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16 2日目─6回目の注射
「……れーちゃん、ちょっと休もうか」
凛の声が、深い水の底から響いてくるように聞こえた。
その響きは、なぜか優しくて、あたたかくて――だからこそ怖かった。
休息……普通の言葉だ。けれどその休息を取った後、俺はどうなっている?
この身体はどうなっている?
怖い。
けれど、そう思った瞬間、じわり、と瞼の裏が熱を帯びる。
(……眠気……?)
こんな状況で眠れるはずが――
そう、思考はそう訴えているのに、現実は違っていた。
考えようとすればするほど、意識は揺らぎ、身体はふわふわと浮かぶように力を失っていく。
「れーちゃん、水飲んで」
「……いらない……」
「でも、飲まないともっと辛くなるよ?」
喉の奥が、ひりついた。
――そんなはず、ない。と否定する間に、
言葉通り、乾きが本当にそこにあるような感覚がじわじわと染みてきてしまう。
(……気のせいだ……)
そう思って、唇をきつく噛んだ。
けれど、すぐに――凛が差し出したグラスが、まるで慈悲のように俺の唇に押し当てられる。
「ほら、少しだけ」
拒む暇もなく、冷たい水が舌先に触れた。
瞬間、喉が勝手に動いた。
身体が、水を求めていたことを――俺自身が一番信じたくなかった。
(……どうして、全部が凛の言うとおりに……)
理性とは別のところで、身体だけが素直に従ってしまう。
冷たさが喉を流れ落ちて、内側の熱を鎮めていく。
「うん、いい子」
その声に、心がざわりと震える。
だが、反論する言葉はどこにもなく、沈黙だけが口を満たした。
(……やめろ……)
そう、言いたかった。
けれど、もう声を出す気力すら――尽きかけていた。
「少し休んでいいよ」
凛の手が、静かに俺の髪を撫でた。
優しい掌の重みが、まるで眠気を誘う呪いのように感じられた。
「……っ……」
思考をまとめようとしても、頭の中はぐちゃぐちゃで、何も掴めなかった。
瞼が、どんどんと重くなる。
目を開けていることが、どうしようもなく億劫になっていく。
「れーちゃん、大丈夫。僕がいるから」
(……何が、大丈夫……)
疑問が浮かぶ。
けれど、それすら霧の中へと沈んでいった。
そして――俺の身体は、そのまま眠りに落ちた。
どれくらい経ったのかもわからない。
ただ、ぼんやりと夢を見ていたような気がした。
遠い昔。まだ、世界が穏やかだった頃の記憶――のようなもの。
けれど、その映像は指の隙間からこぼれ落ちる砂のように、すぐに消えてしまった。
(……何だ……?)
次の瞬間、腹の奥にざわりと湧いた違和感に、俺の意識が引き戻される。
(……熱い……?)
じくじくと、疼くような感覚。
それは眠気とは別種のものだった。
まるで何かが、奥から広がっていくように、熱を孕んでいる。
(……何だ、これ……いやだ、気持ち悪い……)
逃げるように身じろぎしようとした。
だが、身体がやけに重かった。
思うように動かせず、息を吸った瞬間――
「っ……!」
空気が甘い。
いつの間にか、凛の匂いが満ちていた。
(……凛……!)
目を開けると、視界のすぐ近くにその姿があった。
距離が近いせいだけではない。
明らかに、匂いは――濃くなっていた。
「……起きた?」
その声は優しく、まるで病人を気遣う看護師のようだった。
本当に、俺は眠っていたのか?
感覚的にはほんの一瞬。けれど、確かに何かが変わっている気がした。
「……っ……」
身体の感覚が、まるで他人のもののように不確かで気持ち悪い。
けれど、その不快感さえも、凛に伝えることができなかった。
(……全部がおかしい……)
夢の名残りはあるのに、内容はもう何一つ思い出せなかった。
代わりに、腹の奥に残った熱だけが、俺を侵食していた。
「れーちゃん、お腹空いてない?」
「いらない……」
「そっか。でも、何も食べないともっとフラフラしちゃうよ?れーちゃん、ほとんど食事が出来てないでしょう?」
「…………」
既視感。
ほんの少し前にも、同じやりとりをした気がする。
でも今は――
(……確かに、力が入らない……)
眠る前よりも、確実に、身体の芯が軽くなっていた。
抜けていく。何かが。
何が抜けているのかは分からないのに、それがひどく不安で、悔しくて――怖かった。
だから、休んではならなかったんだ。
「……食べない」
抵抗するように、言い切る。
けれど、凛は少しも気にしていなかった。
「じゃあ、ゼリーにしよう」
すでに準備していたかのように、ストロー付きのゼリー飲料が差し出される。
「ほら、少しだけでも」
(……いらない、飲みたくない)
確かにそう思った。
でも、乾いていた。
それは身体の欲求だった。
拒否と欲求が、喉の奥でせめぎ合う。
(……いや、飲んだら……また……)
本能が、危機を告げていた。
けれど、もはや理性が追いつかない。
ただ、気力が静かに削れていくばかりだった。
「……っ……」
俺は、ゆっくりとストローを咥えた。
(……自分が思い通りにならない……)
舌に触れた冷たさに、またしても喉が勝手に動いた。
少しだけのつもりだったのに、気がつけば、一口、また一口と――
冷たいゼリーが喉を流れ、胃に落ちていく。
けれど、腹の奥の熱は、変わらなかった。
むしろ、それに蓋をするように、さらにうずいている気がした。
「うん、いい子」
「……っ……」
また、その言葉。
なのに――もう、怒る気力すら湧いてこなかった。
「飲み終わったら、次の準備しようね」
「次……?」
「うん、6回目の注射」
心臓が、跳ねた。
嫌な感覚が背筋を駆け上がる。
「待て、待て……! もう……十分だろ……!」
「まだだよ。あと4回あるからね」
「っ……!!」
「大丈夫。れーちゃんは、もうΩになりつつあるんだから」
「違う!俺はなってない、そんな……!」
叫んだ。けれど、凛はまったく動じない。
「本当に?」
掴まれた腕が、押さえつけられる。
振り払いたい。なのに――
(……っ……まただ……!)
力が足りない。
本来なら簡単に弾き飛ばせるはずなのに、指先さえも思うように動かない。
「ねえ、れーちゃん」
「……っ……何だよ……」
「今、僕の匂い、どう?」
「……っ……」
まただ。
また、それを訊かれる。
けれど――
(さっきより、もっと……)
確かに、強く感じる。
匂い自体は変わっていない。
なのに、それが、身体の奥まで染み込んでくる。
「さっきより、もっと感じるでしょ?」
「……違う……っ……!」
「僕が近づくほど、れーちゃんの身体は僕を求めるようになってるんだよ」
「求めてない!」
「本当に?」
鼻先が、俺の首筋をなぞった。
――チクリ。
「っ……!!!」
針が刺さる感覚が、皮膚に走る。
もう、何度目だ。
けれど、慣れることなどできるはずもなく――
(やばい、これは――)
「ほら、あと3回」
「……っ……はぁ……っ……」
呼吸が乱れる。
動悸が早い。
胸が軋むように苦しい。
「ふふ、どんどん……れーちゃんが変わってる。僕のお嫁さんに」
凛の目は、ぞっとするほど恍惚に染まっていた。
俺は、その表情に耐え難い寒気を覚える。
「……狂ってる……」
それだけが、かろうじて口からこぼれた。
凛は、小さく首を傾げると――
「とっくの昔に、ね」
ふふ、と、楽しげに笑った。
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20250831:改稿
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