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1 前夜(1)

 薄暗い山道を、三騎の軽快な馬蹄の音が横切っていく。  十年ぶりに見る景色と、次第に急がせる馬の蹄の音は、先頭をいく男の心音と重なり、手綱を握る手にさらに力を込めさせた。  馬の主は、かすかな月明かりの下でも、整った顔立ちだと察しがつく。色白の肌、この国では稀に見る印象的な深い蒼色の瞳と髪、透明感のある雰囲気をまとい、今、一心に夜道の行く先を見つめている。その目を縁取る長いまつげの隙間には、こみ上げてくるものが時折ちらと光った。それが向かい風によるものであるのか、それとも、感情に起因するのか、切羽詰まったこの状況下では、判断できない。  夜の山道は、馬で駆けるには危険すぎる。  それでも、三騎は速度を落とさず、細い獣道を縫っていく。  男の結い髪に刺した銀の歩揺が、鞍上の動きに合わせてせわしなく揺れ、そこに映る月明かりが砕けた氷のように煌めいた。 「若様!」  必死に男の後ろをついていく少年が叫んだ。年の頃は十七ほど、落ち着きのある男とは違い、すでに疲労困憊の色が見える。  少年は、手綱を握ってはいるものの、馬に翻弄され、振り落とされないよう、鞍にしがみつくだけで精一杯だ。 「危険です、若様! もっとゆっくり! この暗さでは……うわ!」  顔を掠めた枝に、少年はとっさに首をすくめた。  馬蹄の音にかき消されて、少年の訴えは先を行く男には聞こえていない。 「若様っ!」  少年はさらに声を上げた。それは訴えであるより、悲鳴に近い。 「危ないですから!」  風と馬の足音の隙間で、男は少年の声を聞き取った。 「心配ない。よく知る道だ」  全神経を前方に向けている男は、振り返ることもなく答えた。 「よく知る道って……獣道じゃないですか! しかも、最後に通ったのは、十年も前なんでしょう?」  少年の悲痛な声を、男は全く意に介さず、馬を緩めることはない。 「無駄だ、東雨(とうう)(せい)が止まるもんか」  最後尾の長身の男が、東雨と呼ばれた少年に馬を寄せてくる。更に器用に馬を御して、少年を追い越し、星と呼ばれた先頭の青年の横につける。 「振り切った。ここからは俺が先導する!」 「頼む、涼景(りょうけい)」  長身の男が、にやりと口元を緩める。  星と涼景、この二人には、どうやら地の利も体力もあるらしい。東雨少年だけが一人、歯を食いしばって息を切らしている。  いつ果てるともない時間をそうして耐え、東雨がついに根をあげそうになったころ、ようやく、先頭の涼景が馬足をゆるめた。  軽く息を弾ませた星が背後を振り返る。  どうにか落馬せずについてきた東雨をちらりと見て、さらにその後ろの闇を探る。  秋の気配が漂う月夜。  木の葉の擦れる音と、三頭の馬が鼻を鳴らしながら、ゆっくりと枯葉を踏みしめる音のほかは、気になる様子はないようだ。  熱くなった馬体を撫でて、星は大きく息を吐いた。涼景も、安堵したように額を拭った。 「ここからは問題ないだろう。山賊たちも引き離したな」 「さ、山賊!」  ぐったりと馬の首にもたれていた東雨が、呼吸を荒げたまま顔を上げ、息を飲んで涼景を見た。 「気がつかなかったのか? 追われていたから、無理を承知で突っ切った。こんな夜道で揉め事はごめんだからな」 「そんなの、聞いていないです。若様も気づいていたんですか?」 「ああ」  『若様』と呼ばれる碧眼の男、星こと、犀星(さいせい)が、当然のような顔で答える。東雨は泣きそうに眉を寄せた。 「何で教えてくれなかったんですか?」 「教えてどうなる?」  涼景が軽く笑う。東雨が息を整えながら涼景を睨んだ。 「お二人とも、人が悪いですよ!」 「逆だな」  涼景こと、|燕涼景《えんりょうけい》は、ちらりと東雨を振り返った。 「お前を不要に怖がらせないための配慮だ。第一、一番道に慣れている俺が、しんがりについたことを、不思議に思わなかったのか?」 「そ、それは、特には……」  東雨はふと、涼景の鞍に吊り下げていた荷物の一つに、一本の矢が突き刺さっていることに気づいた。 「それ……もしかして、山賊の矢?」 「心配ない。この暗がりで射たところで、簡単に当たるものでもないさ」  涼景は矢を抜くと、脇の茂みの中へ放り捨てた。 「背後は任せておけ。それが俺の役目だからな」 「それはそれは。さすがは、燕将軍、頼りになります」  東雨は、一人だけ状況を理解できていなかったことへの不満からか、ふてくされたように礼を言う。その口調は明らかに無礼ではあるのだが、涼景はそのような瑣末を気にする性格ではないらしい。さっさと犀星へと目を転じた。 「星、俺はこのまま燕家に行くが、お前はどうする?」 「うん……俺も、一度、犀家に向かう。このような時分に押しかけても、玲家の不信を買うだけだから」  犀星の呼吸はすでに整っていたが、その口調は苦しげだった。 「涼景、明日、日の出と共に玲家へ行きたい」  犀星の声が低く震えた。 「すまないが、同行してもらえるか?」 「勿論だ。そのためにここまで来たんだからな」  犀星に反して、燕涼景の声は明るい。それは、犀星の不安を打ち消そうとするかのようだ。 「夜明けに犀家へ迎えに行く。俺が行くまで、勝手に動くなよ」 「……わかっている」  痛みをこらえるように、犀星は呟いた。潤んだその瞳から、明らかに涙が頬に流れた。月明かりの下、涼景はその軌跡に目を細める。幸福ではないその涙は、涼景のたくましい胸に刺さり、一瞬、苦しげな表情が浮かぶ。  犀星が声も立てずに泣く姿を、涼景は不思議と美しいと思う。美しく、そして、痛い。 「心配ない。明日、すべてうまくいくさ。焦るな」  つとめて、涼景は明るく繕った。犀星はじっと手元に視線を落とした。 「……そう願う……」 「星。お前は少し休め。不安な気持ちもわかるが、身体がもたないぞ。何日眠っていないと思っているんだ」 「…………」  東雨は涼景の反対側に馬を寄せて、深く沈んだ犀星の顔を覗いた。  山道はいつしか里につながるように開け、三騎が並んで歩めるほどに広くなっている。 「若様……」  遠慮がちに、東雨は呼びかけた。その声に、犀星は反応を示さない。  しばらく、馬蹄の音だけが、しんとした夜に響いた。  東雨はちらちらと二人を伺いながら、それ以上、声をかけることもできずに黙り込んだ。  犀星は、東雨の主人である。  そばに仕えて十年になるが、未だに、何を考えているのか、どこかつかみどころのない男だった。  東雨が抱く犀星の印象といえば、とにかく、無感情であるということだ。  笑うことは、まずない。声を荒げて怒ったところも見たことはない。常に静かで、口数は少なく、生真面目だ。そして、時々、一人で無言のまま、泣いている。涙の理由については、何も話してはくれないが、感情を押し殺す分だけ泣くのだ、と、東雨は勝手に納得していた。  感情を表さないとはいえ、犀星の有能ぶりは明らかだった。  大陸の南東部を支配する大国・|函《かん》の親王として、その政治手腕は群を抜いている。  また、武術、学問、芸能にも長けており、幼い頃から東雨はそのほとんどを、犀星から学んだ。  それに加え、生まれついての美貌は、十五歳で宮中に上がった当時から、周囲を魅了すると噂された。  黒髪と、黒や茶の瞳が多い地域において、犀星の容貌は珍しさからも目を引いた。瞳は、暗く深い藍色に近い。明るい場所では時折、碧玉のように煌めいた。夜の闇の中では、漆黒よりも深く闇を宿した。印象的なその眼と同様に、髪もまた、黒に近い濃紺で、絹糸のように艶やかである。一目見れば彼とわかる際立った特徴と、それらが調和して作る、常にどこか物憂げな影を湛えた表情が、見る者の心をいやがおうにも惹きつける。  犀星、(あざな)伯華(はくか)。感情を表さず、常に変わらぬその様子に、『蒼氷(あお)の親王』とあだ名される、齢二十五になる美丈夫である。

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