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番外編1 夢で会えたら

夢の中で、俺はまだアルファだった。 それは不思議な感覚だった。自分が「変わる前」に戻っている、という確信があった。 身体が軽くて、熱もない。重力のようにまとわりついていたあの香りも、胸の奥を灼くような疼きも、何もない。 ただ、静かで、透明な空気だけがそこにあった。 目の前には、懐かしい学校の屋上が広がっていた。 くすんだフェンス、掃除用具入れ、風に煽られてパタパタとめくれる貼り紙。 夕暮れが少しずつ滲んで、景色を金色に染めていく。 この場所は、よく俺と凛が授業を抜けてサボっていたところだ。 凛が――そこにいた。 制服のまま、ベンチに座って本を読んでいた。 薄い唇が、ページをめくるたびに微かに動く。 風が吹くたび、髪が揺れて、日差しに透ける。 まるで何も起きていない頃の凛だ。 あの、ただの友達だった頃の凛。 “番”でも、“支配者”でもなく、 ただ静かに隣にいてくれるだけの――凛。 「……なに読んでんの」 思わず、そう声をかけた。 凛は顔を上げる。 ああ、この目だ。 いつか、俺が何度も見逃した“気配”のような優しさが、そこにあった。 心の奥を、そっと撫でられるような、曖昧で、形のない感情。 「れーちゃん、おそい」 名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。 懐かしい声。懐かしい響き。 なにも混じっていない、“好き”とか“欲しい”とか、 そういう色がついていない、純粋な音だけの呼び名。 俺は凛の隣に腰を下ろす。 距離が、ほどよく近かった。 この頃は、これくらいが心地よかった。 「さぼってばっかだな、俺ら」 そう言ったら、凛が少しだけ笑った。 笑う時の凛は、いつも眉尻をわずかに下げる。 それが何故か、いつも寂しげに見えたことを思い出した。 「れーちゃん、最近ずっと疲れてる顔してるよね」 「……え?」 「なんかね、寝ても寝ても眠そうな顔してる。目の奥が、泣きそうな色してる」 それは、今の俺にしか当てはまらない表現だった。 けれど――凛は、今の“俺”を見ているような口調だった。 「疲れてないよ」 「うそ」 一瞬で否定された。 「れーちゃん、強がる時、口角だけちょっと上がるんだよ。今もそうなってる」 くすりと笑って、凛は空を仰ぐ。 俺もその視線を追って、同じように空を見る。 雲ひとつない空だった。 「……このままずっと、何も変わらなきゃいいのに」 俺がそう言うと、凛は何も言わず、ただ静かに頷いた。 それが、答えだったのかもしれない。 「俺さ、最近よく夢見るんだ。全部終わったあとに、また始まる夢」 「また始まる?」 「……なんか、いつまでも終わんない。ずっと同じこと繰り返して、でもちょっとずつ違ってて……最後に“逃げても無駄だよ”って、誰かに言われる」 それが夢の中の話なのか、現実の話なのか、自分でも分からなかった。 「……逃げたいの?」 「分かんない。逃げたかったはずだったんだけど、今は……」 言葉が続かなかった。 凛が、そっと俺の手を取った。 「……ここなら、逃げなくていいよ」 やさしく、でも深く沈む声でそう言われて、俺は一瞬だけ涙がこぼれそうになった。 (――ああ、やっぱりこれは夢だ) そう思った。 こんな風に穏やかに手を握られて、 やさしい嘘をつかれるような瞬間なんて、現実にはもう、ありえない。 俺が“番”になったあの日から、 凛は優しくなったけど、もう“やさしい人”ではなくなった。 俺の自由も、俺の痛みも、全部知ってて、それでも構わず奪ってくるような人になった。 でも優しい。だから、嫌いにもなれない。 でも――この夢の中の凛は、 まだ俺を“選ばない自由”を許してくれるような顔をしている。 「凛、さ……」 俺は、もう一度名前を呼ぶ。 けど、言葉が出てこなかった。 ああ、でも、言わなきゃ―― 「……もう、こういうの……」 ここで終わらせたくない。 でも、ここに居続けたら、きっと目覚められなくなる。 だから、俺は。 「さようなら、凛」 その言葉が口から漏れた瞬間―― 景色が、静かに色を変えた。 ――目覚めた時、まぶたの裏にまだ、夕焼けが焼きついていた。 部屋はすっかり朝の光に満たされていたのに、身体の内側だけは、夢の続きを引きずっていた。 夢の中の凛は、なにも求めてこなかった。 ただ、俺のそばにいて、黙って手を握ってくれていた。 それが、なぜかものすごく、切なかった。 ゆっくりとシーツから身体を起こす。 スリッパに足を通し、リビングへ。 そこに、今の凛がいた。 キッチンで朝食の準備をしていた凛が、俺の足音に気づき、振り返る。 「おはよう、れーちゃん」 少し寝ぐせが残っている髪。 淡いベージュの部屋着。 エプロンの紐が、ほんの少しだけ斜めに結ばれていて、相変わらず完璧じゃない。 それなのに――この部屋の空気は、もう“支配されている”ように静かだった。 凛のフェロモンはもう、感じるまでもなく、空気の中に“馴染んで”いた。 「……おはよう」 そう答えると、凛は安心したように笑った。 笑顔が、夢の中のそれと重なった。 でも、違う。 やさしさの裏側に、“所有”の影がある。 俺はもう、それを嗅ぎ分けることができるようになってしまっていた。 食卓には、俺の好きな朝食が並んでいた。 トースト、ハムエッグ、ヨーグルト、少し濃いめの紅茶。 「今日、午後からって言ってたよね? 撮影」 「うん……」 「送っていこうか?」 「……自分で行ける」 少しだけ強めに言ったつもりだった。 けど、凛はまったく気にした様子もなく、いつものペースでカップを差し出してきた。 「じゃあ、帰りだけ迎えに行くね」 (……そうやって、また“囲って”いくんだろ) 心の中で呟いた。 でも声には出さなかった。 撮影スタジオの控室、休憩中。 スマホに届いたメッセージをぼんやりと見つめる。 《今日は少し冷えるから、上着忘れないでね》 《甘いもの食べすぎ注意》 《僕のいない間、寂しかった?》 どれも短い。けれど、異様に支配的だ。 まるで子供扱い。いや、番扱い、か。 この数週間、俺の日常には当たり前のように凛が存在していて、 “れーちゃん”という名の檻の中が、少しずつ狭まってきていた。 それでも――俺は、逃げない。 逃げる理由がないわけじゃない。 逃げるための方法がないわけでもない。 ただ―― 俺が“もう自分で選んだ”と思ってしまっているからだ。 凛の手を取ったのは俺だ。 逃げ道を閉ざしたのも、他でもない俺の足だ。 ……逃げたところで、夢の中の凛には会えない。 あの凛は、もう“存在しない”。 ※ 家に戻ると、姉が来ていた。 「ちょっと、顔見に来ただけ」 そう言って笑う姉は、相変わらず理知的で、綺麗で、俺の心の動きなんて瞬時に読み取る人だった。 「最近、顔色いいじゃない」 「……そう見える?」 「見える。けど、“よく整えられてる”って言い方が正しいかもね」 それが、姉の言い方だった。 優しいようで、冷静な皮肉。 凛がキッチンでお茶を淹れているあいだに、姉が小声で耳打ちしてきた。 「ねえ、玲央」 「ん?」 「それ、本当に“望んだ幸せ”?」 声が耳の奥に刺さった。 「え?」 「いや……なんでもない。ごめん、無粋だったね」 そう言って、すぐに話を逸らされたけれど、 その一言はずっと頭から離れなかった。 帰り際、玄関で姉が俺の手を取って言った。 「逃げても、いいんだよ」 その言葉に――俺は、笑えなかった。 逃げるところなんて今の“俺”には、きっと──ない。 ※ その晩、ベッドの中。 隣には、いつも通り凛がいる。 「れーちゃん、まだ起きてる?」 「……ああ」 「夢、見た?」 「……見たよ」 「どんな?」 「……言いたくない」 凛は静かに笑った。 俺の頭を撫でる手が、優しくて、ずるいほどだった。 「また、僕が出てきた?」 「……昔の凛だった」 そう呟くと、凛の手がぴたりと止まった。 「昔、って?」 「高校の頃。屋上で、何も求めてこないで、ただ隣にいてくれるお前」 凛は何も言わなかった。 ただ、ゆっくりと手を下ろした。 「……そんな凛、もういないのにね」 そう続けると、凛は息をのんで―― 「……でも、今の僕の方が、れーちゃんを大事にしてるよ」 その言葉に、俺は目を閉じた。 大事って、なんだろう。 閉じ込めて、管理して、囲って、それでも“好き”と言えば、愛になるのか。 (でも――) 俺の指には、今もリングがある。 外そうと思えば、できる。 だけど、指は動かない。 それそこに、確かに想いがあるからなのだ。 認めたくないけど、認めざる得ない、想い。 凛の手が、そっと俺の手を包む。 その温度に、俺の身体は微かに震えた。 (……これが俺の選んだ“幸せ”なら――) その先を、思考で言葉にする前に、 凛が小さな声で言った。 「……夢でも、僕に会ってくれてありがとう」 その声に、俺は何も返せなかった。 カーテンの隙間から、夜がこぼれている。 この部屋には、外の世界の音は届かない。 窓の外は、たしかに繋がっているはずなのに―― 俺の世界は、ここで完結していた。 夢の中の凛は、今の凛より優しかった。 でも、今の凛のほうが、俺を“愛してる”と言う。 どちらが本物かなんて、わからない。 ただ、目を閉じれば、どちらも同じように心の中にいる。 明日、また夢を見たら―― 俺は、きっとまた同じ場所に行くだろう。 そして、夢の中でまた凛に言う。 「……さようなら」 でも、現実の凛の腕の中で―― 「……おやすみ」 そう呟く自分がいる。 それが、俺の今の“生き方”だった。

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