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第38話 八月のさよなら(3)

「そりゃ、お前、近くにいなかったからそう思えるんだよ」 「え?」  収骨が始まるまで一時間くらいかかるということで、控室でお茶やお菓子などを頂いたのち奏汰と和宏は再び喫煙所にやってきた。和宏は母にも妻にも妹にも喫煙を咎められ、小さくなっていたのがおかしかった。  昔よりもずっと話しやすくなった兄に、ついぽろっと先ほどの不満を漏らしてしまった。おばあちゃんが死んだのにみんな悲しんでいないようだ、と。さすがに赤ん坊に夢中すぎるとは言わなかったが。 「施設に預けたっつても大変だろ。週に何回も面会行ってたみたいだしさ。お母さんもそれで仕事辞めたんだぞ。歌音も思春期にあんなこえーばあちゃんいて友達と泊まったりおしゃれできなかったって言ってたし」  和宏は叱るというより、窘めるように言う。和宏がこんな兄らしい口調で話しているのを初めて聞いた。昔はどう話しかけても怒っていたのに。  余計な肉が削げ落ち、引き締まった兄の横顔を見ながら、改めて兄はすっかり大人びてしまったと思った。奏汰と和宏は年子なのに十歳くらい年上に見える。見た目だけの話ではない。社会人と学生の差であった。醸し出す雰囲気が奏汰とは雲泥の差なのだ。工務店に入って随分としごかれたと言っていた。心身ともに鍛えられたのだろう。 「なにそれ、俺そんなの聞いてない」  奏汰は拗ねたように言った。この兄の前ではなんだか年下らしくいられる。奏汰は元々年上の男が好きなのだ。久しぶりに会った兄にすっかり好感を抱いている自覚があった。 「まあ、言わないだろ。わざわざ。俺も聞いたから教えてくれただけだし。特に奏汰はおばあちゃん子だったから聞かせたくなかったんじゃないか?」 「え!?」  おばあちゃん子、という意外な言葉に驚く。自分は祖母のことを嫌っていたし、周りからもそう見えているものだと思っていた。 「泣いてんのお前だけだったぞ」  和宏は揶揄うように言ってきた。確かに花を添える時にほんのり涙ぐんでしまったが、まさかバレていたとは。奏汰は顔を赤くする。 「雰囲気に飲まれてだよ!」  奏汰は反論したが和宏はスルーした。 「まぁ、でも本当にお前が一番おばあちゃんに優しかったじゃん。ちゃんと言うこと聞いてたし。俺なんか反抗ばっかしてたしさあ。ああー…色々思い出したらもう一本吸いたくなってきた…」  それは奏汰が揉め事を起こしたくなかったからだ。別に祖母のためではない。  和宏は本当にもう一本タバコに火をつけた。煙たい空気を吸いながら、奏汰も昔を思い出す。  自分は兄のことを好いてはいなかった。兄のことを見下していた。祖母に叱られている時もかばうことはしなかったし、むしろ家族の和を乱す兄を幼心に憎んでさえいた。おやつを盗んだ時に、兄に罪を被せて祖母に怒られている姿をいい気味だと思った。小・中学校でも兄は問題児で、弟だと知られるのが嫌だった。学校で兄が喧嘩をしていても揶揄われていても無視をした。  当然、兄は弟にも妹にも優しくはなかった。けれど一度だけ助けてくれたことがある。自分が精通した時に祖母から心無い言葉を投げかけられて呆然としていた時に汚れた下着を洗ってくれてフォローしてくれたのは兄だ。奏汰はその時のことを強烈に覚えている。  あの時、兄がいなかったら自分は性に対してもっとひどい罪悪感を覚えていただろうと思うのだ。  あらゆる記憶が駆け巡る。子供だったから仕方がなかったことなどいっぱいある。子供は選択肢が少ない。どれを選んでも不正解なんてことがたくさんある。兄は自分よりひどい記憶しかないだろう、と奏汰は思う。今更過去の兄を助けてあげることなどできない。できないけれど、自己満足だけど、奏汰は無性に謝りたくなった。 「お兄ちゃん」 「ん?」 「ごめん………」 「え?何が?」 「なんか、色々と……昔、いろいろあったじゃない…」 「なんだっけ?まあ俺たちあんまり仲良くなかったしなあ。でも赤ん坊の世話と仕事が大変すぎて昔のこと忘れちゃったよ」  和宏はおどけたように言ったが、とぼけたふうではなかった。本当に忘れてしまったようだった。面倒だから水に流そう、というスタンスが伝わってきた。    もう昔の兄はいないのだ。    奏汰は安堵したような、苦しいような不思議な気持ちになった。きっともう兄を傷つけた罪は償えない。だからもう、兄を傷つけた嫌な自分を抱えていくしかない。傷つけたはずの兄は奏汰の知らない場所に行ってしまったのだから。   (もっと早く謝れば、助け合えれば良かった) 「お兄ちゃんが子煩悩とか意外過ぎるんだけど」  奏汰も悪戯っぽく笑う。 「俺が一番驚いてる」  和宏も笑う。 「ふっ、面白いね」  兄とこんなふうに笑い合えるとは思ってもみなかった。 「でもよかった。お兄ちゃんに子供がいて」  これは言わなくてもいいことだった。けれど言いたくなってしまった。 「なんで?」 「俺、結婚できないし子供も持たないから」  こんなことを言ったら怒られるだろうか。無責任とか卑怯とか自分勝手とか調子が良いとか、そういう言葉が浮かんだ。 「別に今から決めつけなくても…」  和宏の表情にわずかに緊張の色が滲む。 「俺、男が好きなんだ」  言ってしまってから、急に心臓がドキドキと鳴り始めた。こんなことを言われても困るだろう。  奏汰が男が好きだとひた隠しにしていたのは、世間の目が怖いというのはもちろんある。しかしそれだけではなかった。相手に秘密を共有させる重荷を背負わせたくないのだ。自分の荷物を持ってもらうほどの価値が自分にあるとは思えない。  でも兄だったら、今の兄なら困らないと思ったのだ。すでに家庭という重いものを背負っている兄なら、どうでもいいだろうという気がしたのだ。 「あ、あー…?それって今の好きな人がってこと?」 「いや、昔からずっと…多分女の人は好きになれない」  和宏は少しだけ驚いた顔をしたが、別に不快な表情はしていなかった。それだけで奏汰はホッとする。受け入れられなくてもいい。けれど否定されるのは嫌だった。 「あーー。そういえばなんかそうかなって思ったことあったわ」 「え?」  予想外の返答に奏汰は戸惑うが兄はそのことには触れずに 「それみんな知ってんの?」  と聞いてきた。 「みんなってお母さんとか?」 「うん」 「言えるわけないじゃん…今のところ言うつもりない。だから黙っておいて」  じゃあなんで言ったんだ、と言われないかひやひやした。  兄は少しだけ陽が傾き始めた夏の空を見上げながら煙を吐いた。紫煙がふわりと虚空に消えていくのを奏汰も見つめる。 「ふーん。まあ、頑張れよ」  と和宏は言ってから 「いや頑張れって言っちゃいけないんだっけ」  と訂正した。 「それは鬱病の人にでしょ」  奏汰は苦笑する。 「ま、無理すんなよ」 「どっち!?」 「どっちも大事じゃん。別に男が好きだろうと女が好きだろうとさ」  随分とまともなことを言うと思った。普通の家族だったらまず動揺すると思う。  受け入れられないと拒絶したり、逆に受け入れなきゃと思ったり。それが普通だと奏汰は思う。  家族としての絆が希薄だったのが逆によかったのかもしれない。だって父や母や妹には言いたくない。できれば一生避けたいくらいだ。 「俺のこと気持ち悪い?」 「いや…正直どうでもいい…っていうと冷たい言い方になるかもしれないけど、別になんでもいいんじゃないの?迷惑かけてるわけじゃないだろ。そもそも、俺なんかがどうこう言うことじゃないっていうか」 「……………」  なんと返事をして良いか分からなくなったのは奏汰の方だった。もう少し引かれたり、戸惑ったりされると思って肩透かしを食らってしまった。ではどういう反応をして欲しかったかと問われても答えられない。 「………じゃあ、そろそろ戻るか」  和宏は煙草を灰皿に押し付けると喫煙所を出ていく。慌てて奏汰も追いかけた。 「今日って実家泊まるの?」 「泊まらないよ。終わったら帰る。あの家赤ちゃん危ないし。嫁も義実家なんか泊まりたくないだろ」 「そっか…」    何もかもが変わっていく。変わらずにはいられない。自分も変わりたくなったのかもしれない、と奏汰は思う。  もう目の前にいる男は自分の兄ではなく、別の家庭の父だった。  

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