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第32話 お望み通りに(2)
お盆が過ぎて世間は夏休みも後半戦というムードになっていた。しかし、大学生の夏休みは長い。奏汰と光輝の大学が始まるのは九月下旬だ。
熱中症注意報が毎日発令されているが、今日も例に漏れずに暑い。そんなさなか、奏汰は光輝とともに水族館を訪れた。光輝の住む市内にあった場所だったが、アクセスが随分悪く奏汰の家からはだいぶ遠かったが、文句など言える立場ではなかった。
遊園地も併設されている広大なレジャー施設だったが、暑さを避けて水族館に客が集中しているようで、中はそれなりに混んでいて奏汰は一瞬怖気付いた。しかし、家族連れや子供が多く、特に奏汰と光輝に注目しているような人はいなかったので、内心胸をなでおろした。
こんな場所で知り合いに会うこともないだろうし、久しぶりに来る水族館は記憶よりも随分暗い。あまり周りを気にしないようにしよう、と奏汰は心に決めて目の前の水槽に集中することにした。
「………」
「…………」
順路通りにだらだら歩きながら水槽を見て回っているが、今日も光輝はテンションが低い。別段、生物にも興味がないように見える。子供達が水槽にへばりついているせいでもあるが、ほとんど流し見するだけで説明文も読まない。どうせ水族館も『恋人と行ってみたかった場所』なだけなのだろう。ペンギンがいるところでぼそっと「可愛い…」と漏らしただけで、特に感想は何も言わなかった。はしゃがれるよりマシか、と思いながら奏汰も静かに水棲生物を見て歩く。子供がキャッキャッと叫ぶ声や赤ちゃんが泣き喚く声、子を嗜める母親の声ばかり耳につく。
単調に進んでいたが、より一層暗いエリアに足を踏み入れた時、奏汰は光輝よりも歓喜の声を上げそうになった。そこはクラゲを展示しているエリアで、クラゲの美しさを際立たせるためか、照明は暗く、水槽は神秘的に輝いていた。
(くらげ…綺麗だな…)
奏汰は揺らめくくらげの水槽にぼうっと見惚れた。引き裂いた羽衣を落としたかのように透き通った物体が水中を漂っている。かと思えば透明なキノコのような物体が一定のリズムで各々泳いでいる。
ライトアップされたそれらはひどく幻想的だった。瞬く星を見つめている時と似たような気持ちになる。心がから汚いものが消えて清浄な空気で満ちていくような感覚。奏汰は綺麗なものを見るのが好きだった。
「……くらげ好きなの…?」
あまりに奏汰が時が止まったように水槽を眺めるものだから、光輝は声をかけた。すると奏汰は夢から醒めたような反応をする。
「えっ、あんまり生物には興味なかったんだけど、思ったより綺麗でびっくりしちゃった…」
と、はにかむように語る奏汰に光輝は少しだけ心がときめく。光輝は、これは食用のクラゲと何が違うのだろう、くらいの感慨しか抱かなかったのだが、奏汰は全然違ったようだ。星を見上げていた時の奏汰をふと思い出した。奏汰の好きなものを眺めている時の眼差しは微笑ましく感じる。
「そうですね…」
と言いながら光輝は水槽を見るふりをしながら、奏汰を盗み見た。だいぶ冷めてしまったと思っていたが、まだ奏汰を好きな気持ちが残っているらしい。いや、残っていたものなのか、再度芽生えたものかは分からない。しかしこの胸がきゅんとする感覚は気持ちが良かった。
エリア内は暗く、いわゆる映えスポットであるクラゲのエリアはメインどころで足を止める客が多い。皆一様に水槽に釘付けでどうにかして良い写真を撮ろうとしている。誰も奏汰と光輝などに注目していなかった。光輝はそれを確認すると呆けたように水槽の前で立ち尽くす奏汰の手にそっと自分の手を伸ばした。
「!」
一方、奏汰は驚いて反射的に手を振り払いそうになった。それをどうにか堪えた。光輝が自分の手を握っている。とてもじゃないが瞬時に握り返すことはできなかった。
奏汰は同性愛者で思われるような言動を極端に嫌う。それは光輝も理解してくれていて、随分我慢させていた自覚もあった。けれど今の光輝に奏汰のためを思って我慢する道理などないだろう。
試されているのかもしれない、と思いながら横目で光輝を見るが、彼はなんでもないポーカーフェイスを装っていた。しかし、少しだけ顔が強張っている。人目を怖がっているのではなく、奏汰に拒まれるのを恐れているのだ。
もう一度付き合って欲しいと頼んでから、一貫して冷たい態度を取り続けた光輝が奏汰に指一本も触れてくることはなかった。だけど、どういう意図かは分かりかねるがこうして好意を示してくれる態度を再び取ってくれた。ここで彼の機嫌を損ねるわけにはいかない。試されているなら応えたい、と奏汰は覚悟を決める。
(誰も、誰も見てない…いや別に見られたって、知り合いなんかいない…俺を知ってる人はここにはいない、俺を咎める人なんていないんだ。そもそも咎められるようなことなんてしてない…)
たかが手を繋ぐだけだ…大丈夫。大丈夫。大丈夫。と繰り返し念仏のように唱えながら奏汰は光輝の手をぎゅっと握り返した。
すると今度は光輝が驚いて奏汰の顔を見た。目が合う。奏汰はにこっと微笑んだ。光輝は恥ずかしそうに俯いてしまった。けれど嬉しそうだった。
(ああ、良かった…。ちゃんと『正解』できた…)
奏汰は気持ちを落ち着けようと深く息を吐こうとした。その瞬間だった。
「なにこれー!ヤバいんだけどー!」
と、若い女性同士がはしゃぐ声が聞こえて奏汰はびくりと身を震わせた。奏汰と光輝のことを言ったわけではないのはすぐに分かった。だというのに奏汰は動悸が止まらない。冷や汗が出てきた。体が強張る。怖くて視線も動かせない。
誰かに見られているかもしれない。
笑われているかもしれない。
馬鹿にされてるかも。
ネタにされているかも。
恥ずかしい。
恥ずかしい。
恥ずかしい。
男が好きなのが恥ずかしい。
「はっ…はぁ…はぁ…」
光輝が奏汰の異変に気付いたのはすぐだった。奏汰は空いてる方の手で口元を押さえて息を荒くしていた。暗くてよく分からないが顔から血の気が引いている。暑いはずなのに繋いだ手が随分冷たい。
「奏汰さん?」
「………」
奏汰は光輝の呼びかけに答えず俯いていた。
「………こっち来て」
光輝は奏汰の手を離すと服を掴んで足早にベンチへ引っ張っていった。
「水、飲めますか?暖かいものの方がいい?」
光輝は鞄からぬるくなった水を取り出すと奏汰に渡した。
「大丈夫、ごめん…」
奏汰は具合が悪そうに頭を深く下げたままベンチに座っていた。
「救護室に行く?」
光輝もその場にしゃがみ込み、下から奏汰の顔色をうかがう。
「そこまでじゃないから、大丈夫。コウくんも隣、座って」
わずかに顔を上げた奏汰の顔色は先ほどよりも良くはなっていたので、少しだけホッとした。
「俺に寄っ掛かっていいですよ」
光輝は隣に座ると奏汰に肩を寄せてくっついた。
「大丈夫……ありがとう……」
しかし、奏汰はくっつかない程度に離れてしまった。
「…………」
光輝はそのまま黙って奏汰が回復するのを待った。
子供の声や女性達の甲高い声が遠くから聞こえてくる。喧噪から離れたここだけが別の世界にいるようだった。ここで楽しく過ごしている人達と自分達は一体何が違うのだろう。と光輝は思った。
昼前だったが奏汰の体調を考えてそのまま解散した。
「はぁ……」
家に着くと奏汰はベッドの上に横たわって脱力した。暑さも長距離移動も堪えたが、光輝と手を繋ごうとしただけで体調を崩した自分自身に一番ショックを受けた。
今まで、恋人ができてもデートらしいデートをしてこなかった。何をしていたかというと人目につかない場所で食事をするかセックスしかしていなかった気がする。それも満足のいかないセックスを。
そして、人前で明け透けに愛情表現などしたこともなければ、されたこともない。光輝はそういうことが平気でできるし、したいのだ。
情けなくてぽろっと涙が出てくる。
手を繋ぐだけのことがあんなに恐ろしいとは思わなかった。
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