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1 前夜(3)
山林を抜けた先の、切り立つ崖の上にその屋敷は静かに佇んでいた。 犀星にとって、屋敷は、十年ぶりに訪れる懐かしい我が家、のはずだった。
ただ、彼の心はそこにはなく、何か見えないものを探るように視線をさまよわせた。迎えに出てきた家人たちを直視することもできず、不安そうに周囲を警戒する。そうしながら、導かれるままに、屋敷の奥へと進んだ。
彼の視線は常にさまよい続け、庭の隅、廊下の曲がり角、開け放されたままの部屋、と、せわしなく動いた。
何かを必死に探しているようでもあり、所在なさを紛らわすようでもある。
彼の心の内は、家人たちにも計り知れなかった。
一緒に屋敷に入った東雨は、別棟に案内され、旅の疲れからすぐに寝台に潜り込んでいた。
犀星一人が、当主の間に案内される。
先帝の落胤であり、犀遠が愛情を込めて育てた若き親王は、犀家の家人たちにとっても、まさに誇りであった。
美しく毅然と成長した犀星の姿を、年老いた者たちは涙を浮かべて見守っていた。
子供の頃から、犀星の気性は扱いが難しかった。
それでも、心根の優しさ、判断の実直さ、そして、今ではすっかり見ることができない無邪気な笑顔は、家人たちにも分け隔てなく向けられ、誰もがこの美しい少年を愛した。
夜もふけ、通常であれば皆が寝静まっている時刻でありながら、犀星が帰宅するとの報に、皆がその帰りを待ち望んでいたのである。
しかし、当の犀星は、心ここに在らず、終始、落ち着かない表情を浮かべている。
彼にとって、この屋敷は、懐かしい我が家であると同時に、もう一つ、大きな思い出のある場所であった。
かつて、犀星はここで、従兄弟である玲陽 と共に育てられた。
犀星が心を病むほどに再会を望む玲陽の姿が、懐かしい屋敷の随所に見える気がして、彼の心はざわめいた。
犀星が都へ移ってから、玲陽は自分の生家である玲家へ戻ったと聞かされてはいたが、もしかすると、今夜、ここで自分を迎えてくれるかもしれない。
帰郷を知らせる書簡を玲陽宛に送ったが、それに対する返事はない。それでも、悪戯好きの玲陽が、こっそり隠れて見ているのではないか。そんな、淡く切ない期待が、犀星から生来の落ち着きを奪っていた。
犀星の願いむなしく、懐かしい姿を見つけられぬまま、犀星は一人、主人の部屋へ足を踏み入れた。
養父、犀遠の座する一室である。
長い道のりを駆け通した犀星の身なりは良いとは言えなかったが、彼を待ちわびていた父親は笑顔でその姿を迎え入れた。
「よく、お越しくださいました」
すだれを開けるや、犀星の前に恭しく進み出た犀遠は、記憶より少しやつれたように思われる。だが、肥沃な土地の領主らしからぬ粗末な着物のいでたちは、当時と変わることはない。常に慎ましく、質素に生きることを犀星に教えた犀遠の現状に、犀星はふっと正気を取り戻した。
かつて、父と共にここで過ごした頃の記憶が、瞬時に蘇る。
わずかの間、玲陽の面影が薄れ、目の前の犀遠を注視する。
犀星は、深い青色に煌めく目に、しっかりと養父を写した。喉の奥が、締め付けられるように痛む。
「長きにわたり、ご無沙汰致しましたこと、お許し願いたく存じます」
湧き上がる思いをこらえ、犀星は静かに挨拶を述べた。
犀遠は恐縮して身を屈めた。
「歌仙親王殿下、何を仰せられます。どうぞ、上座へ」
言いながら、犀遠は、部屋の奥の座を指した。それを見て、犀星の顔が曇る。
また、数多の記憶が犀星の脳裏を駆け巡る。
犀遠を父と慕い、尊敬し、過ごした少年時代がある。それは突然、親王として都に連れ戻される日をもって、断絶された。それまで、自分のことを我が子のように厳しく、優しく導いていた父が、突如として、自分の前に跪き、その立場が逆転した瞬間。その時の記憶は、犀星にとって今なお、受け入れ難い衝撃と悲しみをもたらす。
父は父であり、臣下ではない。彼の前で、自分は子であり、親王ではない。
そんな、犀遠への切なる思いは、今も、変わることなく彼の内にある。
「父上、わたくしは……」
犀星は息を詰まらせながら、
「わたくしは、親王として戻ったのではございません。一人の子として……あなたに育てられ、恩を受けた者として、ここにいるのです」
犀星は立ち尽くしたまま、顔を伏せた。
自分に膝をつく養父を、見たくはなかった。
犀星にとって、犀遠は常に父であり、仰ぎ見る存在である。宮中の者たちのように、歌仙親王に迎合する姿など、見るに堪えない。
「父上……約束下さったではありませんか。時が経とうと『我が子である』と……」
犀星の絞り出すような声に、犀遠は悲しそうにかすかに微笑み、目を逸らした。
「そのような戯言を、よもやお信じになられるとは」
「父上……」
「今や、都でその手腕を知らぬ者なき、歌仙親王様をお迎えするのです。礼を失することはできませぬ」
「何をおっしゃられますか!」
犀星の堪えていた悲しみが爆ぜる。
辛さと怒りのない混ざった瞳を上げると、その場に片膝をつき、犀遠を見据えた。その気迫に、思わず犀遠はひるみ、息を止める。犀星の美しく紅潮した頬と涙を湛えた眼差しは、犀遠ばかりではなく、部屋の端に控えていた家人たちをも飲み込んだ。
犀星の激しい胸の内を、その姿を見る誰もが強く感じとる。
「十年も親不孝をしたわたくしに、これ以上、父上をないがしろにせよと?」
犀星は声を震わせた。
「この犀伯華、そのような無礼者になれと、育てられた覚えはございませぬ! 上座に座れと仰せならば、ここで自刃するも良し!」
犀星が素早く右手に掴んだ腰の短刀の柄が、かちゃりと音を立てる。
犀遠を差し置いて上座に座るなど、ありえない。
そのように父を軽んずることは、犀星にとって、死よりも避けるに値する。
「おい、待て! 早まるな!」
犀星の迫力に、犀遠は慌てて叫んだ。目を見開いて、犀星は父を見た。
「全く、お前というやつは変わらんな。融通がきかん」
「父上?」
反応に窮して、犀星は刀に手を添えたまま、養父を見続ける。
犀遠は腕を組むと、鷹揚に犀星を見下ろした。
「都でちやほやされて、すっかり高飛車になって戻ってくるものと思ったが……変わらぬ」
何を言われているのか、犀星はしばし、理解できずにいた。
「これくらいのことで、自刃する? お前は昔から極端なのだ」
犀遠は、呆然としている犀星に近づくと、その前にしゃがみ、無遠慮に顔を覗き込んだ。口の端で、ニヤっと笑う。
「どうだ、星。驚いたか?」
「…………」
「どうした? 声も出ないか? わしの勝ちだ」
そう言うなり、犀遠の笑い声が部屋中に響く。その中で、犀星は何度か目を瞬いた。やがて、結んでいた唇を歪めつつ、顔を伏せた。
「父上……わ、わたくし……俺を、からかったんですか!」
安堵のためか、ぽろりと一雫、犀星の目から涙がこぼれた。
犀遠は意地悪く笑うと、自分より背の伸びた息子の頭を撫でた。
「十年分の親不孝の仕返しだ」
呆気に取られたまま、犀星はされるがままに首を垂れた。立てていた膝も崩れ、そのまま座り込む。
「父上……冗談が過ぎます。俺は本当に……」
「うん? お前、泣いているのか? 相変わらずだな。もう、子供ではあるまいに」
微笑むと、犀遠はそのまま、たくましくなった息子の肩を抱いた。幼児をあやすように、背中を優しく叩いてやると、押し殺した犀星の嗚咽と、体の震えが伝わってくる。
犀遠は目を細めた。
「星……よく、生きて戻ってくれた。都は地獄であったろう?」
その言葉に、犀星の緊張の糸が切れる。犀星は父に身を委ね、犀遠の目にも、静かに涙が溢れていた。
燕家の直系は、涼景とその妹の春 の二人きりである。
山林を中心とした領内は、決して豊かとは言えなかった。材木業を営むにも、木材を安定して他領へ運び出すことは困難だった。川の多い地域ではあったが、燕家の領内の川はそのほとんどが急流であり、水運として利用できるものもなかった。また、馬力に頼るには、丘陵が多すぎた。
狩猟を主に生活の糧としていたが、昨今の厳しい生活に耐えかねて若者が流出し、今はわずかな平地を耕し、細々と自給自足の暮らしを送る者が残るばかりである。
燕家の近親者たちは平野部へと移ったが、本家の屋敷は今でも、険しい山中にある。
先代領主は、長年守り続けてきたこの屋敷を離れることはなかった。涼景はそんな衰退の一途を辿る一族の嫡男として生を受けた。
その彼が、都の親族の元に預けられたのは、わずか五歳の頃である。
燕家の将来は目に見えている。周辺には、この土地を狙う友好関係の薄い領主たちもいる。たとえ領地を失ったとしても、涼景がその身を立てていけるよう、彼の父は、宮中へと息子を送り出したのである。
幼いながらに、涼景は自分の立場をよく理解していた。
学問も、武術も、周囲が目を見張るほどの才能を開花させた。
それは、彼の不断の努力によるものであった。宮廷内の者たちは、才知溢れる逸材として、彼を重宝した。
わずか十二歳で、内政官を任され、翌年には本人の希望で軍部へと移籍した。
知恵者であり、剣術にも優れ、また、生まれ持った優れた容姿は、瞬く間に都の人々を夢中にさせた。
若き英雄の誕生である。
涼景が十二を迎えた年、実家から彼を喜ばせる頼りが届いた。
病弱だった母が、第二子として、妹を産んだというものだった。
まずは祝いに、と、皇帝の許可を取り付け、涼景は懐かしい山中の屋敷へと飛んで帰った。
妹の誕生を喜ぶと同時に、涼景の心には、拭いがたい不安が生まれた。
男である自分でさえ、この家を出て、都の荒波の中で苦労に苦労を重ねなければならない時に、このか弱い女子が、いかにして幸せに生きることができるのだろうか。
涼景のその懸念は、わずか三年後、的中する。
山中での貧しい生活の中で、体の弱かった母が亡くなり、そのすぐ後に、父もまた、流行病であっけなくこの世を去った。
一人、山中の屋敷に残されたのは、まだ三つになったばかりの、幼い少女だけだった。
涼景は信頼できる自分の部下の中から、数人の侍女を選び出し、妹の世話を任せた。
毎月の仕送りも欠かさなかった。侍女たちには読み書きを教えるよう頼み、自らも簡単な文字で頻繁に手紙を送った。
そして、どれほど多忙でも、わずか数刻しか滞在できない時でも、彼は馬を駆って故郷へ帰り、妹と過ごす時間を大切にした。
春と名付けられたその少女は、兄の想いを知ってか知らずか、健やかに年を重ねていったが、母親譲りの病弱さだけは、どうしても改善する気配がなかった。
それでも、兄が戻ると、どんなに体調の悪い時でも、屋敷の奥から駆け出してきては、その身体に飛びついて、細い腕で涼景を抱きしめてくれた。
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