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1 前夜(2)

 同行する護衛、燕涼景は、字を仙水という。  函の都・紅蘭(こうらん)において、一二を争う軍部の実力者だ。皇家の警備を任される近衛隊のうち、左右の片翼、右近衛隊隊長を任されている。若干二十九歳にして、その地位を得た彼の実力は、その武術もさることながら、周囲からの人望でも評価された証であった。皇帝からの信頼も厚く、年若ながら、周囲に彼を知らぬ者はない。  また、同時に都の駐屯軍である暁隊(あかつきたい)隊長、そして、戦時下において皇帝の片腕を担う幕環(ばくかん)将軍をも拝命している。  特に近年、第二皇位継承者である犀星の警護は、涼景率いる右近衛隊が一手に取り仕切っている。  そこには、涼景の優秀さだけではなく、涼景と犀星の関係性も大きく影響していた。もともと、犀星は人付き合いを得意とはしない。周囲に馴染むことも、遠慮することも、信頼することもない。  親王という立場上、政治的な謀略に巻き込まれる危険性も高く、そこから己の身を守るため、大変に慎重である。  そのような犀星であったから、涼景をそばに置くことには、特別な信頼を意味する。  この二人の付き合いは、東雨と同じく十年を数える。  人嫌いの気質を持つ犀星だが、涼景に対しては他の誰よりも心を許している、と、東雨も実感している。  その理由の一つとして、彼らが同郷の出であることも挙げられるかもしれない。  二人とも、函の南中部に位置する、歌仙(かせん)地方の出身である。  犀星は母親が歌仙の旧家・玲一族の出であり、十五歳になるまで、歌仙地方で育てられた。  涼景が当主となる燕家もまた、歌仙の豪族の一つである。  二人が直接顔を合わせたのは、犀星が都に上がってからであるが、こうして帰郷するにあたり、涼景が自ら同行を申し出た背景には、そのようなつながりがあった。  本来であれば、犀星の警護や部下など、大人数での旅となるところだが、それは歌仙親王(犀星の号)の偏屈ぶりを如実に表し、こうして、たった三騎での帰郷となっている。  さらに状況を特殊化している要因に、犀星の病状があった。  ここ半年ほど、感情が不安定となり、気鬱を発し、特に人との関わりが難しくなっていたのである。ただでさえ苦手な上に、さらに輪をかけて、となれば、まさに取り付く島もない。誰が声をかけても、じっと黙り込み、応じようとはしなかった。  最近では生活そのものがままならず、食わず眠らずで、とても仕事が手につく状況ではなかった。そんな中での、かなり『訳あり』な帰郷なのだ。  東雨は、やれやれと溜息をついた。  幼い頃から犀星のそばにいる東雨にも、主人の気鬱の原因がよくわからない。  ただ、とにかく歌仙に帰りたい、ということ。そして、『(よう)』という人物に会いたい、ということだけが、すべての情報だった。  馬を進めるうちに、道の分岐が見えてきた。目印らしい石の前で、彼らは馬を止めた。 「では、俺は燕家に顔を出してくる。星、行っていいな?」  黙って、犀星は頷いた。反して、東雨が怪訝な顔を涼景に向ける。 「涼景様、お言葉ですが、若様の護衛として、いらしたんでしょう? お役目を放り出していいんですか?」 「星本人が良いと言っているのだから、いいだろう?」  自分よりも身分のある犀星を、気安く呼び捨てて、涼景はわずかに笑った。この口調は、十年前から変わらない。 「ですが、涼景様!」  東雨は食い下がった。犀星と二人きりにされて、万が一、何か問題が起きたら、すべて、東雨の責任となってしまう。残念ながら、東雨の剣術の腕前は、涼景どころか、犀星にも遠く及ばない程度なのだ。 「東雨、大人の事情ってのがあるんだよ」  涼景は面倒くさそうに、 「たまには帰ってこい、と家の者がうるさくてな。一年ほど放っておいたんだが、そろそろ限界だ。どっちにしろ、いつかは顔を見せなきゃならなかった。ついでだ」 「ついで、って……」 「なぁに、一晩だけだ。いや、もう夜半を過ぎているから、数刻か。明日からはちゃんと警備に戻る」 「そんな……」 「東雨、お前の『若様』をしっかり守れよ。これでも大事な親王様だ」 「これでも、って失礼な!」  東雨は、不満もあらわに言い返した。 「あなたに言われなくてもわかっています! でも、俺はただの小間使いだから……」 「頼んだぞ」 「あ! 逃げないでください!」  東雨の訴えもむなしく、涼景は二人を残して別の方角へと馬を向けてしまう。  顔をしかめてその背中を見送り、東雨は恐る恐る犀星を振り返った。主人はわずかに目を伏せ、眠たげに草を食む乗馬を、じっと鞍上から眺めていた。まるで、道に迷った子供が立ち尽くしているような横顔である。  犀星には気付かれぬよう、東雨は一つ、深呼吸をした。この変わり者の親王の相手は、ただでさえ面倒だというのに、最近の気鬱の症状のせいで、余計に意思疎通が難しくなっているのだ。かろうじて、涼景と東雨は言葉をかわすことができたが、それとて、犀星の気分次第ではあっさりと閉ざされてしまう。  正直言って、もう嫌だ。  東雨は内心絶望に近い気持ちを抱えたまま、犀星の様子を伺いながら馬を寄せた。 「若様、犀家へ急ぎましょう。お屋敷では皆様がお待ちですよ」 「……ああ」 「どうしたんですか? 十年ぶりに故郷へ帰りたい、と言い出したのは若様じゃないですか。もうすぐですよ」 「……ああ……」 「ほら、急がないと、また山賊がきちゃうかもしれませんし」 「…………ああ」  ああ、ダメだ!  東雨はイライラする気持ちを押さえ込み、無理に引きつった笑顔を見せた。  元来、明るく快活な東雨にとって、この煮え切らない犀星との受け答えには、耐え難いものがある。 「さぁ、行きますよ」  東雨は犀星の馬の轡を軽く引いて、ゆっくりと馬を進めた。 「昔から多いんですか、山賊? ここら辺って、若様の犀家と、涼景様の燕家、それから、歌仙で一番歴史がある玲家の接する場所ですよね? 大家が集中しているのに、そんな物騒な状況が収まらないなんて、何だかもやもやします」  沈黙が苦手な東雨が、必死に多弁になる。  普段から口数の多くない犀星は返事をしなかったが、わずかに目線を上げた。  視界の隅で、主人が少しでも反応したことに、東雨は満足した。元来、この少年の気性は明快である。 「そもそも、この山は燕家の管轄でしょう? 涼景様は暁将軍なのだから、ご自身のご領地を守るために、一軍を割くこともできるでしょうに……自分の実家のためってのが私事でダメなら、若様のご実家の警護として、この一帯全部の治安維持ってことでも……」 「それでは、父上の面子が立たない」  やった!  東雨は、犀星がまともに返事をしたことが素直に嬉しく、パッと笑顔になる。 「そうか、自分の領地を管理できなくて、朝廷に頼った人、ってことになっちゃいますね? 確かに格好がつかないや。大人の事情ってやつ、なんだかまどろっこしいですねぇ」 「東雨」 「はい!」 「……無理に、話さなくていい」 「あ…………」  東雨の笑顔が凍りつく。  犀星は目を伏せると、 「だが、ありがとう」 「……若様……」  固まっていた東雨の笑顔が、ふっと悲しみの表情に変わる。  犀星は決して、薄情な男ではない。その胸の中には、想像もできない思いが渦巻いているように感じる。ただ、感情の制御が人より苦手なだけなのだ、と東雨は思う。だからこそ、よく涙を流すし、こうして、気持ちの浮き沈みに苦しむのだろう。  東雨は奥歯を噛んで、前を向いた。  遡ること、二十五年前。  犀星は、都、紅蘭で生を受けた。  父親は当時の皇帝、蕭白(しょうはく)帝、母親は、歌仙の旧家である玲家の直系を継ぐ玲心(れいしん)という美女であった。  玲心は犀星を生んだ直後、出産の障りで亡くなった。  犀星は、玲心の前の夫であり、国の忠臣でもあった犀遠(さいえん)に預けられ、十五になるまで、犀家で育てられることとなった。本来、親王は母方の姓を名乗るため玲星の名が正しいのだが、そのような経緯で、彼は自然と犀の姓を用いるようになっていた。  犀家の当主、犀遠・字を侶香(りょこう)は、男手一つで犀星を育て上げた好人物である。  東雨は面識がなかったが、かつては都で名を馳せた将軍であったと聞く。  犀星の複雑な出生や、その後の生い立ちについては、美しい歌仙親王にまつわる逸話として、都で知らぬ者はいない。  ぼんやりとそんなことがらを思い出していた東雨は、行く手に小さな篝火が揺れるのを見た。 「あの灯が、犀家の外門だ」  この旅では珍しく、犀星が先に声を発した。

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