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第40話 八月のさよなら(5)
翌日、奏汰は友達と遊びに行くという妹の歌音を駅まで車で送ったのち、両親を市役所やらお世話になっていた介護施設やらに送る足をしていた。
彼女は?という質問が来るかと覚悟していたが、そんなことはなかった。父も母も気が抜けたのか言葉少なにしていた。
信号待ちで奏汰はふと、両親に尋ねてみた。
「おばあちゃんって最期どんな感じだった?」
ウィンカーの音がやけに響く。
「最期?うーん、ほとんど寝ちゃってたからなあ…」
「ここ一ヵ月は大体いつ行っても眠ってたよなあ」
父も母もぼんやりと回想する。
「何か言ってたりしてなかった…?」
奏汰も質問しながら、何かとは何だろうと自問した。祖母は今際の時に何を思っていたのか。少し悔やんでいてくれたらいいなと思った。兄や自分にきつく当たっていたことを。しかしそんなことはもう、とうに忘れてしまっただろう。
「何か…?別に何も言ってなかったわよね、お父さん」
「ちゃんと話せたのはもう一年くらい前だったしなあ」
「あー、でもあれよね。最初の頃はカズちゃんに嫌われたとか申し訳ないとかは言ってたわよね」
「え?」
奏汰はドキっとする。
「やっぱりカズちゃんのことが大好きだったんでしょうね。おじいちゃんにもお父さんにも似てたもんね」
「………」
父は何も言わなかった。奏汰も何も言えなかった。祖母が兄に異常に執着していたのは、家族の誰もが分かっていた。
しかし、自分には悪いと思わなかったのか。と奏汰はなんとも言い難い気持ちになっていた。
夜になると再び歌音を迎えに行った。駅には歌音とその友人と思しき少女二人がいた。奏汰は慌てて営業スマイルを顔に貼り付ける。
駅のロータリーに車を寄せると歌音は助手席のドアを開けて乗り込みながら
「友達も送ってってもらっていい?」
と聞いてきた。
「もちろん大丈夫だよ」
奏汰が了承すると後部座席に少女たちが「お邪魔しま~す」と間延びした挨拶をしながら乗り込んできた。
「こんばんは、歌音がいつもお世話になってます」
奏汰は優しい声音で爽やかに挨拶をした。二人はキャーと黄色い声をあげた。歌音もだが、友人達も化粧気もなく、垢抜けていない。男なんてとても知らなそうな顔をしている。奏汰の無害そうでおっとりとした雰囲気は昔から妹の友人たちから好評だった。習い事や近所の友人の家に行くときは奏汰がよく歌音を送迎していた。その先々で歌音の友人に出会ったものだが、中高生は年上の温和そうな男にいとも簡単に色めく。歌音伝いに手紙をもらったこともある。とはいえ女子には何の興味もないのだが。
「かの兄マジどイケじゃん!?」
「でしょー!かっこかわいいでしょ!」
まるでペットの紹介をするような歌音に苦笑する。
「すごい優しくて喧嘩したことないよ!」
「いいなー!うちのと交換して欲しい!」
歌音と友人達は年相応の賑やかな会話をしている。
「彼女さんとかいるんですか!?」
突然、話題を振られて奏汰は心臓がぎゅっとなる。しかし努めて柔和なニュアンスで
「いないよー」
と答えた。奏汰はこの手の話題には必ず話が広がらない方を答えていた。見せて欲しいだの言われたらたまったものじゃない。
友人達を一人ずつ家に送っていく。最寄り駅は同じでもそれなりに皆離れた場所に住んでいたので軽いドライブになった。最後の一人を送り届けて歌音と二人きりになる。
「ねぇ、カナちゃんってほんとに彼女いないの」
歌音は突然聞いてきた。
「いないってば」
「なんで?こんなにかっこよくて優しいのに?」
「そう思ってるの歌音だけじゃない?」
こうも素直に兄を褒める妹などあまりいないだろう。歌音が可愛い。昔から素直だし無邪気だ。それがたまに鼻についていた。女や末っ子に対する一種の嫉妬や羨望のようなものが入り混じって、こちらは純粋な愛情を持てない。それを表に出したことはなかったけれど。
「ふーん。彼女だったら大変そう。誰にでも愛想いいじゃん、カナちゃんって」
何か探りを入れられているのではないかと、奏汰は戦々恐々とする。
「あたし妹でよかったな〜妹じゃなかったらカナちゃんのこと好きになっちゃってたもん」
想像していたより斜め上のことを言われて奏汰は戸惑う。
「えぇ……」
そんなことを言っているが、歌音は今まで数人の男と付き合っているのを奏汰は知っている。歌音は彼氏ができると逐一報告をしてくるのだ。そしてプレゼント選びだの、手作り料理や菓子の毒見もとい味見に付き合わされる。
自分はもちろん、兄の和宏も親に孫を見せるなんてことないだろうと思っていた時期は、歌音に対していっそのことさっさとデキ婚でもしてくれ、と思っていた。最近だって、彼氏とお泊まりしたいからアリバイに協力してくれなんて言われた時は、それをたしなめながらも内心、妊娠でもしてくれないかと思ったこともある。本当にひどい兄である。
その歌音でさえも少なからず逃げた兄たちに対して思うことがなかったわけではないと知ったのは昨日だ。それでも歌音は自分を未だに慕っているようだ。歌音に自分は男が好きだと言ったらどういう反応をするだろう。驚くだろうか。拒絶するだろうか。いや、歌音は面白がりそうだなあと思い、内心苦笑した。
家に戻るとカレーの匂いがした。リビングの棚には祖母の骨壺がでんと置かれていた。骨になってしまったのに、いまだ威圧感を放っているようだった。
家族四人で食卓を囲み、とりとめのない話をする。喋っているのは主に歌音と母だった。食べ終えると奏汰は自ら進んで食器を下げ、皿洗いをした。祖母に躾られたせいで、料理以外の家事は大体できる。その反動で一人でいるととことん手を抜いてしまうけど。
母親はカナちゃんって相変わらず気が利くわね、と喜んでいた。奏汰は曖昧に笑った。
「あー…疲れた」
四畳ほどしかない実家の自室はロフトベッドと勉強机しかない。梯子を上って寝転がると急に眠気が襲ってきた。たいしたことは何もしていないが、やはり家族といると疲労するらしい。
車中でした両親との会話を思い返す。祖母は結局最期まで兄のことしか目に入っていなかったようだ。奏汰の心の隅に墨を一滴垂らしたように失望感がじんわり広がる。
それは、良い子でいたのに報われなかった。という思いだ。
しかし一番それが楽だったから、そうしていたのだ。自分は逃げていた。逃げた人間が報われることなんかないだろう。
それでも頑張っていなかったわけじゃない。和が乱れないように努力していたからだ。兄がかつて横暴に振る舞っていられたのは自分が努めて良い子でいたからだ。自分まで好き勝手に反抗していたら、確実に両親はもっと疲弊していただろうし、歌音の性格も歪んだはずだ。
それは決して奏汰の天性の性格が為すものではなかった。優しさでも正義感でもない。いつだって、『そう』した方がいいから無理矢理『そう』していたのだ。その努力を家族の誰も知らないような気がして、奏汰の心は孤独感が染みていくようだった。
どうしたらこの気持ちが昇華できるのだろうか。少なくとも、この生まれ育った家でそれを癒す術はもうないだろう。
奏汰は頼りない三等星の光のように淡く灯る彼を想った。体調を悪くしたとき、『大丈夫?』と問いかける彼の声を思い返した。何を言いたいのか分からないが、彼に何もかも打ち明けたくなった。どうしようもない自分の姿を、馬鹿にして笑い飛ばして欲しい。揶揄うように生意気なことを言われたい。自分など、自分の思いなどひどくどうでもいいものだと思わせてほしい。あの子だったら、そうしてくれるような気がしてならないのだ。
暑さを残したまま夏が終わっていく。
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