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24 3日目 ― 式の準備

空気が、異様に静かだった。 いつも以上に、肌にぴったりと貼りつくような、張り詰めた沈黙。 照明は落とされて、唯一灯っていたのはベッド脇のスタンドライトだけ。 柔らかいその光が、辺りに淡く色を落としていた。 その薄明かりの中――俺は、裸のままベッドに横たわっていた。 掛け布も着衣も許されず、まるで“準備待ち”の展示品のように。 自分の存在が、“誰かのために仕立てられた”ものになっていく予感が、肌の表層をじりじりと炙ってくる。 部屋の奥のドアが、音もなく静かに開いた。 凛が、戻ってきた。 白いシャツに着替えていて、顔には穏やかな微笑みを浮かべていた。 一見すれば何の緊張感もないその仕草が、かえって不気味だった。 まるで“誰かを迎えるための儀式”を、粛々と進行させている神官のようで。 その手にあるものは、小さなタオルと洗面器。 ふわりと立ち上る湯気に混じって、微かに甘い、媚薬めいた香りが漂っていた。 「れーちゃん、起きてる?」 優しくかけられたその声に対して、俺の身体は、反応できなかった。 指一本動かせない。 目だけで凛の動きを追うと、彼はそのまま俺のそばにやってきて、静かに床に膝をつく。 洗面器の中の湯は淡く湯気を立てていて、どこか懐かしいような、記憶の底を撫でる匂いが混じっていた。けれどそれは、“甘美な記憶”ではない。 「少し、身体を拭くね」 俺は、何も言わなかった。 いや――言えなかった。 声を発するだけの力が、もう、どこにも残っていなかった。 凛の指が、俺の太ももにそっと触れる。 その瞬間、心臓が跳ねる。 温かいタオルが、肌をゆっくりと撫でるように滑っていく。 その動きに、暴力のかけらもない。 むしろ――慈しむような、愛情めいたやさしさがあった。 けれど、そのやさしさこそが――今は、いちばん怖かった。 (なんだこれ……なんで、こんなに丁寧なんだよ……) 乱暴に扱われるほうが、どれだけ気が楽だったか。 この、ひとつずつ丁寧に“整えられていく”感触。 まるで自分が、人間ではない何か―― 神に捧げられる供物や、装飾されたモノのように扱われている気がして。 喉の奥に、吐き気が込み上げてきた。 凛は一言も発さず、腕、胸、脇腹、足先へと、ひとつひとつ時間をかけて拭いていく。 その指先には、何の迷いもない。 愛撫でもない、けれど優しさが含まれた、まるで儀礼のような静けさ。 次に、クリームを手のひらに取り、俺の肌へとゆっくり伸ばしていく。 その香りは、アルファだった頃の自分の皮膚とは明らかに違う、どこか“オメガ的”な、柔らかく、湿度を帯びた匂いへと変わっていた。 「綺麗になったね、れーちゃん」 凛の声がそう言ったときには、すでに俺の身体は整えられ、 新しい白いシーツに替えられたベッドに、そっと戻されていた。 そのベッドからは、微かに凛の匂いが漂っていた。 香水ではない、“体温の記憶”のような匂い。 「……なんのつもりだよ……」 喉を焼くような痛みのなか、ようやく声が出た。 それは、ただの空気の震えにしか聞こえなかったかもしれない。 凛はベッドの端に腰を下ろし、俺の髪を撫でる。 指先がやさしく頭皮をなぞる感触に、少しだけ背筋が震える。 「ゆっくり休んでほしいなと思って」 「……なんでだよ……次、注射なんだろ……」 「うん。夜になったら、ね」 「じゃあ……なんで、こんなこと……」 凛は一拍おいて、微笑んだまま目を伏せる。 どこか祈りを捧げる前の神父のように、静かな所作だった。 「……大事な夜だからだよ。れーちゃんにとっても、僕にとっても――特別な夜になるから」 ――これは、儀式だ。 祝福ではない。 “新しい生”を与えられる前の、沈黙の式次第。 そして俺はその花嫁のように、 今――殺される前の静けさに包まれている。 (……っ、冗談じゃない……) 震えた唇から、かすかに声が漏れる。 「こんな、演出みたいなことして……お前、何考えてんだ……」 「怖い?」 凛の問いは、あくまで静かだった。 「……怖くないって言ったら、嘘だよね。でも――怖いものに触れて、初めて変われることってあるでしょ?」 「違う……変わりたくなんか……っ……!」 「そうだね、変わらなくてもよかった。れーちゃんはそのままで人生を謳歌出来ただろうね。でも、もう始めてしまったから。だから最後まで、ちゃんと綺麗に、終わらせたいだけ」 まるで、旅の終わりを告げるような。 あるいは、死刑執行前の赦しのような、言葉。 違う。 これは“別れ”ではない。 “始まり”の前にある、“終わり”だ。 凛が立ち上がり、そっと俺の髪を整える。 そして、頬に手を添える。 「次が、最後の一本だよ」 そう言って、微笑む。 「……れーちゃん、よくここまで頑張ったね。ごめんね、狂った僕に付き合わせて。最後まで、責任取るから」 その言葉は、妙にやさしくて。 だからこそ、俺の体は小さく震えた。 “終わる”と知っていながら、何が終わるのかは――まだ、分からなかった。 けれど、確かにひとつだけ分かっていることがある。 この夜が、“最後の自由”だった。 それだけは、確かだった。 -------------------- 20250831改稿 リアクションやコメントいただけると嬉しいです♪ -------------------

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