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138.側にいる夜

◆◇◆  レコードの柔らかい音に包まれながら、三人でおいしいお菓子を食べ終えると、雅彦さんは帰って行った。瑛士さんも一度家に帰って、シャワーを浴びたり、準備をしてくるという。  オレはその間にシャワーを済ませて、必要なことを片付けることにした。  食洗器のお皿を片付けて、ホットミルクの準備をしつつ、明日の朝のお米も予約を済ませる。  読んでおきたかった本を手に、クッションに腰を下ろす。ページをめくるたびに、静かな部屋に自分の呼吸だけが響く。  瑛士さんが来るまでの、待ち時間。  少し寂しくて――でも、待ち遠しいような。くすぐったい気持ちがある。  それでも、しばらく本の世界に入り込んでいると、玄関のほうで音がした。  あ、と立ち上がってリビングのドアを開けると、瑛士さんがすぐ目の前まで来ていた。「凛太」と笑顔を向けてくれる。  髪をセットしたスーツの瑛士さんは、文句なしにカッコいい。  でも、パジャマの瑛士さんは、髪も緩く崩れた感じで、ちょっと可愛い。  そんなことを考えて自然と笑顔になったオレを見て、瑛士さんが目を細めた。大きな手が、オレの肩にそっと置かれた。その手のぬくもりに、胸まで温かくなる。 「ごめん、電話がきて、遅くなっちゃって」 「いえ。本を読んでたので大丈夫です。あ、ホットミルク入れてくるので、座っててください」 「ん、ありがとう」  瑛士さんは、オレが今まで座っていた場所に腰かけて、そこにあった本を手に取った。 「これ読んでたの?」 「あ、はい」 「ふうん……」  少し黙ってページを見つめる瑛士さんを、オレはそっと見つめた。ふふ。読んでる。  マグカップにホットミルクを淹れて、瑛士さんの側のローテーブルに置いた。 「ありがと。――難しい本、読んでるね」 「そう、ですね……教授たちの薦める本って大抵が難しくて。一回じゃ頭に入らないことも多いです」 「そっか。何回も読むの?」  ふうふうと、ホットミルクを冷ます瑛士さんを見て、オレは思わず微笑んで頷いた。 「はい。何回も読むこともありますね」 「そっか。凛太も忙しいよね……」 「――瑛士さんほどではない気がしますけど。オレは、医学生なら当たり前の道なので」 「いや――凛太は絶対頑張ってる方だと思う」  その言葉が、胸の奥深くに染み込んでいく。  ――瑛士さんは医学部ではないし。他の医学生のこと、そこまで知らないはず。オレの勉強だって、そんなに全部を見てるわけではないのに。それでも、こんな風に、頑張ってる、て言ってくれる。 「瑛士さんが、頑張ってるって言ってくれると――もっと頑張ろうって思えます」 「ん。そう?」 「はい。今すっごく頑張ろうって思いました」 「そっか。――じゃあいっぱい言ってあげようかな?」 「いえ。今の一回で十分です。しばらく頑張れます」  ふふ、と笑いながら、オレはホットミルクに口をつけた。  隣でなんだか楽しそうに笑った瑛士さんは、またオレの頭をよしよし、と撫でてくれる。  この手のぬくもり、この優しさに触れられるたびに、なんだか――すごく幸せを感じる。それこそ、怖いくらい。 「応援してるよ、ずっと」 「――はい」  笑顔で頷いて、しばし二人で、静かにホットミルクを飲む。こんな時間がずっと続けばいいのにな……そんな願いが頭をよぎる。  ふ、と、思い出して、オレは瑛士さんを見上げた。 「レコードなんですけど……今度、一人の時でも、聞いてもいいですか?」 「もちろんいいよ。気に入った?」 「はい。すごく」 「あの下の棚に、説明書も入ってるから、分からなかったら見てごらん」 「分かりました。ありがとうございます。聞いてみたいのいろいろあったので、楽しみです」  ん、と微笑む瑛士さん。  ひと口ホットミルクを飲んで、カップをテーブルに置くと、瑛士さんが一度、ふぅ、と息をついた。 「――あのさ、凛太」  声の調子が少し変わった。真剣で、少し緊張した響き。  オレもマグカップを置き、瑛士さんをまっすぐ見つめ返した。 「いろいろ考えたんだけど――やっぱり、パーティーで発表する前に、凛太のお父さんに挨拶に行きたいんだ」 「あ……」  さっき、雅彦さんが言ってたから、この話の心の準備は、出来ていたはずだった。それでも、実際に言われると、咄嗟に返事が出来なかった。 「凛太が複雑な思いを持ってるのは聞いてるし、大体は理解もしてるつもりだけど――やっぱり、言わないでいる訳にはいかないから」 「……はい」  小さく頷いてから、オレは一度深呼吸をした。 「オレも、電話で知らせようとは思っていたんですが……結婚式ではなくなったから、出て貰わなくてもいいかなとも思って……」 「うん。そこは無理して出て貰おうとは思ってないよ。ただそのパーティーは何かしらの記事にはなると思うし、オレの婚約発表もどこかには出ると思う。なんだかんだアルファの業界って、狭いしね」 「……はい」 「先に挨拶だけはさせてもらいたいから、時間を取ってもらえるか、聞いてもらえる?」  まっすぐな瑛士さんの瞳に、オレはすぐに、小さく頷いた。でも、視線はどんどん下に向かって落ちていく。 「気を使ってくれて、ありがとうございます。もちろん、連絡とります。時間が空く日があるか、聞いてみますね」 「――うん。ありがと」 「いえ。ありがとって言われることじゃないです。むしろ、お願いしますって、オレが言う方だと……」 「――凛太?」  自然とうつむいていたオレの頬に瑛士さんがそっと触れた。  優しく上向かされて、瑛士さんの瞳と目が合う。 「……大丈夫?」  じっとオレを見つめる瑛士さんの瞳を、見つめ返す。小さく頷くと、瑛士さんは少し困ったように頷き返す。 「――仮にも父親に、金銭的に世話になりたくないと思うくらい、凛太が複雑な気持ちを持っているのは分かってるんだけど」 「大丈夫です。もともと隠すつもりは、なかったので……ただ、あの……オレ、自分がΩってことも隠してたし、医学部在学中に結婚の話なんてしたら――あの……きっと、嫌なこと言われると思います。でも……気にしないでくださいね……?」   声が少し震えた気がした。自分でも、こんなに弱い言葉が出たことに驚いてしまう。  ――あの人の言葉。瑛士さんには、聞かせたくないなと、思ってしまった。  瑛士さんは、一瞬眉を寄せた。そして――その胸にオレを抱き寄せた。 「大丈夫、側にいるから」  優しい声が、すぐ近くで響く。  オレ自身が傷つくことよりも、瑛士さんに、あの言葉を聞かせたくなかったんだけど。  勘違いしたらしい瑛士さんが言ってくれた言葉で、少しだけ、心がふわりと柔らかくなった気がした。  ――まずオレがΩだってことを伝えるのだけでも、本当はめちゃくちゃ苦痛なのだけど。  それでも、瑛士さんが居てくれるなら……と思ってしまう。

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