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番外編2 ほほえみの距離

朝の陽射しがゆっくりとカーテン越しに射し込んでくる。 玲央が眠るベッドの端、カーテンの隙間からこぼれ落ちる光が、そっと頬を照らしていた。 凛はその寝顔を、ただ静かに見つめていた。 起こすにはまだ少し早い。 けれど、どうしても、この時間が好きだった。 寝ている時の玲央は、無防備すぎるほどに幼く見える。 長い睫毛が微かに揺れていて、夢を見ているのか、時々眉が動く。 その仕草すら、愛しかった。 「……見てるの、分かってるからな」 目を閉じたままの玲央が、低く呟いた。 凛は驚きもしなかった。ただ、ゆっくりと微笑む。 「うん、知ってた。でも、可愛いから見てた」 「……バカじゃねぇの……」 そう言いつつも、玲央の声に怒気はなかった。 眠気の残る声でシーツに顔を半分埋める姿は、照れ隠しの一種だった。 凛は起き上がり、ベッドの端に腰を下ろす。 そっと毛布を整えながら、玲央の髪を撫でた。 「今日は、予定ないんだよね?」 「……うん。午後から家で取材がちょっと入ってるけど、それだけ」 「そっか。じゃあ、朝ご飯のあと、少しだけ出かけない?」 玲央が目を開ける。 寝起きの瞳が、まだ少しぼんやりしていたけれど、それでも凛を真っ直ぐ見つめた。 「どこに?」 「秘密。でも、近場。人の少ないとこ」 「また、お前の“完璧な計画”か?」 「うん。完璧なデートプラン」 玲央は小さく笑った。 その笑顔があまりに自然で、柔らかくて、凛は胸の奥が温かくなるのを感じた。 「……ま、いいけど」 「ほんと?」 「でもコーヒー飲んでからな。寝起きに外出は無理」 「了解」 凛はすぐに立ち上がり、キッチンへ向かう。 慣れた手つきで豆を挽き、ドリップする。 玲央の好きな濃さ、温度、香り。 毎朝のことだから、もう何も考えなくても手が動く。 香りが部屋に広がった頃、玲央がもぞもぞとベッドから起き出してきた。 寝癖のまま、少し不機嫌そうな顔でスリッパを引きずる姿に、凛は思わず笑ってしまう。 「なに笑ってんだよ」 「いや、もう完全に“うちの人”って感じがして」 「は? やめろキモい」 「うれしいってこと」 「……バカ」 カップを差し出すと、玲央はいつものように、文句を言いながら受け取る。 その口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。 ふたりは、もうこの空気に慣れていた。 言葉の端にとげを残しても、そこに本気の痛みはない。 昼前、小さな公園へ向かう。 車で10分ほどの距離。 都心の喧騒からは外れていて、人影もまばら。 凛があらかじめ調べておいた、ベンチと木陰の多い静かな場所だった。 ふたり並んでベンチに座り、ホットサンドと缶コーヒーを広げる。 玲央が食べているあいだ、凛は無言で空を見上げていた。 「……なんか、こうしてると不思議だな」 「何が?」 「うまく言えないけど……」 玲央は口を止めた。 コーヒーを飲み、空を見上げる。 「“普通”に見えるなって、思った」 凛は、ふっと小さく笑った。 「僕たちの“普通”だよ」 「……お前にとっての“普通”って、どんなだよ」 「うーん……朝起きて、れーちゃんがいて、隣で文句言って、でもちゃんとコーヒー飲んでくれて、こうして時間がある時は隣を歩いてくれて、夜にはまた隣にいてくれること」 「……ずいぶん欲張りじゃねぇか」 「それでも、昔よりは我慢してるよ?」 「こわ……」 でも、怖がるその声にも、もう本当の拒絶はなかった。 ふたりの距離は、確かにゆっくりと――けれど着実に、近づいていた。 ベンチに座ったまま、ふたりはしばらく何も話さなかった。 ただ空を見上げ、風の音に耳を澄ませ、時折り鳥の声に小さく笑い合う。 凛は玲央の横顔を盗み見た。 柔らかく流れる髪のすき間から、まっすぐに前を見つめる瞳がのぞいていた。 そこにあるのは、怒りでも、悲しみでもない。 淡々とした静けさと、ひどく遠くを眺めるような表情。 それを壊すのが惜しくて、凛はしばらく黙っていた。 けれど、やがて玲央がポツリと呟く。 「なあ」 「うん」 「……俺が、もしあのとき、家に帰ってたら……どうなってたと思う?」 その問いに、凛は少しだけ考えてから、静かに答えた。 「君は、きっと“全部なかったことに”しようとしたと思う」 「……ああ、たぶん」 「僕のことも、自分の変化も。忘れて、“普通”に戻ろうとした」 「うん」 「でも、きっと夜になっても眠れなかったと思う。匂いがなくて、声がなくて、呼吸が浅くなる。体が落ち着かなくて、何もかも上手くいかなくなる。……だって、君の身体はもう、僕のもので出来てるから」 玲央は苦笑した。 だが、その声に棘はなかった。 「最低だな、お前」 「ありがとう。最高の褒め言葉だよ」 「バカ」 言葉の応酬が、どこまでも自然に続く。 それがいつしか心地よくて、玲央は目を閉じて深く息を吸い込んだ。 風の中に、微かに凛の香りが混ざっていた。 それだけで、ほんの少し、胸の奥が落ち着く。 「……れーちゃん」 凛の声が、柔らかく響いた。 「なに」 「いま、幸せ?」 玲央は少し黙った。 答えを選ぶふりをしただけで、実際には、もう心の中に返答は浮かんでいた。 「……“幸せ”って、よくわかんねぇ」 「うん」 「でも……お前といると、なんか落ち着く」 「それでいいよ」 「でも、許したわけじゃないからな」 「知ってるよ」 「これからも、ちょっとは文句言うからな」 「むしろ言ってくれないと困る」 玲央は、ようやく笑った。 肩の力を抜いて、凛の方へ体を少し傾ける。 「……あーあ。お前といると、疲れる」 「え、どうして?」 「なんでも見透かしてくるし、なんか……こう、逃げらんねぇし」 「じゃあ、れーちゃんも見透かして」 「は?」 「僕のこと。言葉にしないぶん、見ててほしい」 玲央は、その言葉を反芻するように目を伏せた。 それは確かに、凛にとっての“愛してる”だった。 「……分かったよ」 ぽつりと、そう返す。 「俺も……ちゃんと、見てるから」 「ありがとう」 ふたりの間に、また静かな風が流れる。 カラスが鳴いた。 木の葉が揺れた。 遠くの方で子どもが笑い声を上げている。 けれど、ふたりの世界には、何もなかった。 ただ、互いの体温と呼吸と、確かな気配だけがそこにあった。 「……帰るか」 玲央が言うと、凛はうなずいた。 「うん。夕飯は、肉じゃがでいい?」 「……またそれかよ」 「だって好きでしょ?」 「……まあな」 肩を並べて歩く。 自然と、手が触れた。 握るでもなく、繋ぐでもなく、ただ触れたまま―― その温度を確かめるように、歩き続ける。 互いの存在が“当たり前”になるまで、 もう少し、時間はかかるかもしれない。 けれどこの距離、この静けさ、 そしてこのやり取りのひとつひとつが、 確かにふたりの“愛の形”なのだと思えた。 言葉では、きっと一生言えないけれど―― それでも。 ふたりは、歩いていく。 同じ温度で、同じ場所へ。

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