
そしてまた、凛の指が肌を滑っていく。
昨日までの自分なら、その手を即座に振り払っていた。
けれど、今は。
(……っ……!)
指が離れた瞬間、肌にひやりとした風が走る。
その微細な温度差に、微かに快感を覚えてしまった。
――気持ちがいい、などと。
「……やめろって、言ってんだろ……」
絞り出すように声を返す。
気力を込めたつもりなのに、凛にはまるで脅威にも聞こえていないようだった。
「うん、ごめんね」
あっさりとそう言って、凛は微笑む。
その表情は、以前と変わらない、いつもの優しさを纏った顔。
なのに、今の凛が浮かべる笑顔には、どこか不気味な安堵が滲んでいた。
(……いや、違う……!!)
「れーちゃん、ちょっと……いい?」
「……は?」
戸惑いながら顔をしかめると、凛はそっと囁いた。
「じっとしててね」
その瞬間、彼の手が俺の後頭部に触れる。
温かい掌が、静かに支えるように添えられる。
「おい、何……」
そう言い終える前に、ふっと首筋へと息がかかる。
ぞくり、と全身が硬直し、肌が粟立つ。
無意識に、凛の手へと後頭部を擦り寄せてしまった自分に――愕然とする。
(……っ!!)
「……昨日より、感じる?」
「え……?」
「僕の、匂い。アルファの──匂い」
凛の言葉が、鋭く胸を突いた。
自覚が追いついたのは、そのあとだった。
(……こいつの匂いが、昨日より……)
濃い。
確かに濃くなっている気がする。
いや、匂いそのものは同じはずだ。
それでも、俺の中にすっと入り込み、染み込むように馴染んでいく。
「ああ、わかるんだね。僕の匂い。¥が昨日よりも、もっと」
「っ……!」
「れーちゃんには、僕の匂いがちゃんとわかる……嬉しいなぁ……れーちゃんの匂いも甘くて美味しそうなんだよ?僕ずっと、我慢してる」
「やめろ……!!」
拒絶する声が震える。
それでも、鼻腔に絡みつく匂いが離れてくれない。
凛はそっと俺の頭を枕の上へ戻し、髪を撫でた。
「本当にれーちゃんは可愛い……。ねえ、怖い?」
「……!!」
その言葉に、息を詰まらせた。
言葉にすることができない。
否定すればするほど、身体が勝手に反応してしまうのが悔しかった。
「ねえ、れーちゃん。僕が離れたら、寂しくなる?」
「……っ……!!」
何を言ってるんだ、こいつは。
そう思った瞬間、胸がきゅっと縮こまる。
――寂しい?
そんなわけが、ない。
俺は、凛に縛られてる。逃げ出したくて仕方ないのに。
凛がいなくなる。でも、それは──。
(……待て……今……)
不意に、息が止まりそうになった。
(……俺、何を考えた……?)
一瞬、胸をかすめた思考が、「寂しさ」に繋がりかけた。
(……違う、違う!!)
俺は望んでなんかいない。
それなのに、頭の奥がじんわりと痺れ、感情が上書きされていくような錯覚。
「ああ、いいなぁ……れーちゃん、昨日よりもっと素直になってる」
囁きが、直接脳の中に落ちてくる。
逃げなきゃ。
このままじゃ、俺は――俺じゃなくなる。
「でも、もう少しかな……?」
(……!!)
次の言葉が、すぐに来る。
「れーちゃん、次の準備しようか」
「次……?」
「うん、7回目の注射」
心臓が脈打ち、視界が揺れた。
「もう……十分だろ……!だって、こんなに……!」
「まだだよ。完全にれーちゃんを変えるにはあと3回あるからね。ここでやめちゃったら、れーちゃんはこのままきっとおかしくなっちゃうし」
「っ……!!」
「この注射が終われば、昨日より、もっと君の身体が僕を求めるようになるよ」
「違う!!!」
叫ぶように声を上げた。
けれど凛は、もう“確信”しか持っていない目で、俺を見下ろしている。
「そう?だって今だって……」
掴まれた腕が、再び押さえつけられる。
昨日と同じ構図。
なのに、全く違う。
俺の身体が、何もできない。
(……っ……まただ……!)
凛の顔が、静かに俺の首筋へ近づいた。
そして、ほんの軽く吸って、舐める。
その刹那、胸の奥に電流のような衝撃が走り、俺は息を飲んだ。
「れーちゃん、さっき僕が離れたとき、少しだけ寂しそうな顔したよ?」
「してない!!!」
思わず叫ぶ。
必死で否定しなければ、自分が崩れてしまう。
「じゃあ、僕が今ここからいなくなっても、平気?一緒にいなくてもいい?」
「……っ……」
声が、出なかった。
「ほら、ね?ああ、本当に……可愛くて可哀想なれーちゃん」
凛が、注射器を取り出す。
「やめろ……!」
「この一本一本で君の心が動くよ……僕の方に」
――チクリ。
「っ……!!!」
皮膚を突き刺す感覚と、流れ込んでくる薬液の冷たさ。
身体の奥まで、瞬く間に染み込んでいく。
「ほら、あと2回」
「……っ……はぁ……っ……」
呼吸が浅くなる。
心拍が速まる。
すべてが、凛の言葉に反応している。
(これ、やばい……)
「れーちゃん、もうここまできたら、逃げられないよ?」
凛の囁きが、脳髄に響く。
「ほら、感じて」
地獄は、どうやらここからが本番らしい。
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20250831:改稿
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