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第42話 付き合ってあげる(2)
九月に入った。多くの大学がそうではあるように、奏汰と光輝の通っている大学も九月中旬から授業が開始するため、まだ二週間ほど夏休みは続く。
天文サークルの合宿ももうすぐだ。奏汰は光輝とドタバタしつつも、アルバイトの塾講師をこなし、祖母の葬儀の合間にも一応三年生の幹事としてまめに働いていた。今年の夏休みは羽をのばせる最後の夏だったのに、せわしなく終わってしまいそうだ。
でも良かった、と奏汰は合宿の最終確認の作業をしていた手を止め思わず口角を上げる。「付き合ってあげる」と生意気そうに笑った光輝の顔を思い出すとにやにやしてしまう。
(かわいかったな・・・)
観覧車での光輝のことを思い出してふふっと笑ってしまう。光輝の方からねだってきたくせにキスをしたらとてもびっくりした顔をしていた。どうせできないと高を括っていたのだろう。実を言えば、自分でも驚くほど自然にキスをした。誰かに見られるかもしれない、という不安より今この時を逃したくない、という気持ちの方が勝った。少しだけ強くなれたのかな、と少し誇らしい気持ちになる。
自分のことが嫌いだった。ずっと。いつも自分に害のない方を選択して生きてきた。相手を傷つけると自分も傷つくので、できるだけ穏便になる方を。だってそっちの方がいいじゃないかと。初めて会った光輝を良かれと思って抱いてあげたことは、今思うととんでもないことをしたのだなと分かる。それでも光輝に怒られるまで何が悪いのか分からなかったのだ。
「うわーーー!」
奏汰は既に黒い歴史になりかけている光輝との出会いや再会を思い返して一人で叫んだ。しばらく机に突っ伏してふと思う。
自分ももっと怒ればよかったのだ。兄のように。
「浅見くんって優しいね」「奏汰ってなんで言って欲しいこと言ってくれるの?」「カナちゃんといると落ち着くんだよね」相手が望むように振る舞っていたら数々の賛辞の言葉を言われた。
それが嫌だったわけじゃない。けれど自分は決して良い子ではなかった。だからずっと自分も自分以外も騙しているような気持ちになっていた。
光輝には自分のだめなところをたくさん知られた。ああ、だから安心するのかもしれない。と思った。光輝はちゃんと怒ってくれる。
「おはようございます」
ぺこっと首だけを下げて光輝は挨拶をした。今日は天文サークルの合宿の日だ。いつもの山小屋合宿と違うのは一泊ではなく、二泊三日で天文台を見学したりBBQを行ったりレジャー感あふれる行事になっている。宿泊施設も山小屋ではなくホテルだ。
光輝と会うのは観覧車デートをして以来だ。黒いシャツに暗い色のジーンズを履いている。光輝はいつもモノクロームな格好をしている。奏汰は白のカットソーにベージュのチノパンを履いていた。奏汰はどちらかというと淡い色が好きだった。
まだ時刻は六時半で秋の入りの朝はそこまで暑くはなかった。
今回も奏汰はレンタカーを借りてドライバー役を務めることになった。乗車のメンバーは六月の山小屋合宿の時と同じだ。でも今回は光輝がいるのが嬉しい。
光輝を集合場所の途中で拾うと、彼はいそいそと助手席に乗り込んできた。光輝は言葉少なにシートベルトを締める。
「なんか緊張してる?」
心なしか光輝の顔がこわばっている気がして奏汰は問うた。
「運転してる奏汰さんかっこいいから…それに助手席乗れるの嬉しい…」
と照れながら言うので奏汰もつられて頬を赤くした。
(かわいい…)
光輝はこんなに可愛かっただろうか。つるっとしたまだ少年のような頬を撫でたくなった。好きな人に好きになってもらえるってこんなに嬉しいのだと奏汰は密かに感動した。
「ごめんね、集合時間早めちゃってさ」
合宿で光輝と長時間いられるのは嬉しいが二人きりにはなかなかなれない。奏汰と光輝は少しだけ二人の時間を取ろうと集合時間の三十分前に落ち合ったのだ。
「ううん…嬉しいです…」
恥ずかしそうに微笑む光輝を見て奏汰はハンドルを握りしめる。
(うぐ…かわいい…)
「コウくん……俺ダメかも」
「ダメって何が?」
「合宿中に触れないの。我慢できないかも」
「…………」
光輝は顔を赤らめて下を向いた。本来の集合場所に着くまでの三十分間、信号待ちのタイミングで二人は二回だけ触れるだけの柔らかいキスをした。
光輝は車を降りると佐伯と彩乃と落ち合って、奏汰も何食わぬ顔をして三人を拾った。
奏汰はいつも合宿の時はパーキングエリアで三十分の仮眠をとる。佐伯と光輝はお腹を空かせてばたばたと外へ出て行ったが、彩乃は何故か車に留まった。
「一緒に行かなくていいの?」
彩乃はちらっと奏汰の顔を見ながら言った。何か探るような瞳をしていた。
「えっ…俺は寝ますし、いいですよ」
何か得体のしれない圧を感じながら奏汰は買っておいたミルクティーを口に含んだ。すっかりぬるい。
「あの一年の少年と付き合ってんじゃないの」
「ぶっ」
奏汰はミルクティーを吹き出した。奏汰は口をぬぐって服についたミルクティーを慌てて拭いた。だが白いカットソーは薄い茶色の染みを作ってしまった。その様子を思い切り眉をしかめて彩乃が見ていた。呆れているようだ。
「違った?あ、言いたくない?別に言わなくていいけどさ」
「それは、その…」
奏汰は変な汗をかく。言ってもいいとは思う。少なくとも光輝は以前の合宿で男が好きだと普通に言ってのけた。だったら、自分も…。
「…………」
しかし言葉が続かなかった。
「まー、なんでもいいんだけどさ。気を持たせるようなことはしないで欲しかったなあ。まんざらでもないのかな?とか思っちゃったじゃん。誰にでも優しいのはいいことだけどさ、そういうの止めた方がいいよ」
「すみません、そんなつもりはなかったんですけど…」
「まあ、そっか。一応彼女いるとか嘘ついてたもんね、一応」
彩乃は一応を強調してわざと嫌味っぽく言った。奏汰はそんな嘘をついていたことを自分でも忘れていたが、彩乃もそんな嘘はとうに見抜いていたようだ。
「一応聞くけど、女はNGなの?」
「…………すみません」
奏汰はこれを言うのが精いっぱいだった。「男が好きなんです、今まですみませんでした」ときちんと言いたかったのに言えずに情けなくなった。
「ふーん、分かったよ。誰にも言わないから安心してね」
ちょっと出てくると言って彩乃は出て行ってしまった。
彩乃は長めのロングの髪を翻しながら行ってしまった。その髪をサラサラのつやつやに保つのは並大抵の努力では無理なことを奏汰は知っている。背も高くて細身のジーンズよく似合ってかっこいい。今日はさらにサングラスをかけていてどこぞのインフルエンサーのようだった。性格はきついところがあるが、奏汰はそこも嫌いではなかった。彩乃のことは友人として好いていた。自分に気があることはもちろん分かっていた。
全然強くなってないじゃん、と奏汰はうなだれた。
彩乃は二十分ほどで帰ってきた。光輝たちはまだどこかウロウロしているらしい。奏汰は結局寝つけずに、ずっと悶々としていた。
「すみません、あの、騙してたみたいになっちゃって…いや、騙してたことになるんですよね。すみません…」
彩乃も空気を変えようと出て行ってくれたのに蒸し返すこともないだろうが、奏汰は謝らずにいられなかった。
「騙してたわけじゃなくて隠してただけでしょ」
「そうだけど、でも彼女いたとか嘘ついて。もっと誠実に、」
と言いかけたところで、彩乃はバシバシと奏汰の肩を叩いてきた。ちょっと痛い。
「いやいやそんな深く考えなくていいよ。別に本気でカナちゃんのこと好きだったとかじゃないし。ちょっといいな〜くらいでちょっかいかけてたあたしも不誠実だったってば」
彩乃はぺりぺりとお菓子の箱を開封する。そして「ってかさ」と続けた。
「いつから付き合ってるの…?って聞いていい?」
「あの、色々あったんですけど、一応前の合宿の時から」
「だよねー」
そうだと思った、と言いながら彩乃はお菓子の箱を奏汰に差し出す。中には筒状のクッキーに包まれたチョコレート菓子が入っていた。そのうち一本をお礼を言いながらもらう。
「…………」
奏汰はなんと言って良いか分からず黙っていた。二人がお菓子を咀嚼する間の抜けた音だけが聞こえる。沈黙に耐えかねて彩乃は、
「ねぇ、ごめん。そんなに気にしてる?私さ実は付き合ってる人いるんだよね。夏休み入ってからだけど」
と言った。
「えぇっ?」
奏汰自身も彩乃が自分に本気だとは全く思っていなかったが、それにしても切り替えが早い。
「みんなそんなに真面目に生きてないって。いいんだよ。カナちゃんも誰にでも誠実じゃなくていいと思うよ」
自分はそもそも誠実でいようとか思ったことはない。むしろ不真面目で不誠実だ。ただ面倒ごとを避け続けた卑怯者だ。だからこそ誠実で在ろうとする人と受け取られるのが辛い。しかし自分は自分を卑下して許されようと思うほど子供ではなかったし、上手く言語化できるとほど大人でもなかった。
「俺は、全然そんなんじゃ…」
奏汰が言いかけたところで、後部座席のドアが開いた。
「ただいま戻りました〜」
佐伯が間延びした声を出しながら入ってきた。バックミラー越しに光輝と目が合う。にこっと光輝がぎこちなく笑ったのが分かった。奏汰も笑みを返す。
光輝は奏汰の瞳がわずかに曇っていることに気づいてしまった。思わず助手席に座る彩乃をチラッと見る。彩乃は特に何も変わらない態度でお菓子を頬張っていた。
車内にはチョコレートの甘い匂いが漂っていた。
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