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1 前夜(4)

 涼景にとって、燕春は心を許せる唯一の存在であると同時に、自分の生きる理由となっていった。  彼女を幸せにすることだけが、涼景の望みであり、涼景の笑顔だけが、燕春の喜びだった。  やがて、燕春にも、兄が置かれている厳しい立場がわかるようになると、その想いはより一層、増した。  山中の古い屋敷に、侍女と共に幽閉されているような生活でありながら、書を読み、兄に手紙を書き、詩を作り、着物を縫い上げた。  同い年の少女たちより身体は弱かったが、心の強さは比べようもないほど強く、そこに、兄に似た気質を感じ取らせた。  彼女は決して、涼景に負担をかけまいと、屋敷の中で静かに暮らし、贅沢は望まなかった。  犀星たちと別れた涼景は、より細い山道を馬の手綱を引いて注意深く上がり、切り開かれたわずかな土地に建つ屋敷へとたどり着いた。  豊かな領地を持つ犀家とは異なり、すっかり衰えた燕家である。迎えに出る者もない。  警備の兵が松明を掲げてくれる中、涼景は自ら馬小屋に馬を繋ぎ、鞍と轡を外して体を拭いてやり、水と草、わずかな塩を与えてから、軋む屋敷の扉を叩いた。  錠前が内側から下りている。帰宅することは伝えてあるが、大抵は待ちきれずに眠ってしまう侍女たちである。  昼間は山賊対策に地域の男たちを雇うこともあるが、涼景自身が、燕春のそばに男を近づけることを好まなかった。自分の目が行き届かない中、燕春の成長にどのような影響を与えるか知れない。  侍女長には信頼のおける人物を抜擢しているが、若い侍女たちが、山中での禁欲生活に耐えられるほど聖人であるとは、涼景も思ってはいない。宮中の泥沼の愛憎に、何度も巻き込まれてきた経験から、彼はその点に関しては神経質とも言えるほど、慎重だった。  かつての父の盟友であった犀遠が、そんな燕家の事情を配慮して、自分の私兵をさいて警護をになってくれていることは、涼景にとってもありがたく、安心につながった。  涼景の参謀を務めている遜蓮章(そんれんしょう)からは、過保護すぎるとあきれられるが、それでも、涼景は方針を曲げなかった。  燕春を都に呼び寄せることを勧める者もあったが、彼には、どうしても、そうすることができない事情があった。それは決して、他者に知られてはならない、禁忌であると心得ている。  この世に、たった二人の兄と妹。そんな孤独がもたらした悲劇なのかもしれない。  涼景は、自分が妹を愛していることに気づいていた。  兄妹としての愛情とは程遠い、忘れがたく隠し難い思い。  それは涼景自身を困惑させ、怯えさせた。  妹の姿が都にあれば、その思いにすべてを乱されてしまう予感がして、涼景は燕春と距離を取ることを選んだのである。  そうではあっても、胸に巣食う情は消しがたく、いつまでも彼に重くのしかかる。  燕春が幼い頃は頻繁に行き来していた涼景だったが、己が心に気づいてしまってからは、自然と足が遠のいた。  近くにはいられない。  姿を見れば情が増す。  涼景は次第と帰郷を避け、気づけば一年の時が過ぎていた…… 「涼景だ。誰かいるか?」  開かない扉の前で、彼はよく通る声で叫んだ。  と、がたり、と扉が内側から揺れた。 「兄様(にいさま)!」  燕春の声だ。どうやら、扉に寄りかかって眠っていたらしい。 「今、開けます!」  手間取りながら閂を外す音がして、扉が押し開けられる。 「兄様!」  開いた扉の隙間から滑り出て、まだ閂を持ったままの燕春が、涼景を力いっぱい抱きしめた。 「お会いしたかった!」  すでに涙目になっている妹の髪を、涼景はそっと撫で付ける。素直に自分の胸にすがる燕春の無事を確かめるように、しっかりと腕に抱いて、しばし、涼景は目を閉じた。  ひた隠しにしてきた思いが、一瞬、涼景の思考を止めた。  細く暖かな妹の体は、無防備なままに、彼の腕の中にある。  しかし、だからなんだというのだ。  どんなに慕ってくれようと、燕春は妹として、兄である涼景を迎えただけのことなのだ。  涼景は自分自身にそう言い聞かせ、静かに一つ大きな息を吐くと、目を開いた。  今からは、良い兄を演じねばならない。身体を引くと、涼景は改めて燕春を見た。  一年ぶりのその笑顔は、一瞬で彼の決意を砕いてしまいそうなほど、眩しかった。 「こんなところで寝ていたら、風邪をひくぞ。もう、外は秋だ」 「でも、ここが一番早く、兄様に会える場所ですもの」  そう言って、にっこりと微笑む燕春の笑みに、涼景はつられて頬を緩めた。  兄様、か。  妹は、ただまっすぐに自分を慕ってくれている。その思いを、裏切ることはできない。  涼景はそっと、燕春の肩から手を放した。 「湯の支度をしてあります。どうぞ」  まるで、涼景の妻であるかのように、燕春は甲斐甲斐しく兄を案内した。 「春、少し、背が伸びたか?」 「一年で、そんなに変わりはしませんわ」 「そうか。心なしか、大人っぽく見える」 「嬉しい!」  無邪気に、燕春は手を叩いた。 「兄様にそう言っていただけると、苦労した甲斐があります」 「苦労? 何か不自由があったのか?」  心配して再度、燕春の顔を覗き込み、涼景ははっと息を飲んだ。 「お前……化粧を?」 「はい。侍女に習いました」 「そうか……だが、まだ、早くないか? お前にはまだ……」 「私も来月には十六歳になります。都なら、私くらいの娘は、もうお輿入れをしても良い年だと聞きましたわ」 「こ、輿入れ?!」  これが、敵を震え上がらせた函の将軍か、と思われぬほど、涼景は完全に度肝を抜かれた顔で立ち止まった。 「春が、輿入れ……?」  予想だにしていなかった言葉に、複雑な思いが胸を駆け巡る。そんな涼景の胸中を知るはずもなく、燕春はにっこりと笑った。 「好いた殿方と結ばれるのが、女の幸い、だと」 「それも侍女が言ったのか?」 「はい。私はもう、子供じゃありませんわ」  どくん、と胸が鳴る。  涼景はまるで、自分の体が自分ではないような浮遊感を味わいながら、思わず声を震わせた。 「好いた男が……いるのか?」 「はい」  都での涼景を知る者が見たら笑いを堪えきれないほど、完全に動揺している兄を、燕春は悪びれた様子もなく振り返った。惜しげもない笑顔で涼景を包みながら、 「私はずっと前から、決めておりますから。兄様も御存知のはず」  そう言うと、燕春は静かに真顔になり、目を細めて真っ直ぐに涼景を見上げた。  その目は、一瞬前とは別人のように冴え、笑みの消えた表情はどこか、恐ろしくさえある。  涼景は我知らず、燕春の表情を食い入るように見つめた。  涼景が動けないことを確かめるように、燕春はゆっくりと腕を伸ばすと、頬に指を添える。涼景は微動だにしない。 「私は、兄様と結ばれとうございます」  声は出ず、涼景はただ、まるで自分を殺す獣を見るような目で、妹を見つめ続ける。 『大きくなったら、兄様のお嫁様になるの』  燕春が何度も口にしていた言葉が、涼景の脳裏に浮かんだ。  子供の戯言。兄を慕う幼い妹なら、誰でも一度は口にする言葉だと、今まで気にも留めていなかった。  滅多に会えない自分を慕ってくれる、幼い妹のはずだった。成長と共に、自分から離れていくであろうことも、覚悟していた。そういうものなのだ、と自分に言い聞かせ、燕春と再会するたびに、そこに情愛を感じる己の心を殺してきた。  そんな涼景には、燕春の真っ直ぐな視線はあまりにも熱く、目を逸らすことができない。  まさか、妹もまた、本気で自分を思っている?  いや、ありえない。 「……俺をからかうな」  精一杯に、無理な作り笑いを浮かべた涼景の一瞬の隙をついて、燕春は涼景の首に腕を回して引き寄せると、紅をさした唇を寄せる。  涼景の体に、燕春の細い体がぴたりと重なる。涼景の腹の底で、本能の塊が音を立てて蠢いた。  化粧の香りが鼻先を掠めるのと、涼景が燕春を押し返すのは、同時だった。 「馬鹿な真似はよせ!」  普段は決して、燕春に大声を出すことのない涼景が、この時ばかりは冷静さを欠いて叫んだ。  数歩の距離をとって、二人の視線が激しくぶつかる。  妹のものとは思われない、ぎらりと光る眼差し。  自分の狂気が、いつしか、燕春までも毒に染めたか?  いや、これは、たちのよくない冗談に違いない。  うろたえた自分を見て、ころっと燕春が笑顔になり、笑い出すに違いない。  そして、悪夢にうなされたような頭の奥の熱と、胸の騒ぎも忘れられるに違いない。  だが、涼景の願いを、冷たい沈黙が封殺する。  圧倒的な感情の重さが、燕春の目の中にはあった。  決して、戯言ではない、真実の重さが、確かに感じられた。  先に目をそらしたのは、涼景の方であった。 「湯は使わせてもらう。お前はもう、休め」  かすれた声が、かろうじて喉を突いた。 「涼景」  足早に燕春の脇をすり抜けて、歩き出した涼景の背後で、燕春の声が強く響いた。 「私たち、もう、逃げられないの」  ​彼女の言葉は、涼景の胸に刺さり、ずっと隠してきた黒い欲望の風が、その傷口から噴き出そうと渦を巻く。  惹かれる思いを振り切るように廊下の向こうへ歩き去る涼景の背中を、燕春は無表情で見送る。そうしながら、彼女は己の腹に手を当てた。  兄に抱きついたとき、腹部に触れた硬い感触。  彼女はもう、子供ではない​。

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