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29 4日目ー静けさの朝

目覚めた瞬間、最初に意識が拾い上げたのは、身体のどこにも違和感がないという事実だった。 あれほど悩まされていた熱も、重さも、もう影すら感じられない。 じりじりと皮膚の裏を這っていたような焦燥も、腹の奥をかすかに揺らしていた疼きも、まるで幻だったかのように、ひとつ残らず消えていた。 なのに――胸の奥だけが、ひどく、落ち着かない。 むしろそこだけが、変に浮いているような、そぐわない感覚だった。 (……終わったのか?) 思考はまだ、霞の向こうで揺れている。 けれど、まぶたの隙間から見える景色だけは、やけに鮮明だった。 そこに広がっていたのは、知らない天井ではない。 むしろ……この数日のあいだに“慣らされて”しまった、見慣れすぎた天井。 部屋の空気は澄んでいて、白く整えられたシーツには淡く洗剤の香りが残っている。 その奥にある、もっと濃い香り――それを感じた瞬間、肺が本能的に反応し、俺は慌てて息を止めた。 あの匂い。凛の匂い。 吸ってしまえば、記憶が呼び戻される。 身体が覚えてしまった香りを、もう“なかったこと”にはできない。 (……違う。そんなの、嗅いでない) 自分にそう言い聞かせて、鼻の奥を無理やり閉ざす。 でも、もう遅かった。 名前を与えなくてもわかる。俺の内側が、それを正確に識別していた。 起き上がると、足元には服が用意されていた。 下着。Tシャツ。スウェット。どれも俺のサイズで、色も、質感も、馴染みがある。 少し前まで、当たり前のように使っていたブランドのもの。 ――いや、あれとまったく同じ型番だ。再現されている。 懐かしさよりも、むしろゾッとするような既視感。 “計算されたやさしさ”に触れたときの、不自然な寒気。 部屋のどこを見ても、凛の姿はなかった。 でも、ここには確かに“凛”がいる。 匂いの残滓が、空気の膜のように漂っていて、俺の肺に沈んでくる。 (……なんで……) ここまで“整えられて”いれば、気づかないほうがどうかしている。 これはあきらかに――用意された“出口”だ。 部屋を出て、玄関にたどり着く。 そこには、俺が最後に履いていたスニーカーが、まるで展示品のように美しく揃えてあった。 整えられすぎていて、不気味なほどだった。 命令されたわけでもない。 封じ込められているわけでもない。 自由であることが提示されている空間――そのことが、逆に異常だった。 (逃げられる……?) 言葉になるより先に、脳の奥に浮かんだ問い。 それは光のように速く、でも心を深く貫いてきた。 (……逃げるって、どこに……?) 当然のように、選択肢はあるはずだった。 俺には家がある。家族も、職場も、過去も、あった。 そのどれもが、俺の世界だったはずだ。 でも――足が、動かなかった。 着替えるとき、手はまったく震えなかった。 思い通りに腕も脚も動いた。 何もかもが“回復”していた。 なのに、なぜか足だけが、その場を踏み出せない。 玄関の向こうにある“外”を、ただ見つめているだけで、胸が痛む。 ドアノブに手をかけた。 金属の冷たさが、皮膚から骨へ、そして心臓の奥へと染みていく。 押せば開く。 分かっている。 でも、その先が――真っ黒に見えた。 闇。 もしくは奈落。 (このまま、出られるのか……?) 誰もいない。 凛もいない。 止める声も、引き止める手もない。 なのに、それが、まるで“見張られている”ように感じる。 完璧に整えられた逃走路。 開いたままの扉。 どこまでも冷静な“配慮”。 (……これは罠だ) でも、罠でもいい。 逃げられさえすればいい。 ここを出れば、すべてが変わるはずだ。 そう思っていたのに。 俺の手は、微かに震えていた。 足が、地面に縫いとめられていた。 (俺、なに考えてんだよ……) 喉が詰まる。 うまく吐き出せないものが、そこにずっとこびりついていた。 息を吸う。 けれど、空気にはまだ、残っていた。 凛の匂い。 それは香水や洗剤の匂いではない。 “本能が刻んでしまった”ものだ。 (こんなの……全部、仕組まれてる……!でも、出てしまえば変わる) 必死にそう信じようとしていた。 ――そのとき。 「出たいなら、出ていいよ」 静かに、けれど真後ろから響いてきた声。 凛。 その名を呼ぶまでもなく、背中が反応する。 氷水を流し込まれたように、背筋がこわばった。 「逃してあげる。どこに行っても、探したりしないよ」 まるで夢の中の囁きのように――優しい、けれど毒のような言葉。 (ほんとに……逃げていいのか?) それを判断するのは、俺自身。 でも、それを口にする前に。 また、その声が続いた。 「逃してあげるよ」 同じ言葉。 同じトーン。 それが耳に滑り込み、心に絡みつく。 分かっている。 凛は、すべてを知った上で、俺にその言葉をぶつけている。 俺がどう受け取り、どう苦しみ、どう選ぶかまで―― 計算済みだ。 「……ふざけんなよ……」 かすれた声が、喉の奥から漏れ出た。 自分でも驚くほど、幼く、脆く響いた。 「何が“逃してやる”だよ……お前、俺を……こんなにしておいて……」 振り向くと、そこに凛がいた。 まるで最初から“いた”かのように、ただ静かに立っていた。 白いシャツ。 整えられた髪。 いつも通りの、穏やかで落ち着いた表情。 まるでこの数日間に起きたすべてを、“無かったこと”のように見つめていた。 「れーちゃんが望むなら、僕は止めないよ」 その言葉が、恐ろしく正確に俺の迷いを刺してきた。 まるで、俺の奥底を読んでいるように。 「……止めない、って……」 言葉に詰まる。 言いたいことは山ほどあった。 けれど、舌が動かなかった。 どの言葉を選んでも、すべて“負け”になる気がして。 凛は一歩、俺に近づいた。 「それにね。……出たって、きっとすぐに戻ってきたくなるよ」 その言葉が、すべてだった。 まるで、俺がこの先に抱くはずの未来まで、凛はもう見えているようだった。 それがたまらなく悔しくて。 哀しくて。 でもなぜか――否定できなかった。 「……俺は……っ、戻らない、出たら、戻らない……」 精一杯、しぼり出した言葉は、むなしく空気に溶けた。 「本当に?」 問い返されて、心がぐらついた。 “本当か?”と問われたとき、自分でも答えが見えなかったからだ。 逃げれば、元の生活に戻れると思っていた。 けれど――その“元の生活”が、どんなものだったか、いまはもう遠すぎて思い出せなかった。 俺のすべては、すでにこの場所で上書きされていた。 「僕はね、全部が終わったられーちゃんのこと、自由にしてあげたかったんだ」 凛の声は、やけに優しく響いた。 それがまた、耳に刺さるように痛かった。 「は……?」 自由? 今さら、“自由”だと? 「無理に閉じ込めるのって、番としては最低でしょ。だから最後は、れーちゃんに選んでほしいって思ってた」 都合のいい理屈。 でも、それでも…… 俺はその“選ばされた自由”に、今まさに沈もうとしていた。 「だから、出ていいよ。ほら、玄関も開いてる」 凛の目線が、俺の後ろを示す。 そこには確かに、開かれたドアがあった。 けれど、もうそこは“外”ではなかった。 白く光る逃走路は、いまや底知れぬ穴のように見えていた。 一歩踏み出せば、俺は自由になる。 そう思っていた。 でも本当は、違っていた。 「……外、寒いよ?」 そのひと言が、決定打になった。 足が、動かなかった。 「……うるさい……黙れよ……っ……!」 叫ぶように吐き出した声は、反響もせず、ただ空気の中に溶けていった。 それでも足は凛の方へ向いていた。 逃げるべき扉は背後にあるのに、視線も、意識も、凛に向いていた。 「……っ……う、あ……っ……!」 涙が、こぼれた。 止められなかった。 感情の名もわからないまま、ただ溢れてきた。 自分が、なにを失ったのか――それすら分からない。 でも確かに、なにかが“戻れない場所”にあると感じていた。 一歩。 また一歩。 玄関から凛のもとへ、足が動く。 それは意志ではなかった。 身体の反応。 もしくは、魂の選択だった。 ドアは遠ざかっていく。 振り返ることはしなかった。 代わりに――その先で、“逃げ道”が静かに閉じる音を確かに聞いた。 「……れーちゃん、おかえり」 凛の声が、まるで呪文のように響いた。 「違う……違うから……俺は、ただ……!」 「うん、わかってるよ」 その言葉が、逆に心を砕いた。 “わかってる”と言われるたびに、俺は自分を否定できなくなる。 凛の腕が、そっと俺の手首を取った。 その体温が、心の奥にまで染み込んでくる。 そのぬくもりに、崩れるように身を預けてしまった。 それが、何よりも悔しかった。 「大丈夫。もう、全部終わったから」 「……うそつけ……全部、始まったばっかりじゃないか……」 泣きながら、そう吐き捨てる。 それでも、俺は―― 確かに、“凛の腕の中”に帰っていた。 -------------------- 20250831:改稿 --------------------

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