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15 2日目ー番
呆然としたまま、俺は凛の手のひらが頭を撫でる感触を、無意識に受け入れてしまっていた。
そのぬくもりは、静かで、優しくて、まるで子どもをあやす母親のようだった。
けれど――だからこそ、不気味だった。
この状況で、こんな風に慈しむような仕草ができる人間が、一番恐ろしい。
「よかったね、れーちゃん」
凛の声はあまりにも穏やかで、柔らかくて。
本当に俺の変化を、心の底から祝っているようにすら聞こえた。
けれど、その響きが意味することが、じわじわと俺の中に染み込んでいく。
染みて、染みて、逃れられないように絡みついてくる。
「……よかった、だと……?」
自分でも信じられないほど掠れた声が、喉から漏れた。
思わずこぼれたその問いかけに、凛は少しだけ微笑み、頷く。
「うん。だって、ちゃんと進んでるから」
その言葉が、まるで決定事項のように告げられた瞬間――
俺の中で、何かが凍りつく。
“進んでる”――あたかも、俺が望んだ未来に到達しているかのような言い方だった。
まるで祝福の言葉のように。それが恐ろしい。
「……違う……そんなの、違う!」
思わず声が震えた。
即座に否定しないと、何かが崩れてしまいそうで。
けれど、喉の奥を満たしていく甘い香りが、俺の呼吸をゆっくりと支配していく。
「違う? じゃあ、どうして僕のフェロモンを感じるの?」
「それは……!」
言い返したい。否定したい。
でも言葉が見つからない。
頭の中で理屈が回る。反論を探そうとして――けれど、逆に凛の言葉が“真理”のように整ってしまっていることに気づいてしまう。
α同士では、フェロモンは感じない。
それが、当たり前だったはずなのに。
(……俺は……今……)
空気が重い。
どこかまとわりつくような、肌に貼りつくような――そんな匂いが、凛から立ち上っている。
濃くなっている気がする。
思わず息を止めたくなる。けれど、止められない。
「ねえ、れーちゃん」
ふっと、凛の指先が俺の顎を軽く持ち上げる。
まるで宝石でも扱うように、慎重で、優雅な動きだった。
「僕の匂い、嫌?」
「……っ……」
“嫌”と言わなきゃいけないのに。
それだけの言葉が、どうしても口から出てこなかった。
喉の奥にふわりと熱がこもっていく。
そのぬくもりが、奇妙な“安心感”に変わりそうになるのが怖い。
「……嫌……」
「……じゃないでしょ?」
囁かれたその瞬間、心臓が不意に跳ねた。
胸の奥に響くその声に、ほんの一瞬、身体が緩む。
違う、こんなのは錯覚だ。洗脳だ。
だけど――それでも、反論ができない自分がいた。
「α同士なら、こんな風にはならないんだよ」
その言葉は静かで、優しくて、それでも鋭利だった。
俺の中にある常識を、容赦なく突き刺してくる。
「ねぇ、れーちゃん。僕がもっと近づいたら、どうなると思う?」
「……何……?」
「試してみようか」
そう言って、凛の手がそっと俺の首筋に触れる。
「っ……!!」
柔らかなはずのその温度が、肌に触れた瞬間、背筋を伝って凍りつくような戦慄が走る。
同時に、唇がそっと近づいてくる。
鼓動が一段と速くなり、喉の奥に言葉が引っかかる。
「ほら、怖がらないで。僕はれーちゃんの“番”なんだから」
「は……?」
「れーちゃんの番は、僕しかいないんだよ」
それはまるで、神の啓示のように、静かに、そして絶対的に語られた。
運命を当然のように受け入れさせるような声音だった。
「なあ、番って一方的に決めるもんじゃないだろう……? そんなの、誰が決めた……!」
「僕が決めたよ」
「っ……ふざけんな!」
「ふざけてないよ」
凛は穏やかなままで、優しく俺の頬を撫でる。
その優しさが、皮肉のように突き刺さる。
「れーちゃんは、僕が作ったΩだから」
「……は?」
「だから、れーちゃんの番は、僕しかいないの」
「待て……そんな理屈、どこにある……!」
「あるよ。ほら、もう僕のフェロモンに逆らえなくなってるでしょ?」
その一言で、俺の全身から血の気が引いていくのがわかった。
(……嘘だろ……?)
胸が苦しい。息がしづらい。
けれど、それでも吸い込んでしまう。
凛の香りを、無意識に、何度も。
(……この感覚……)
「れーちゃん、気づいてる?」
凛の指が俺の首筋をなぞる。
ぞくりと、肌が粟立つ。
自分でもわかるくらいに、過敏になってしまっている。
「僕が、こうやって近づいても、君はもう逃げようとしない」
「……!」
「むしろ――この距離、嫌じゃないよね?」
「違う! 俺は、そんな……っ!」
「でも、さっきからずっと吸い込んでるよね。僕の匂い」
「っ……!」
図星すぎて、言葉が出ない。
そうだ。俺はさっきから、凛の匂いを無意識に深く吸っていた。
まるで、それにすがるように。
「れーちゃん。僕のフェロモンが、君にとって一番気持ちいいものになるように、調整してるんだよ」
「調整……?」
「そう。僕が作ったΩなんだから、僕に一番馴染むように」
「……そんなの……!!」
「そんなの、じゃないよ」
凛の指が、再び俺の髪を撫でる。
まるでペットでも撫でるように、優しく。
「だって、もうこうしてるだけで、落ち着くでしょ?」
「……っ……」
本当は否定したい。叫びたい。
けれど――この距離、この匂い。
ほんの少しだけ、思考が緩んで、心が落ち着くような錯覚に陥る。
「僕の言葉、すごく聞きやすくなってるよね?」
「……何……?」
「αの時は、そんなことなかったでしょ?」
確かに。
凛の声が、こんなにも心地よく感じるなんて、ありえなかった。
「Ωってね、番の声が一番よく聞こえるんだよ」
「……!」
「れーちゃんの番は、僕だから」
俺は、唇を噛みしめて、言葉を失った。
心の中で何度も否定の言葉を叫んでも、口には出せない。
今、確かに――凛の言葉が、心に染み込んでいる。
認めたくない。
だけど――
(……違うって、言えるか?)
自分の身体が、確実に変わってきていることを、もう誤魔化すことはできなかった。
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20250831:改稿
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