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第35話 お望み通りに(5)
自分に従順であること。
自分を好いていること。
自分よりも好きであること。
優位に立てるのはなんて気持ちがいいのだろうと光輝は思った。
望むままに動く様を見てると愚かしくて可哀想で愛しく見える。
けれどこんなのは絶対に間違っている。
かつて自分が好きな人にされて嫌だったことをしてしまっている。
こんなことはもうしてはいけない。
気持ちがいいけど楽しくない。
誰かをコントロールしたいと思ったらその関係はダメなのだ。
「もう、やめよう…」
光輝はうんと頷いて、卵と牛乳に漬した食パンをバターを引いたフライパンに放り込んだ。独り言だった。時刻は8時過ぎで既に太陽はさんさんと照り輝き、カーテンの隙間から陽の光が注ぎ込んでいた。今日も暑くなりそうだ。小さめにつけたワイドショーからは芸能人の掛け合いや笑い声が聞こえてくる。奏汰はあどけない顔ですやすやと寝ている。
しばらくするとバターのいい匂いが部屋中に充満してきた。光輝が妄想していた『幸せな日曜日』そのものだった。なんでもない日常が欲しかった。好きな人と平穏に暮らしたい。それがどれだけ難しいかは分かっていた。だから努力をしようと思った。
自分は人一倍頑張らないと人並みの幸せも手に入らないと思い至ってから、光輝はまず勉強をこつこつと頑張っていた。将来は弁護士とか公務員とか一生お金に困らなそうな職業に就きたいと思っていた。家事だってこの年の男にしてはかなりできる方だと思う。
愛想がいい人間ではないのは分かっていたから、せめて好きな人の前では素直なキャラを演じようと思って、なんだか奏汰の前では随分無理をしていた気がする。
奏汰がベッドの中でもぞもぞ動き始めた。やがてむくっと上半身を起こす。
「コウくん…おはよう…もう起きてたの…?」
「おはよう、奏汰さん」
「……?」
奏汰は半分寝ぼけながらメガネをかけて光輝を見た。心なしか機嫌が良く見える。ここ最近のあからさまにむすっとした様子ではなく、少し晴れやかな顔をしているように見えた。
昨晩のソロプレイ鑑賞が何か心に響くものがあったのだろうか、とまだはっきりとしない頭でぼんやり考えているとふと、部屋の中がバターの匂いで包まれていることに気づく。
「いい匂い…」
「フレンチトースト。勝手に卵とか使っちゃった」
光輝は焼き上がったフレンチトーストを机に並べた。ふらふらと奏汰もベッドから這い出てくる。
「これ何がかかってるの?うちシロップなんかなかったでしょ?」
「カラメル?砂糖と水煮るやつ」
「すごい、こんなのも作れるんだね」
奏汰は子供みたいにはしゃぐ。本気で喜んでいるようだった。
「美味しい!ホイップクリームとかハチミツがあればなぁ。アイス乗っけても美味そう」
奏汰は無邪気に喜ぶ。寝ぐせがついたままなので余計に幼く見える。甘いものにそこまで興味がない光輝は聞いているだけで胸焼けしそうだった。
「奏汰さんって甘いものそんなに好きなの?」
「えっ、あ、うん……」
奏汰はハッと我に返って恥ずかしそうに返事をした。
「俺はね、親が忙しくておばあちゃんに育てられたんだけどすごく厳しい人でさ。チョコとかケーキとかほとんど食べさせてもらえなかったんだよね」
奏汰が甘いものを好んでいることは知っていたが、生い立ちや昔の話を聞いたことはほとんどなかった。同時に自分のこともあまり話したことがないと光輝は気づく。
「もうほんとひどくてさ。小学生の時とか友達の家でお菓子もらったりするでしょ?それがバレたらわざわざ友達の家に電話までしてさ。子供におやつ食べさせないでくれとかクレームすんの。やばいでしょ。毒親ならぬ毒祖母」
と奏汰は自嘲するように笑った。奏汰が妙に甘味を好むのは、幼少期にあまり食べさせてもらえなかったからか、と光輝は納得する。
「じゃあ、俺がお菓子とか作ったら嬉しい?」
「え?いいの?嬉しい。すごく……」
奏汰は心底嬉しそうに答えた。光輝はなんだか子供を甘やかしている親のような変な気分になる。奏汰もまた光輝が久しぶりに優しくしてくれるのが嬉しくて照れたような気持ちになった。
「………」
「………」
むずがゆい沈黙が訪れて二人は変な汗をかいた。
「あっ、今日はどこか行く?うちにいる?」
奏汰は沈黙を破るべく話を振った。
「…奏汰さんは行きたいところある?」
光輝はしばらく思案していたが、ぴんとこないようで奏汰に話を戻した。元々、外出に興味のない光輝は『恋人とのデート』に憧れていただけで、特に行きたい場所があるわけではない。
「じゃあさ、プラネタリウム行かない?」
奏汰はぱっと顔を輝かせて言った。元々、夏休みになったら光輝を誘おうと思っていた場所だった。
暑さが和らぐのを待って夕方に二人は都心に赴いた。ちょうど17時から奏汰が見たかったというアロマとヒーリングがテーマのプログラムが上映されるらしい。
陽が傾く中、電車に乗って窓をぼんやり見ていると随分と陽が落ちるのが早くなったのを感じた。少し前まで17時前など真昼間のように明るかったのに、そこはかとなく暗くなっている。心なしか風も秋めいてきたように感じた。夏が終わるのだ。
奏汰と光輝はドア付近に立ちながら特に会話をせずに電車に揺られていた。光輝は奏汰に遠慮したのか必要以上に話しかけても来なかったし、くっついても来なかった。光輝はただぼんやりと夕暮れに染まりつつある街をずっと眺めていた。奏汰はそんな光輝の形の良い鼻梁とどことなく物憂げな瞳を乗せた横顔を見ていた。
プラネタリウムに着くとまあまあ混雑していて奏汰は少しだけそわそわしていた。体調が悪くなられても嫌なので光輝はトイレに行くなどして、なんとなく奏汰と距離を取り、開場まで待った。奏汰と付き合うということは、これからもそれなりに我慢をしたり寂しい思いをしなければならないということだ。それで良いのか悪いのか光輝にはまだよく分からない。しかし、無理をさせて奏汰に嫌な思いをさせるのは自分が疲れる。
光輝は好きな人と安穏に暮らしたいということだけが夢だったので、自分のことを好きになってくれるなら顔が悪かろうが、性格に多少難があってもどうでもいいと思っていたし、仲良くデートをするなんて夢のまた夢…といったところだったが、やっぱり人間って欲深くなるものだと光輝は思った。
時間になり中へ入ると、思ったより狭くて暗い。カップルシートで人目も気にせずべたべたしている男女のカップルを横目で見ながら、奏汰と光輝は隅っこの後方の席に座った。
やがて、部屋の照明が落ちると星空の映像と星座にまつわる物語が流れ始めた。リクライニングしているせいもあり、光輝は眠くなってくる。合宿で本物の満天の星を見てしまった光輝には映像は映像でしかないし、ギリシャ神話のエピソードはつまらないことはないが、神々は自分勝手だな…くらいの感慨しかない。アロマの香りで包まれるといよいよ睡魔がピークに達した。
光輝が半分夢の中にいると、不意に手の甲に何かに触れて光輝はハッと意識を戻した。
奏汰がそっと指先を絡めてきたのだ。奏汰は光輝の指を撫でるように動かしていた。柔らかい奏汰の掌の感触が気持ち良い。
「………」
ちらっと奏汰を盗み見ると、奏汰も少しだけ微笑んで光輝を見ていた。
「………」
不覚にも光輝の胸はきゅんと高鳴る。こういうスキンシップを諦めていた分なおさらだ。光輝は奏汰の指をぎゅっと握った。投影中、ずっと離さなかった。
「これからどうしようか?ご飯食べる?」
プラネタリウムから出ると外は夕闇とネオンに包まれていて、退勤したサラリーマンやOLでごった返していた。明らかに遊びに来ている学生の二人は少々場違いに見える。二人はなんとなく人の流れに乗って駅の方まで歩いてきてしまった。
「観覧車乗りたい。二人で」
光輝は突然、そんなことを言いだした。
「え?今から!?」
今までと脈絡は全くないが、なんとなく恋人とやりたいことなのだろうなという察しはつく。しかし光輝はあまり浮かれた様子もなく、
「それでもう最後にする」
とぽつりと言ってきた。
「最後ってどういうこと…?」
不穏な気配を感じて、奏汰も緊張した顔になった。
「奏汰さんにわがまま言うの最後にする」
光輝がそう言ったところで、奏汰がふいにスマホを取り出した。奏汰のスマホだと思わなかったが、先ほどからずっと着信音が鳴っていた。
「ごめん…妹から着信が入ってる」
奏汰は疚しいことなどない、と言いたげに着信が鳴り続けるスマホの画面を見せてきた。『歌音』と表示が出ていた。なんて読むのかは分からない。しかし妹がいるというのは以前から聞かされていた。
「……出れば…?」
光輝が促すと奏汰はすまなそうに横を向いて通話に応じた。
『もしもしカナちゃん!?』
「ごめん、今」
『あのね、落ち着いて聞いて欲しいんだけど。おばあちゃんが亡くなったの。さっき』
「え…………?」
『まだお通夜とか決まってないんだけど、とりあえずカナちゃんに知らせておいてってママが言ってて。あ、あとね。今来られてもやることないから来なくていいって。とりあえず喪服の準備だけしてって。お通夜の段取り決まったら…ってカナちゃん?聞いてる?』
『カナちゃん?カナちゃん大丈夫?』
『カナちゃーん、おーい』
「はっ、はぁはぁ…」
奏汰は急にその場にしゃがみ込んでしまった。唇が白く顔が真っ青になっていた。水族館に行った時のように貧血症状が出たようだ。
「奏汰さん!?」
奏汰はうずくまってしまい、何も答えない。行き交う大勢の中の数人が奏汰を心配そうに見たが、光輝がいるせいか声をかけることはなかった。
地面に落ちた奏汰のスマホからは奏汰を呼ぶ女の子の声がずっと聞こえていた。
「すみません、かけ直します!」
光輝が奏汰からスマホを奪うと、とりあえずそれだけ言って通話を切った。奏汰は一体、妹から何を言われたのだろう。
「トイレ行きたい…吐きそう…」
「こっち!」
奏汰が呻くように言うので光輝は急いで駅の近くにある公衆トイレに連れていった。
「はぁ…ごめん…外で待ってていいよ」
多目的トイレで奏汰の背中をさすってやると、奏汰は弱々しく呟く。吐いてスッキリしたのか、少しだけ顔色は良くなっていた。
「いいから。何も考えないでいいから」
間に合わなくて少しだけ床と奏汰の服を汚した。それを光輝がトイレットペーパーや自分のタオルを濡らして拭きとる。
「やめてよ、汚いよ」
奏汰は力なく光輝を押し返すが、光輝はやめなかった。
「汚くない。全然平気」
「……………」
奏汰はぼんやり幼い頃を思い出した。小さい頃は車酔いしやすくて嘔吐を嫌がった祖母は奏汰をどこか遠くに連れていくことはほぼなかった。一度だけ風邪のせいで布団に吐いてしまった時、祖母は大げさに驚いて病気の奏汰を責めた。そういえば兄も夜尿症が小学一年生まで治らなくてよく祖母に怒られていた。嫌なことを思い出してしまった。
その後、歩けるまで落ち着くと光輝は奏汰を家まで送っていった。熱を測ると案の定、微熱だったが発熱していた。ふらふらしている奏汰を着替えさせて寝かせるとすぐに汚れた服を洗濯した。
『おばあちゃんが死んじゃった…』
洗濯機がリズミカルに揺れているのをぼんやり見ながら光輝は帰りの電車で奏汰がか細く呟いた言葉を思い返していた。奏汰はそれ以上何も言わなかったが、身内が死んだショックは光輝もよく分かる。光輝もまた父親を病気で亡くしている。祖母に育てられたと言っていたからきっと親同然だったのだろう。
今朝は祖母のことを悪く言っていたような気がするがなんだかんだ言って祖母に懐いていたのかもしれない。とりあえず奏汰が落ち着くまで傍にいようと光輝は決めたのだった。
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