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第39話 八月のさよなら(4)

 火葬が終わって骨になった祖母を見た。ほとんど灰になってしまい、わずかに白い欠片が残っている。理科室に置いてあった骨格標本のようにはいかないらしい。葬儀場のスタッフが色々説明をしてくれるが、奏汰はぼんやりと聞き流していた。   (骨だ……)  祖母の夫、つまり祖父は両親が結婚する前に亡くなっていた。母方の祖父母は遠くにいるけど健在だし、人間の骨を見たのは初めてな気がする。  人間がただの物質に変わっていく様を奏汰はもの悲しく感じた。あんなに恐れていた祖母がただの物質になっている。  妹の歌音と収骨したが、彼女はまるでレクリエーションのように「難しい〜」とか「おばーちゃんバイバイ〜」とか言いながら骨を拾っていた。  最後にスタッフが手際よく遺灰をかき集め、全て骨壺の中に入れられてしまった。相変わらずみな悲しそうな顔はしていなかった。 「もう秋の空になってきたわね」  斎場から出ると母がしんみり呟くので奏汰も空を見上げた。陽は少し傾き始めていた。まだまだ暑いが確実に秋に向かっている空気を孕んでいる。ちぎれた雲が空に浮かび、どことなく彩度が落ちている。  祖母は旅立てただろうか。いや四十九日までは地上にいるのだっけ?奏汰がぼけっと空を眺めている間にみんな移動してしまい慌てて追いかけた。  みんなで駐車場まで行き、自家用車で来た兄の和宏一家を見送った。ベビーシートに乗せられた甥の颯人は再び眠り込んでいて、ふくふくの手足を投げ出していた。  妹と母が赤ん坊と大げさに別れを惜しむから、奏汰と父親は黙って後ろに下がっていた。やがて兄たちが去ってしまうと、辺りが急に静かになってしまった気がした。  夕ご飯は斎場近くのファミレスで食べていくことになった。 「あー、はーちゃん可愛かったなー」  颯人の愛称がいつの間にか決まっていたらしい。歌音がにやにやと回想しながら言う。こんなに子供が好きだったとは知らなかった。それとも女性というものは本能的に子供が好きなのだろうか。奏汰だって子供は嫌いではないが、意思疎通が不可能な赤ちゃんは宇宙人に思える。  歌音はハンバーグとサラダを頼んだのだが、ライスは食べないと言って奏汰の皿に避けた。足りているのかと心配になる。 「葵さんもいい人だったよね〜。あの暴れん坊のカズちゃんがパパなんて信じられないけど、葵さんなら納得だな〜」  和宏について歌音と話したことはあまりないが、彼女の中にも一応兄が『問題児』だった記憶はあるらしい。  歌音の世話はもっぱら奏汰がしていたので、歌音と和宏は冷めた仲だと思っていたが、今日の様子では普通の距離感に見えた。女の子はよく分からない。 「ほんと、まさかこんな早くおばあちゃんになっちゃうなんてねぇ。でもしっかりしたお嫁さんでよかったわ」  母はサラダうどんを食べながらしみじみと言う。 「おばあちゃんもきっと喜んでるわね」  と付け足した。 「っていうか、お兄ちゃんといつから連絡取ってたの?行方不明みたいに言ってたじゃん」  奏汰は今日ずっと思っていた疑問を口にした。和宏は高校を卒業してすぐ家に帰ってこなくなった。「どこに行ったの?」と尋ねると母は「連絡がない、分かったら教える」としか言わなかった。それから自分は受験やら祖母の執着が完全に自分に向いてしまったこと、またカイへの恋心で頭がいっぱいで元々存在が希薄で関心のない兄のことなどどうでもよくなってしまった。 「ああ、ごめんね。お兄ちゃんが出てってから半年後くらいかなあ。就職するから印鑑証明くれって突然連絡があったのよ。あなたも受験だったし、おばあちゃんのことでバタバタしてたからカナちゃんとカノちゃんには言わなかったのよ。落ち着いたら言おうと思って」 「ええ…それで結婚してたことは?」  自分もだが、両親も事無かれ主義の節がある。波風を立てるのが嫌で、言わなくてもいいことは言わないのだ。奏汰は少しだけ呆れや不満を感じたが態度に出さないように気をつけた。こんな日に険悪なムードになるのは嫌だ。 「それはね、今年の初めに連絡来たの。しかも突然、結婚しましたって年賀状できたのよ。さすがにびっくりしちゃった。元々、年に一回くらいしか連絡来なかったんだけどね。カナちゃんがこっち来た時にでも言おうかと思ってたんだけど、あなた全然こっち来ないし。まあ、帰ってきにくかったんでしょうけど。そんなことより、来年の四月にね、式あげるんですって。空けといてね」 「え、来年?赤ちゃんは?」 「今は子供が一歳くらいになってから結婚式するのもよくあるみたいよ」 「ふーん…」  結婚式。自分とは縁がないと思い今まで興味もなかった。光輝だったら式を挙げたいとか言い出すかなと思い、こっそり苦笑してしまった。そうしたら自分は堂々と親を呼べるだろうか。いや、呼べないなと思った。  つくづく兄が子供を作っていてくれて良かった。結婚式までしてくれるなんてありがたい。と思ったところで変わらず自分は卑怯だ、と気持ちが沈む。 「ねー、カナちゃんドリバ行こー」  こういう時、奏汰は決して「一人で行けよ」とか「めんどくさいな」とか言わずについて行ってあげていた。  テーブルから少し離れたところで奏汰は歌音に尋ねる。兄に火葬中、「お前は近くにいなかったから大変さを知らないのだ」という旨を言われたことが気になっていたのだ。 「歌音。俺が出て行ったあと大変だった?」   家を出てから歌音と会う機会があっても奏汰は祖母の話を避けていた。狡いと思うが向き合いたくなかった。奏汰が家を出て行った時、四つ下の歌音は中学生だったはずだ。多感な時期に兄が立て続けに家を出て、認知症の祖母と取り残されて何も思わないわけがなかっただろう。しかし奏汰は、家を出たあと自由を謳歌するために家から目を逸らした。  今日はご機嫌だった歌音の表情が僅かに曇った。  奏汰と歌音は喧嘩もしたことがなかった。奏汰は昔からおっとりとしていて歌音や彼女の女友達から懐かれた。『自慢のお兄ちゃん』を一生懸命やっていたつもりだった。だから歌音の表情が強張るのを初めて見た気がした。 「ほんとのこと言っていいよ」  歌音は無言でアイスティーをいれていた。そして氷をストローでかき混ぜながら、意を決したように話し出した。 「うーん、正直さぁ、カナちゃんもカズちゃんもずるいなあと思ってたよ。カナちゃんいなくなったあと、おばあちゃん、ほんと認知症悪化して大変だったんだから。私もママも噛みつかれたり引っかかれたりしたし。まぁでも、カナちゃんもカズちゃんも大変な思いしてたのは私もママも分かってたからさ。私はどっちかっていうと放っておかれてたしね。ママもね、カナちゃんのことはそっとしといてあげてっていつも言ってて。私も大変なんですけどーってかんじだけど、まあハハオヤは男の子の方が可愛いよねぇ…」  と抑揚なく、しかしすらすらと喋った。まるでずっと前から用意していたセリフのようだった。 「…………」  奏汰は何も答えられなかった。というより、絶句していたのだ。歌音はずっと、ほんのりと家を出た兄たちを恨んでいたのだ、と奏汰はすぐに感じ取った。 「あ、ママはカナちゃんのこと無視してたとかじゃないと思うよ。距離置いてあげたかったんじゃない?」  そう言った歌音の表情はどこか大人びていて、子供ではなく女に見えた。末っ子の妹らしく甘え上手で素直な子だと思っていた。祖母の執着を一番受けていなかったのは歌音で、兄たちを盾にして面倒ごとをのらりくらりとかわし、対岸の火事然としていた彼女を疎ましく思うこともあった。しかし、歌音もまた天真爛漫な無邪気な妹、を演じていただけなのかもしれない。  自分は一体、家族の何を見てきたのだろう。 「ねぇねぇ、明日さ学校の友達と遊びに行くから駅まで車で送ってくれない?うちの友達がカナちゃんのこと見てみたいんだって」 「え、あ、ああ、うんいいよ」  歌音は満足そうにやったー!と言った。これで手打ちにしてやる、という意思を感じた。  テーブルに戻った歌音はデザートが食べたいと言って、家族で外食は久しぶりだねとはしゃいでいた。祖母がいた時は家族でファミレスなんてほとんど行かなかった。手料理至上主義の人だった。  母も一緒になってパフェを頼んでいた。父まであんみつを頼んでいた。奏汰も歌音にパンケーキを頼むようにせがまれて、半分以上歌音に持っていかれた。ライスは食べなかったくせに。  喪服を着ていなければ、ただの仲の良い家族がファミレスに来ただけに見えるだろう。祖母が健在だったころは全員が祖母の顔色を窺って行動していた。今は違う。今までにない、ゆるい空気が流れているのを奏汰は感じた。  みな、祖母のことを別にどうでもいいと思っているわけではない。ただ今はホッとしているのだろう。それぞれの弔い方があるのだ、と思った。  奏汰は夜になると実家の庭に出て光輝に電話をかけてみた。コンクリートで熱せられた都心の暑さよりは幾分かマシだが、熱帯夜である。しかしもう秋の虫の音がリーンリーンと聞こえる。 『…はい…どうしたんですか?』  予告なしで電話をかけたのだが、光輝はすぐに出てくれた。何か言いたいことがあって電話をしたわけじゃなかった。なんて挨拶しようか考えていたら 『大丈夫?』  と心配されてしまった。 「うん、えっと…お葬式終わったよ」  葬式というほどのものではなかったが。 『お疲れ様です』  奏汰は電子タバコを吸いこんだ。 「会いたいなあ、君に」  そして煙とともに思っていることを率直に吐き出した。 『……奏汰さんから電話もらうの初めてですね』 「そうだっけ…そうだね…電話って苦手でさ」 『なんで?』 「相手の顔見えないと何考えてるか分からないじゃない」  奏汰は相手の顔色や仕草で何を考えているのか、何を言って欲しいのかを洞察する能力に長けていた。祖母の顔色を窺って生きていた賜物だ。 『……奏汰さんらしいですね』  光輝の落ち着いた声が耳に心地よい。 「ねぇ、帰ったらさ観覧車乗りに行こうよ」 『え?』 「乗りたいって言ってたでしょ?」 『そう、ですね。行きたいです』  そこで俺は振られるのかな?と聞きたかったが、聞かなかった。きちんと覚えているわけではないが、以前、光輝は『わがまま言うのは最後にする』というようなことを言っていた気がする。だからなんとなく今度こそ振られるのだと思っていた。  自分に猛アタックしてきた頃の執着心を光輝からもう感じない。奏汰なりに頑張ってはみたもののこれ以上は無理だ、と感じていた。  もう光輝の前では取り繕うのが難しかった。何度も失態を犯してしまったし、光輝の前では弱い自分を曝け出したい欲求の方が勝つ。  本当に好きになってしまっていた。  だから、光輝の理想の彼氏にはなれないと思った。  それでも、あんなに離れがたかったカイとは別れられた。それだけでも実りがあったと奏汰は思う。 「じゃあ、また帰る時に連絡するから」 『うん。おやすみなさい』  と言って電話は切れた。奏汰が切る前に光輝から切った。奏汰はしばらく都心とは違う地元の暗い空を見上げて、虫の音を聞いていた。夏の大三角形と呼ばれる星々がちょうど真上で輝いていた。

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