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2 星と太陽の邂逅(2)
玲陽を求めて、玲家へ向かう道は、確実に目の前のこの道に違いない。
玲家はここから馬を走らせて半刻ほどの距離である。
時は早朝、この時刻に玲家を訪ねたとて、門前払いを食らうことは目に見えていた。急いだところで、結果は得られない。
それでも、犀星が望むのであれば、涼景としては早めに到着する腹積もりでいたのだが、犀星はゆっくりした馬の歩調に逆らわず、急かそうとはしない。
不安、か。
涼景は、犀星の横顔を見つめながら、その胸中を察して黙っていた。
犀星が決して弱くはないことを、彼はこの十年間でよく知っている。
苦しいときには、いつも一人で静かに涙し、そして、それを自力で乗り越えてくるしなやかさを持ち合わせている。
派手さも豪快さも見せないが、共にいると安心感をもたらす犀星の魅力を、涼景は熟知している。
このまま潰してしまうのは、あまりに惜しい。
涼景だけではなく、宮中の多くの者たちが、歌仙親王の回復を祈った。
函は今、皇帝・宝順 の御代である。宝順は犀星の異母兄にあたる。
凡庸な宝順を支えるには、非凡な犀星の力が欠かせなかった。
優秀な家臣たちは多くいたが、皇家に連なる犀星の存在は、また、特別である。
一時はそれ故に、謀反の疑いをかけられたこともあったが、それも犀星自身の才知で切り抜けた。
今は、宝順自身も、犀星の手腕を高く買って、多くのことを任せるようになっていた。
宮中の利を優先する宝順に対し、犀星は己の得とならずとも、民心を第一に考える政治家だった。当然、都の民の心は宝順よりも犀星に傾く。しかし、犀星は兄を立てることを忘れなかった。自分が目立てば、それにより間違いなく反感を買うことを、彼は心得ていた。
出会って間もないころ、涼景はそんな犀星の清貧な姿勢がもの珍しく、興味をそそられた。だが、しだいに、犀星が求める『富』が、金や地位、名声とは違うところにあり、決して無欲なわけではないことを知ると、好奇が信頼へ、そして尊敬にも似た思いへと変わっていった。
犀星はこの国に必要だ、と、今の涼景は信じている。
それゆえに、こうして無茶な歌仙訪問にも応じたのだ。
あたりの朝靄はすっかり消え、あちこちから人の声も聞かれるようになってきた。
涼景は犀星の涙が途切れたのを確認してから、静かに声をかけた。
「しかし、玲家ってのは特殊だな。お前に頼まれて半月前に訪ねたが、俺が名乗っても決して門を開けなかった。お前の名前を出して、ようやく当主の玲芳が許可を出してくれたが」
犀星は流れるような動きで、隣の涼景の顔を見た。が、またすぐに前方の地面に視線を向ける。
涼景はそんな犀星の様子を、落ち着いた表情で眺めた。
「屋敷に上げてもらえても、結局、玲陽には会えなかったがな」
「…………」
「玲陽はここにはいない、の一点張りだ。どこにいるのか聞いても、居場所は言えない、で通された。それ以外の言葉を知らないんじゃないかっていう頑固さだ」
「…………」
「家探しする、って脅してみたが、全く動じてなかったな。あれは、本当に屋敷にはいない反応だと思う」
「…………」
「侶香様の話では、玲家の邸宅裏の砦にいるというが……」
「砦……」
「中に入るにはたった一つの門を通るしかない。門には常に門番が武器を構えている。中によほど重要な『何か』がなければ、あんな場所で武器を持つ必要はないだろう」
「陽……」
「ああ。試しに乗り込む価値はある」
犀星は、行く手の川を見て、わずかに目を細めた。
川幅があり、水量も豊かである。
川の水は西側にそびえる俸鹿山 からの滝を下ってきたものだ。巳禅 の滝は、犀星と玲陽の遊び場だった。滝壺は思いのほか深かったが、その裏には小さな洞窟があり、絶好の隠れ家だった。
同時に、この川は犀家と玲家との境界でもある。この川から北が玲家、南が犀家の領地だ。
玲一族は、今の王朝が建設されるはるか前から、一帯を牛耳っていた旧家である。肥沃な土地が多く、農業を中心として、地域の食糧庫という役割を担っていた。この歌仙地方の有力豪族として、今なお、都にもその存在は伝えられている。
玲一族が、今の朝廷においてもその権勢を保っている要因の一つには、家にまつわる言われがあった。
玲家の女児には、代々、不思議な力が宿り、魔を滅するという。そのため、男児よりも女児を重んじる、他家にはない慣習が根付いていた。それは同時に、彼女たちにとって幸運でもあり、不幸の種ともなり得た。
犀星の母、玲心は、この家の出である。
玲心は玲家の直系であり、次期当主と目されていた人物だった。玲家の女児が特別な力を持つと言っても、それは必ずしも目に見えるものとは限らない。玲心も、特に際立った力があったわけではない。むしろ、双子の妹である玲芳にこそ、時折、奇妙なことが起きることが多かった。
玲家の長老たちは、玲心を当主に立てた。これは事実上、玲心が玲家の後継を産むためだけに、生涯、屋敷の中でのみ生きることを意味していた。
この決定が下されたとき、玲心は密かに心を寄せていた幼馴染の犀遠を頼って、都へと逃れた。
気の強い玲心にとって、飼い殺される暮らしなど、受け入れられるものではなかった。
玲家は手を尽くして玲心を追ったが、当時の幕環将軍であった犀遠の妻となっては、容易に手出しができなかった。
玲家の手を逃れたかと思われたころ、玲心は新たな思惑に晒されることとなる。時の皇帝・蕭白は、玲家の血を求めて、犀遠から玲心を引き離し、自分の妻としてしまった。
犀遠は投獄され、全てを奪われた。
そんな犀遠を案じて、蕭白帝に解放を願い出たのが、皇子であった宝順だった。
幼い宝順は、犀遠が二度と都に近づかないことを条件に、歌仙に戻り、領地を継ぐことを蕭白に取り付けた。
一方、後宮で過ごすこととなった玲心は、狂気に取り憑かれた。それが、夫と裂かれたことによる絶望だったのか、玲家が施した呪いであったのか、今も真相は知れない。確かなことは、玲心が狂ったままに犀星を産み落としたという事実だけである。
「……星?」
思うでもなく、ぼんやりとしていた犀星を、涼景の声が引き戻した。
「しっかりしてくれ」
涼景はさりげなく励ますように、声をかけた。
「おまえが頼りなんだぞ。俺は玲陽の姿を知らないんだし、玲家はあの調子で部外者には冷たいし」
「……俺も部外者だ」
犀星は小さく答えた。
「俺の母上は、玲家に逆らった。だから、俺は子供の頃から、彼らには嫌われているし、本家に上がったこともない」
「だが、事実上、おまえは玲家の嫡男だろ?」
「今は、陽が後継者だ」
「まぁ、玲芳が跡目を継いだから、そうなるが。それでも、血は変えられない」
「ああ、変わらない。俺は、玲家が恨む先帝の血だから」
「自分達の力が、皇家に吸収されることは、あいつらも面白くないもんな」
「玲家は特殊だ。朝廷も国も、ましてや皇帝も、自分達とは関係ない。彼らは、遠い昔から、もっと、重たくて暗い掟のもとで生きている」
犀星の声は小さかったが、涼景の耳によく響いた。
「閉鎖的、か……」
自分が発した言葉に、一瞬、涼景ははっとさせられた。
閉ざされた場所で長く過ごすことは、知らず知らずのうちに精神を狂わせることがある。
彼の、妹のように。
玲家も、同じなのかもしれない。
何百年もの間、この歌仙の地に君臨しながら、それ以上勢力を広げることもなく、ただただ、安定のみを求め、血縁を優先する。
玲家の城下町に暮らすものも、ほとんどが玲家の分家の者たちである。
そうやって、一族が身を寄せて、この土地はなりたっている。さしずめ、血で固められた小さな国家のようでさえある。
眉を寄せて黙り込んだ涼景を、犀星がちらりと盗み見た。
自分のせいで、このような面倒ごとに巻き込んでしまったという申し訳なさが、余裕がなかった犀星に、涼景を気遣う心を思い出させた。
「涼景」
「……うん?」
「春は元気だったのか?」
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