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30 籠の外、掌の中

玄関が閉まる音を、僕は静かに待っていた。 扉の向こうで、玲央は迷っていた。 きっと彼の中では、何十回、いや何百回も、同じ問いを繰り返していたに違いない。 「ここにいるべきか」「逃げるべきか」「これは罠じゃないのか」と。 でも、玲央は――戻ってきた。 期待通りに。 予想通りに。 それでも、僕の胸の奥に生まれた安堵は、紛れもなく本物だった。 彼は泣きながら、僕の腕の中に飛び込んできた。 震える肩を、そっと抱きしめる。 そのたびに、自分の心がゆっくりと静まっていくのがわかる。 これで、もう本当に逃げられない。 大事なのは、“強制された”のではなく、“自分で選んだ”という構図。 それさえ整えば、玲央にとって僕はもう檻じゃない。 ――“帰る場所”だ。 どれほど歪んでいても、それが「正しい選択」に見えるよう、仕込んできた。 そう仕組むことが、僕のやり方だった。   あの日から、数日が過ぎた。 玲央の体調は、日に日に落ち着きを見せはじめていた。 発情のピークは過ぎ、フェロモンの波もようやく収まってきている。 完全なΩとしての身体が、安定し始めた証拠だ。 ――僕は、その“タイミング”を待っていた。 「れーちゃん、体の調子はどう?」 そう訊くと、玲央は少し眉をひそめて、低く答えた。 「……別に、普通」 素っ気ない返事。 けれど、ちゃんと僕の目を見ている。 焦点が合っている。 そこに意識の芯がある。 いい傾向だ。 「ならさ。もうそろそろ、外に出てみない?」 僕がそう告げると、玲央は反応を見せた。 ピクリと眉が動き、目に疑問の色が浮かぶ。 「外って……」 「芸能の仕事……戻ってみたくない?」 「……え?」 その反応が、たまらなく可愛い。 一瞬、警戒心と戸惑いが混じった表情。 でもその奥に、確かに“期待”が潜んでいた。 「もちろん、無理はしないで。辛かったらすぐにやめてもいい。でも、あの場所で輝いてた君を、また見てみたいって思う人は、たくさんいると思うよ」 言葉を綴るたびに、玲央の心が少しずつ揺れていく。 その揺れを、僕は掌で感じ取っている。 「……なんで、そんなこと……」 問い返すその声音に、まだ意志が残っているのがわかる。 けれど、もう僕の誘導の範囲内だ。 「僕は確かにれーちゃんと“番”になりたかった。だから……僕の一存だけで進めてしまった。だけど、れーちゃんの人生そのものを奪おうとは思ってない」 その一言で、玲央は言葉を失った。 それ以上、反論はなかった。 もちろん、すでに環境は整っている。 何もかも、ずっと前から。 ――彼を閉じ込めることなく、手の中に保つために。 事務所には「体調不良による休養」として連絡済み。 必要な診断書も、医療データも、僕の手元にある。 ただし、事務所は念のため買収しておいた。 父に頼めば、そんなことは造作もない。 利点を整理し、資料を揃え、「僕の大切な人のためだよ」と言えば、あの人はためらわない。 何せ父は僕を溺愛している。甘いほどに甘い。 マネージャーは、僕が選んだ。 若く、気が利いて、優秀で――僕に忠実な人間。 玲央の傍に、僕の目があるという構図は、何よりも重要だ。 「事務所にもね、ちゃんと話はしてあるから大丈夫だよ。マネージャーさんは変わるみたいだけど」 「……なんか、お前……用意良すぎて、気味悪いんだけど」 「たまたまだよ。偶然」 そう言って微笑む。 もちろん、偶然なんかじゃない。 すべては、最初からこの日を迎えるために組み上げられた計画。 そして。 玲央は最終的に、復帰を決めた。 体調を考慮して、まずは軽い撮影から始める。 撮影現場の反応も、概ね好意的だった。 彼の少し痩せた頬も、雰囲気の変化も、“深み”として評価された。 知名度は学生時代よりも格段に高い。 それを、玲央の家族も自然に喜んでいた。 「なんで……なんで、俺、こんなにうまくいってるんだろうな……」 時折、そう呟く玲央の声が、僕の耳に残った。 ――それはね、れーちゃん。 全部、“うまくいくように”仕組んであるからだよ。 カメラの角度、照明の温度、SNSの空気。 すべては舞台装置。 君が“自分で選んだ”と思えるよう、隅々まで演出されている。 たとえ君が再び表舞台に立っても、 その舞台の袖には、ずっと――僕がいる。   ある晩。 玲央がシャワーから出てきたとき、僕はベッドの上で、小さな箱を開いていた。 中には――指輪。 シンプルな、プラチナのペアリング。 「……何、それ」 玲央の声が、ほんの少し強張る。 「君の薬指、ずっと気になってたんだ」 「気になってた、って……」 「まだ空いてるのが、不自然だなって。番になったのに」 「……っ……」 そのひと言に、玲央は小さく肩を揺らした。 僕は彼の手を取り、ためらいもなく、その左手薬指に指輪をはめる。 「お揃いだよ」 「……なんで……なんで……」 「僕ら、夫婦でしょ?」 「……そ、れは……でも……」 「君は可愛い、可愛い僕のお嫁さん」 その指に触れた瞬間、思いがけず自分の手が微かに震えた。 ……だめだな、僕。 ここまで計画通りだったのに、言葉が少し詰まってしまった。 「……ずっと、こうしたかった」 玲央と目が合う。 その瞳に映る僕が、いつもより少しだけ――弱く見えた気がした。 指輪は、冷たかった。 けれど、玲央の指の熱ですぐに温まっていく。 その震えが、拒絶なのか、受容なのか。 どちらでもいい。 どちらであっても、もうこの手は、離さない。 だから僕は、その細い指をそっと持ち上げ、唇を落とす。 この世界に、これ以上確かなものはないと思えるほど、 甘く、静かに、確かに、 玲央はそこにいた。 掌の中で微かに震える玲央は、 もう逃げない。 戸惑っても、僕の手から離れない。 ――それで、もう充分だ。   永遠に。ずっと。君と一緒に。 -------------------- 20250831:改稿 リアクションやコメントいただけると嬉しいです♪ -------------------

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