25 / 35
24 3日目 ― 式の準備
空気が、異様に静かだった。
いつも以上に、肌にぴったりと貼りつくような、張り詰めた沈黙。
照明は落とされて、唯一灯っていたのはベッド脇のスタンドライトだけ。
柔らかいその光が、辺りに淡く色を落としていた。
その薄明かりの中――俺は、裸のままベッドに横たわっていた。
掛け布も着衣も許されず、まるで“準備待ち”の展示品のように。
自分の存在が、“誰かのために仕立てられた”ものになっていく予感が、肌の表層をじりじりと炙ってくる。
部屋の奥のドアが、音もなく静かに開いた。
凛が、戻ってきた。
白いシャツに着替えていて、顔には穏やかな微笑みを浮かべていた。
一見すれば何の緊張感もないその仕草が、かえって不気味だった。
まるで“誰かを迎えるための儀式”を、粛々と進行させている神官のようで。
その手にあるものは、小さなタオルと洗面器。
ふわりと立ち上る湯気に混じって、微かに甘い、媚薬めいた香りが漂っていた。
「れーちゃん、起きてる?」
優しくかけられたその声に対して、俺の身体は、反応できなかった。
指一本動かせない。
目だけで凛の動きを追うと、彼はそのまま俺のそばにやってきて、静かに床に膝をつく。
洗面器の中の湯は淡く湯気を立てていて、どこか懐かしいような、記憶の底を撫でる匂いが混じっていた。けれどそれは、“甘美な記憶”ではない。
「少し、身体を拭くね」
俺は、何も言わなかった。
いや――言えなかった。
声を発するだけの力が、もう、どこにも残っていなかった。
凛の指が、俺の太ももにそっと触れる。
その瞬間、心臓が跳ねる。
温かいタオルが、肌をゆっくりと撫でるように滑っていく。
その動きに、暴力のかけらもない。
むしろ――慈しむような、愛情めいたやさしさがあった。
けれど、そのやさしさこそが――今は、いちばん怖かった。
(なんだこれ……なんで、こんなに丁寧なんだよ……)
乱暴に扱われるほうが、どれだけ気が楽だったか。
この、ひとつずつ丁寧に“整えられていく”感触。
まるで自分が、人間ではない何か――
神に捧げられる供物や、装飾されたモノのように扱われている気がして。
喉の奥に、吐き気が込み上げてきた。
凛は一言も発さず、腕、胸、脇腹、足先へと、ひとつひとつ時間をかけて拭いていく。
その指先には、何の迷いもない。
愛撫でもない、けれど優しさが含まれた、まるで儀礼のような静けさ。
次に、クリームを手のひらに取り、俺の肌へとゆっくり伸ばしていく。
その香りは、アルファだった頃の自分の皮膚とは明らかに違う、どこか“オメガ的”な、柔らかく、湿度を帯びた匂いへと変わっていた。
「綺麗になったね、れーちゃん」
凛の声がそう言ったときには、すでに俺の身体は整えられ、
新しい白いシーツに替えられたベッドに、そっと戻されていた。
そのベッドからは、微かに凛の匂いが漂っていた。
香水ではない、“体温の記憶”のような匂い。
「……なんのつもりだよ……」
喉を焼くような痛みのなか、ようやく声が出た。
それは、ただの空気の震えにしか聞こえなかったかもしれない。
凛はベッドの端に腰を下ろし、俺の髪を撫でる。
指先がやさしく頭皮をなぞる感触に、少しだけ背筋が震える。
「ゆっくり休んでほしいなと思って」
「……なんでだよ……次、注射なんだろ……」
「うん。夜になったら、ね」
「じゃあ……なんで、こんなこと……」
凛は一拍おいて、微笑んだまま目を伏せる。
どこか祈りを捧げる前の神父のように、静かな所作だった。
「……大事な夜だからだよ。れーちゃんにとっても、僕にとっても――特別な夜になるから」
――これは、儀式だ。
祝福ではない。
“新しい生”を与えられる前の、沈黙の式次第。
そして俺はその花嫁のように、
今――殺される前の静けさに包まれている。
(……っ、冗談じゃない……)
震えた唇から、かすかに声が漏れる。
「こんな、演出みたいなことして……お前、何考えてんだ……」
「怖い?」
凛の問いは、あくまで静かだった。
「……怖くないって言ったら、嘘だよね。でも――怖いものに触れて、初めて変われることってあるでしょ?」
「違う……変わりたくなんか……っ……!」
「そうだね、変わらなくてもよかった。れーちゃんはそのままで人生を謳歌出来ただろうね。でも、もう始めてしまったから。だから最後まで、ちゃんと綺麗に、終わらせたいだけ」
まるで、旅の終わりを告げるような。
あるいは、死刑執行前の赦しのような、言葉。
違う。
これは“別れ”ではない。
“始まり”の前にある、“終わり”だ。
凛が立ち上がり、そっと俺の髪を整える。
そして、頬に手を添える。
「次が、最後の一本だよ」
そう言って、微笑む。
「……れーちゃん、よくここまで頑張ったね。ごめんね、狂った僕に付き合わせて。最後まで、責任取るから」
その言葉は、妙にやさしくて。
だからこそ、俺の体は小さく震えた。
“終わる”と知っていながら、何が終わるのかは――まだ、分からなかった。
けれど、確かにひとつだけ分かっていることがある。
この夜が、“最後の自由”だった。
それだけは、確かだった。
--------------------
20250831改稿
リアクションやコメントいただけると嬉しいです♪
-------------------
ともだちにシェアしよう!

