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2 星と太陽の邂逅(1)

 歌仙の地は、函の南東部に位置し、気候は一年を通して穏やかに移ろう。  北部にある函の都・紅蘭に比べれば温暖で、冬に雪が降ることもなく、過ごしやすい地域である。  それでも、秋の風は確実に冷たさを増し、あたりを縦横に走る河川の上を吹き抜けた。  犀家の大きな敷地には、母屋と東西に二軒の離れが南向きに建てられている。  犀星は子供の頃、昼間は母屋で過ごし、夜は西の離れで眠った。  親王として、特別なことは何一つない生活だった。  敷地内の畑を耕して作物を作り、近隣の山に入って狩をし、果実や山菜を集めた。川では領民の子供たちと一緒になって裸で泳ぎ、魚を釣っては大きさを競った。  母屋の北側にある庭では、犀遠から剣術を学び、日々の鍛錬を欠かさなかった。  じっと座って学問に打ち込むより、刀を手に駆け回っていることの方が好きな、活発な少年だった。  都に上がる前の犀星が今とはまるで別人であったことを、涼景や東雨が知るはずもない。  妙に大人びたところはあったが、好奇心が強く、愛情深い犀星を、屋敷の者達は皆、可愛がった。犀星も彼らによく懐き、一通りの家の仕事を覚えて、共に働くことを楽しんでいた。  政略や欺瞞、裏切りや欲望に満たされた宮中とは無縁の地で、彼は羽ばたく小さな猛禽のように自由に育てられた。  そんな輝くような日々の全てに、犀星の傍らには、玲陽がいた。  玲陽の母親である玲芳(れいほう)は、犀星の母の双子の妹にあたる。同じ時期に生まれた犀星と玲陽は、この屋敷で共に過ごした。  何をするにも、二人はいつも一緒だった。  穏やかな気候と、厳しく優しく明るい父、親切で笑顔のたえない家人たち、そして玲陽という生涯の友に恵まれ、犀星の幸せな日々は過ぎていった。  十五歳の、宮中に上がる日まで、彼は確かにこの地で幸福の中に生きていたのだ。  そして今。  都での十年の時を経て、彼はここに戻ってきた。  その顔は、少年時代の面影を残しながらも、さらに磨かれて揺るがぬ美しさを宿している。  しかし、どれほど美しくとも、かつての溌剌とした正気はなく、凍りついたように感情は閉ざされ、動かない。犀星の心は深く冷たい水底に沈み、呼吸は絶たれ、感情の色は失われた。  何がそこまで彼を変えたのか、それを知る者は都にはいない。  昨夜を父の部屋で明かした犀星は、結局、一睡もせずに朝を迎えた。  まだ朝靄が立ち込める時刻、犀家の外門の前で犀星はじっと門の木肌にもたれ、硬く腕を組んで足元を見つめていた。  その表情は、父と再会する前と同様に硬くこわばり、青ざめている。  麻織の着物は着色もせず、知らぬ者が見れば親王とは思われぬ質素ないでたちである。  装飾より実用を取る犀星の気質は犀遠譲りで、都でもそれを変えることはなかった。  長い蒼髪は頭の後ろの高い位置でひとつに束ねただけで、細い銀の歩揺を刺したのみである。  宮中の儀式や謁見などで着飾る必要がある場合以外、彼の身なりは極めてつつましかった。  だが、腰に吊るす大ぶりの刀だけは、刀匠が魂を込めた一級品である。  犀星のそばには、犀家の馬丁と小間使いが一人、心配そうな顔を見合わせながら、様子をうかがっている。  さらにその奥の内門のあたりでは、犀遠が見送りに立っていることを、犀星も知っていた。  だが、犀星は何も言わない。無言で、ただ、足元を見つめ続けるだけである。  いつもなら、こんな沈黙を嫌っておしゃべりを始める東雨は、今朝はまだすっかり眠って居るらしい。 「あの、伯華様?」  初老の小間使いの女が、気遣わしげに犀星を呼んだ。犀星は視線だけ動かして、女を見た。 「お共をなさってきた、あの少年、お連れしなくても良いのですか?」  犀星は小さく顎を引いて頷いた。 「東雨は休ませてやって下さい。役に立ちますので、邪魔にはならないはずです」  と、徐々に靄の奥から人影が近づいてくるのに気づいて、犀星は大きく首を向けた。昨夜別れた、燕涼景である。  暁将軍とまで呼ばれるほど上り詰めた若き男は、その屈強な体躯を柔らかな墨染めで包んでいた。わざと緩めた胸元の合わせから、筋肉の浮く厚い胸板が覗く。堅苦しい宮中にありながら、犀星同様、格式に縛られることが嫌いな男である。 「星、少しは眠れたか?」  燕涼景は、枯れ草を踏み締めて犀星に近づいた。犀星はじっと涼景を見返すだけで、返事はしなかった。 「おいおい、寝ろと言ったのに……途中でぶっ倒れるなよ」  涼景は事実を悟ったらしく、肩をすくめた。 「東雨は?」  あたりに姿がないことに気づいて、涼景は尋ねた。 「こちらでお預かりいたしますので、ご安心下さい」  犀星に代わって、小間使いか答える。 「ああ、それがいい。何があるかわからないから、あいつを連れて行くのは不安だった」  涼景は小間使いに向けて頷くと、その向こう側に視線を向けた。  内門のあたりに、靄に隠れてぼんやり見えるのは、犀遠のようである。 「侶香様には、改めてご挨拶に伺うと、伝えてもらえるか?」 「かしこまりました」  小間使いは涼景に礼をして答えた。  馬丁が、二頭の馬を引いて、涼景たちの元へ連れてくる。 「仙水様。侶香様が、お二人に馬を用立てるように、と仰せです」 「助かる。俺たちの馬は、昨日、無理をさせすぎた。感謝申し上げると、お伝えしてくれ」  涼景は馬丁から手綱を受け取ると、一頭を犀星に示し、自分も馬上に上がる。 「星、行こう」  犀星は黙ったまま鞍上で手綱を握ると、涼景の後に続いた。  小間使いと馬丁は丁寧に頭を下げてふたりを見送った。  川の多いこの一帯は、霧がかかりやすい地形である。  太陽が昇るにつれて霧は晴れ、二人の前に視界が開けた。  犀家の屋敷から緩やかな下り坂が伸び、その先は平原へと続いている。  そこには、幾筋もの川が流れ、大地を縫うように曲線を描いて悠々と地平線まで続く。  その中に、犀家の領民たちの家が、数軒ずつ固まって点在しているのが見える。  収穫期を迎えた緑の畑、遅まきの予定で耕された黒々とした土がむき出しの畑、農業用の水路、いくつもの橋、水車、道端に置かれた荷車、刈り取った稲や粟の束、すでに働き始めた人影。  眼下に広がる里は、少年の日に、大切な人と駆けた記憶を鮮烈に呼び起こした。  犀星は下り坂をゆっくりと、景色の中へ歩んでいった。  この景色は、あの頃と変わらない。自分達だけが、すっかり変わってしまった。  疲労と不安とでぼんやりとにぶくなった頭で、犀星はそんなことを思った。  目を向ければ、日の出の茜色が残る空との境界は、まだうっすらと白く煙っている。  静かな朝である。  込み上げてくる涙を、犀星は止めなかった。堪えることは徒労に終わると身に染みている。  自分でも情けないほどに、最近は涙が止まらない。  医者は心の病のせいだと言ったが、たとえそれが症状だとしても、質が悪い。  流れ落ちる涙はやけに熱く、それがさらに涙腺を緩めているように感じた。  涼景は何も言わない。  それだけが、犀星にとって救いである。  いつから、こんなになってしまったのか。  犀星は馬の背に揺られながら、曖昧な記憶を手探った。  半年ほど前、ある日、突然にそれは自覚された。  朝、目覚めた時に、まるで自分の体が泥にでもなったように重く、鈍重で動かすことができなかった。  寝床から起き上がれず、声を上げるのも億劫だった。犀星の起床が遅いのを心配した東雨が部屋に来て、様子がおかしい主人を見つけ、慌てて医者に知らせた。  何かがあったわけではない、と犀星は思う。  きっかけとなる出来事は思い当たらず、前日も普段通りに政務にあたり、東雨を相手に刀を振り、家の仕事をこなして、疲れて眠っただけのことだ。  だが、その日を境に、犀星はすっかり勝手が変わってしまった。  何をしても、心が浮き立たない。  今まで好んで眺めた、庭の花もくすんでしまった。人々の賑わう市場を歩いても、見えないものにすくんで、足が止まってしまう。単純な文章の転写でさえ、思わぬ間違いをしたり、筆の線が乱れて仕事にならなかった。食が細り、何を口にしても味がしない。やがて、夜は眠れなくなり、昼間は常に眠っているように集中力がなくなった。  そして、いつも、気づけば泣くようになっていた。  自分の周囲の世界がどんどん遠ざかっていくように思いながら、最後に一つだけ、残った記憶。それは、ずっと胸に抱き続けてきた、玲陽への思慕だけである。  十年前、止むに止まれぬ事情で引き離された人は、今、どうしているのか。  いつ、命が切れても構わないと、犀星は思う。だが、叶うなら、玲陽に会いたかった。せめて一眼会い、約束を果たしたいと願った。  何もかもが価値を失くした世界で、犀星に残されたものは、そのひとつきりである。

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