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25 3日目ー発情の兆しと9回目の注射
照明はすでに落とされ、壁際のスタンドライトだけが、ぽつんと橙色の光を灯している。
それは静けさの中に沈む世界の、わずかな境界線のようだった。
部屋は静かだった。
耳鳴りがするほどに、静かだった。
けれど――凛の姿が見えなくても、「完全に一人だ」とは思えなかった。
この空間全体に、あいつの匂いが染みついている。
空気の粒子のひとつひとつが、凛の存在を含んでいて、それが肌に貼りついてくるような感覚だった。
気が狂いそうだった。
新しいシーツに取り替えられてから、凛はこのベッドに一度も横になっていない。
けれど、それでも――
俺の身体は、明確に“そこにいた”ことを感じ取っていた。
シーツに横たわったまま、目を閉じる。
眠れるわけがなかった。
脳の奥がぐらぐらと揺れている。
理性の内側から、じくじくと泡が立つような感覚。
なにかが、もう、変質を始めている。
身体が熱い。
喉が渇く。
指先が勝手にびくりと動く。
でも――
いちばんおかしいのは、腹の奥だった。
そこだけが異様に、熱を孕んでいる。
ただ熱いだけじゃない。
疼くには鈍すぎて、痒いには鋭すぎる。
名付けようのない、言葉にならない衝動が、内臓の底を這っている。
(……これが、ヒート?)
目を閉じたまま、何度も深く息を吸おうとした。
けれど――鼻腔にまとわりついた凛の匂いが、呼吸のたびに頭をぼうっとさせる。
微かに甘い、どこか懐かしい香り。
それなのに――どうしようもなく不快で、気持ち悪い。
“違う、これは違う俺じゃない”
心の中で、何度も何度も繰り返す。
呪文のように、すがるように。
けれど、虚しくなるばかりだった。
体の奥では、“それ”が、すでに自分とは別の意志を持って動き始めていた。
気づけば、腰がわずかに揺れていた。
何をしているのか、最初は分からなかった。
けれど、シーツに擦れる下半身の異様な感覚に気づいた瞬間、全身が総毛立った。
(俺、何して……っ)
起き上がろうと、力を込めた。
けれど熱のせいか、体が石のように重く、動かない。
そのときだった。
太ももの内側から下腹部にかけて、汗なのか、別の何かなのか――
じっとりとした湿気が張りついていた。
息を呑む。
(違う、俺は……! 俺はアルファだろ!?)
何度思っても。
何度否定しても。
この身体は、もう、そうじゃないと突きつけてくる。
拒絶しようとしても、奥の奥で別の“自分”が目を覚まし、蠢いている。
凛に触れられた場所だけが、記憶よりもずっと敏感だ。
皮膚の上をシーツの繊維がかすめるだけで、意識が持っていかれそうになる。
(おかしい……こんなの、おかしい……!)
誰かに訴えたい。
けれど、“誰か”なんて、もうこの部屋にはいない。
この世界には、もう――凛しか存在しない。
そのとき、ベッドの外で、ドアの開く音がした。
ぎし、と小さく軋む床の音。
「……れーちゃん。起きてるよね」
静かな声だった。
あまりにも想像通りの声で、逆に吐き気がした。
なのに――体は、動かない。
「身体、熱くなってるでしょ」
「……うるさい……」
「ふふ、ねえ、ほら」
凛が、ベッドの脇に腰を下ろす。
手には、見慣れたペン型の注射器。
見た瞬間、喉の奥がひきつった。
「いよいよ、9回目だね」
明るく告げられた言葉が、喉を刺すように突き刺さる。
「やめろ……今さら……っ」
「ううん。むしろ、今だから、なんだよ」
「もう……変わったんだろ、俺は……」
「まだ“なりかけ”だよ。ここで止めたら、中途半端なまま苦しむよ」
凛が、俺の手首をそっと持ち上げる。
その触れ方が、あまりにもやさしくて、逆にぞっとした。
皮膚の奥から、心臓の鼓動が凛に伝わっていくような錯覚に、背筋が冷たくなる。
「ねえ、れーちゃん」
「……っ……」
「このままでもいい。逃げたければ、逃げてもいい。でも、今のままじゃ、れーちゃん、ずっと“中途半端なまま”になる。ずっとこのまま、だよ。苦しいまま」
「……黙れ……」
「怖いのはわかるよ。でも、これは――儀式だから」
凛が、注射器を構える。
先端が俺の腕に触れる。
冷たい金属が皮膚を押し――
「っ……!!」
一瞬の刺すような感触。
その直後、熱が体内へと流れ込む。
液体というより、呪文のようだった。
魔法のように、全身を、根っこから塗り替えていく。
(……ああ、もう……だめかもしれない……)
思考が、沈んでいく。
理性が、奥底へと沈降していく。
そのすべてを追いかけるように、凛の匂いが鼻腔に濃く満ちていく。
吸うたびに空気が熱い。
吐くたびに、腹の奥がきゅう、と疼く。
「これで……終わり。最後の一滴まで、入ったから」
凛が注射器を外し、代わりに額に手を当てた。
「れーちゃん……大丈夫だよ」
「っ……なにが……だいじょ……ぶ、だよ……」
「もう、何も考えなくていい。僕だけを感じて。れーちゃんの番は、僕だけだから」
その声が、やけに遠く響いた。
まるで、水の中で聞こえる声のように。
それなのに、その遠さに――
少しだけ、安心してしまった自分がいたことが、何より恐ろしかった。
(……次は、“番”の儀式だ。凛と……)
意識が、ぐらりと揺れる。
世界が音もなく傾いていくなかで、
“すべてを終わらせる夜”が、
ゆっくりと、その幕を開けようとしていた。
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20250831:改稿
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