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第31話 お望み通りに(1)

「ほんとに知らないのにー!」と泣き叫ぶ子供の声が今も耳から離れない。幼い頃の兄の声だ。兄のとばっちりでおやつを食べられなかった歌音と俺はおやつを盗んだ。祖母は最初から「お兄ちゃんがやったのね」と疑ってかかり、俺も歌音も知らぬ存ぜぬの一点張りだった。 そして怒られたのは無実の兄だ。「どうしてそんなに悪い子なの!」と叫ぶ祖母の声と平手打ちの高い音と、半狂乱になった兄の声。当時はざまあみろとしか思わなかった。けれど、大人になった今もその時の音が呪いのようにへばりついて離れない。  お盆のカフェは意外にも空いていた。白を基調とした店内は席と席が離れていて、天井が高く開放感がある綺麗なカフェだった。窓からは港と海が一望できて、黄昏時には満席になるらしい。今はランチ前で店内はゆったりしていた。  ガラス張りの店内はよく採光されていて、波に反射した夏の自然光が店の隅に座る奏汰と光輝をちらちらと照らしている。  奏汰は白いシャツを着ていたので、いつも白い肌が余計に白く見えて綺麗だった。奏汰は日焼けもよく気にしていて、日焼け止めをまめにつけているようなタイプだった。反面、光輝は日焼けには無頓着で既にほんのり焼けていた。それが数ヶ月前まで高校生だった彼の未だ残る少年ぽさを余計に際立たせていた。  穏やかな微笑みを浮かべる奏汰とは反対に、光輝は仏頂面だった。奏汰は先ほどから光輝を少しでも笑わせようとあの手この手で話を振るが、彼は一向ににこりともしてくれなかった。  そもそも待ち合わせ時から光輝は冷めた態度で、無視をすることはなかったが、何を言ってもそっけない返事しかしないものだから、奏汰はそろそろ心がポッキリ折れそうになっていた。これが男女だったら機嫌を損ねた彼女と取り繕う彼氏 に見えたことだろう。  試されているのは分かっていた。先日の居酒屋での「全部言う通りにする」というダメ押しが効いたのか、奏汰は光輝ともう一度付き合ってもらえることになった。  今日も光輝が住まう方へ赴いて、彼が指定したカフェに来ていた。二人でお茶をするのは初めて会った時ぶりだ。奏汰は男性同士のカップルだと認識されることにひどく抵抗があり、なかなか人前でのデートを承諾しなかった。だが今の奏汰に拒否権はなかった。  お洒落な観光地として有名なこの港街はカップルが多い。この店も圧倒的に女性が多く、男性がいても女性の連れだった。  奏汰は、浮いてはいないか、目立っていないかとやや自意識過剰になっていた。他のテーブルの客と一瞬目が合っただけで冷や汗が出た。蔑まれるのも、好奇な目で見られるのも嫌だった。  けれど、落ち着かない気持ちを抱きながらも奏汰はなんとか光輝の機嫌を取ろうとしていた。  しかし会ってから三十分は経過しようとしている今も光輝は変わらずムスッとしている。後に引けないのもあるだろう。  耐えた者勝ちだ、とは分かっていたがこんな状態で好きな人にそっけなくされるのはしんどいものがある。  奏汰は落ち着いて落ち着いて…と心の中で呟きながら、深呼吸をして光輝に問う。 「どこか行きたいところとかある?」  光輝は紙でできたコースターにグラスの水滴が吸い込まれて染みを作り続けいるのを、映像を見ているかのように見つめていた。  目の前には、奏汰が必死に自分の機嫌をとっているのだが、なんだかどうしていいか分からない。何が正解か分からない。  こんな子供みたいに拗ねた態度を取るのが正しくないことだけは分かる。完全に無視をするほど意地悪にもなれなくて、かといって以前のように楽しい気持ちも消えてしまった。  奏汰のことが嫌いになったわけではない。でも好きなのかも今は分からない。分からないなら分からないなりに楽しめばいいじゃないかと思う。せっかく言いなりになってくれているのだし、と光輝は思う。  でも切り替えが上手くできない。 「じゃあ水族館行きたいです」  しばらく黙ってから光輝は返した。 「すいぞくかん…」  奏汰は水族館という単語を初めて知った子供のようにおうむ返しに呟いた。そんな『ザ・デートスポット』を指定されると思わなかったのだ。  その様子を見て光輝は拗ねたように 「嫌ならいいです」  と言ってぷいっとそっぽを向いてしまった。奏汰は慌てる。 「嫌じゃないよ…男同士で行ったら目立ちそうって思っちゃって…」 「…まぁ、そうかも」  光輝は『だからどうした』という態で返事を返した。奏汰はバレないように小さくため息をつくと 「分かった、行こう」  にこっと笑って返事を返したのだが、光輝は頬杖をついて港の景色を眺めている。 (くそ〜…いい加減にしてくれよ…)  と怒鳴りたくなるのを奏汰は必死に抑える。頼んだロイヤルミルクティーは間が持たず、とっくに飲み干してしまった。仕方なくミルクティーの味が残る溶けた氷水を口に含んだ。   「あー…そういえば佐伯くんって何か言ってた?」  奏汰は既に疲労困憊といった顔でずっと気になっていたことを尋ねた。あの日、居酒屋の懇親会でラストオーダーだと知らせに来た佐伯に完全に会話を聞かれたのだが、佐伯はその場では何も見なかった聞かなかったとばかりに早々に立ち去った。 「付き合ってたの?って聞かれました」  ですよね、と奏汰はうなだれる。光輝の方はしらっとしている。そもそも光輝が同性愛者であることは佐伯も知っていたようなので、光輝からしたらどうでも良いのだろう。 「……なんて答えたの?」 「想像に任せるって言いました」 「うわぁ〜」  と奏汰は顔を覆った。そんなのは肯定しているようなものだ。しかしあの場面を見られていたなら、もはや言い逃れできない。言い訳する方が不自然だ。 「他の人に言ったりしないかな…」 「さぁ…俺が高校の時ゲイバレしたの、あいつが原因だからどうでしょうね」  と光輝は視線を外に向けたまま冷たく言い放つ。 「えぇ……どうしよう、変な噂立ったら…」  奏汰は少しだけ血の気の引いた顔をしている。本格的に恐れているようだ。 「……ビビりすぎじゃないですか?」  光輝が呆れたように言うと、奏汰は悲しそうな困り果てたような情けない顔をして俯いた。優しい言葉をかけなかったから、追い討ちになってしまったようだ。 (コウくんがいれば何が起きても平気だよ、くらい嘘でも言えばいいのに…ダサ…)  と光輝はやはり理想と現実とは乖離してしまうものなのだ、とつまらない気持ちになっていた。   そして、やはり自分は奏汰を理想の恋人に仕立て上げ、都合の悪い部分は見ないようにしていたのだと思い知る。その点に関しては奏汰に申し訳なさすら感じるし、恋に恋をしていた自分の浅はかさにも呆れる。  理想の恋人が欲しくて急いていたのを奏汰は感じ取っていただろう。  同時に湧いてしまうのが、奏汰をもっと追い詰めてしまいたい嗜虐心だった。この人は本当に惚れた相手には強く出れないし弱い部分を曝け出したいのだ、光輝は気づいた。  それこそが奏汰がいうところのマゾヒズムなのだろう。  光輝には縁遠い性癖だと思っていたが、今の奏汰を見ていると今まで持ったことのない感情のベクトルが生まれていることに気づく。    この人は、  自分にどこまで逆らわないのか?  どこまで言うことを聞くのか?  どこまで自分を好きでいられるのか?  彼の限界と反応と従順さを知りたいという気持ちが小さく小さく芽生えていた。  外は波と太陽の光で白く美しく輝いていた。暑い夏はまだまだ続くだろう。

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