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2 星と太陽の邂逅(3)

 サッと涼景の背中が冷たくなる。  犀星としては、重たい話題を打ち切るための配慮だったのだろうが、今の涼景には、最も聞きたいくない名であった。 「別に、普段通りだ」  自分の言葉が気遣いとして役に立たなかったことは、厳しい涼景の表情を見れば、犀星にも察せられた。 「すまない。余計なことを言った」 「……いや」  涼景は首を振った。  自分の歪んだ恋を、犀星にはかつて、吐露したことがある。  俺が今、こいつに気を遣わせてどうするんだ。  涼景は、ぐらついていた気持ちを引き締めた。 「それより、星。覚悟、できたのか?」 「覚悟?」  涼景は次第と近づいてくる玲家の屋敷を見た。  犀家の数倍の敷地を持ち、常に手入れが行き届いた様子である。建物は楼閣を備え、常に五〇名以上の家人が常駐する。屋敷の向こう側には城下町のような賑わいがある地域が広がり、まさに、玲家が歌仙の主人であることを物語っている。 「玲陽に会う、覚悟、だ」  涼景は犀星を見た。 「……ああ」  ため息のように漏らすと、犀星は目をあげずに、 「涼景、約束、覚えているか?」 「十年前、必ず迎えに来ると、お前が玲陽に言ったことか?」 「そうじゃない」  犀星は、深呼吸をして、まっすぐに涼景を見た。 「もしもの時は、俺を切り捨てる約束、反故にするなよ」 「ああ、そっちか」  涼景は気まずそうに口元を押さえ、それからかすかに笑って、 「わかっている。おまえが玲陽に振られてぶっ壊れた時には、山賊の中に丸腰で放り込んで、眺めていてやるよ」 「自ら手は汚さないつもりか」  フッと小さな息が犀星の唇を歪める。 「当然か。俺の血は、随分と汚れているからな」 「星! それを言うな」  涼景は力を込めて拳を握った。 「とにかく、玲陽に会え。全てはそれからだ」 「いや……」 「?」 「それで、終わりだ」 「……っ!」  互いに馬上でさえなければ、涼景は犀星の胸ぐらでも掴んでいたに違いなかった。  涼景の知る犀星は、決して諦めることのない男だった。周囲に突きつけられた無理難題も、知恵と自由なひらめき、大胆な行動力で見事にやり遂げてきた。その胸がすくような活躍に、涼景は我がことのように誇らしい気持ちになったものだ。  今、目の前にいる気弱な犀星など、見たくもない。  涼景は正直に顔を背けた。  こちらが気を遣っているってのに、どこまで甘ったれてんだ。  期待があり、憧れがあるからこそ、彼には、今の犀星は到底受け入れられない。 「しっかりしろ。この時のために、お前は十年間、地獄の宮中で生き抜いてきたんだろ」  意地が悪いと思いながら、涼景は吐き捨てた。 「今のお前を見たら、玲陽はがっかりするだろうな」 「…………」 「星、俺は昔のお前たちを知らない。それでも、お前がどんな思いで都での十年を過ごしてきたか、俺なりに見てきたつもりだ。間違いなく、歌仙親王は誇れる人間だ。玲陽にとっても、自慢の兄だ。下を向くな、胸を張れ」  涼景はつとめて感情を殺したが、それを聞く犀星には、涼景の怒りも苛立ちも、そして自分に向けられる熱い友情も、しっかりと伝わっていた。  濁っていた思考や、不安に溺れていた感情が、少しずつ正気を取り戻していく気がした。 「俺は、十年前」  犀星は、自分に言い聞かせるように言葉を選んだ。 「都に召し上げられる時、あいつをここに置き去りにしてしまった。あの時は、そうするしかなかった。俺は都ではあまりに無力で、あいつを守ることなんて叶わない。父上でさえ、母上を守れなかった。ましてや、十五の何も知らない俺に、陽を守り抜く力はなかった」  涼景は振り返って聞いていたが、あえて何も言わなかった。  周囲を流れる川の音だけは止むことなく、二人を包み込む。それは、引き返すことのない川の水と同じように、取り戻すことのできない過ぎ去った時間の音にも聞こえた。 「連れて行きたかった」  犀星が、独り言のようにつぶやいた。 「だが……」 「お前は正しかった。それは、お前が都で経験したことを考えれば、わかるはずだ。もし、共に都へ行っていたら、玲陽は間違いなく生きてはいなかっただろう。お前も、今のお前ではななかったはずだ」 「ああ」 「少なくとも、お前は考えた末に決断したんだ。自分を責めるな。それより、償え」 「償う?」 「そうだ。この十年、あいつを一人にしたことを自分の罪だと思うなら、これから償えばいい。今のお前には、その力がある。もう、ここを旅立った十五歳の子どもじゃない。そのために、お前はここへ来たのだろう?」  犀星は恐る恐る、親友の顔を見上げた。 「わかっている。迎えにくると、約束した。それを果たす」 「難しく考えるな。それでいいんだ」 「ああ」  犀星は、少し落ち着いたのか、僅かに目を閉じて口元を緩めた。  その表情に、涼景の昂る気持ちもおさまっていく。  やっぱり、星だ。  涼景は素直に、犀星の心が蘇ることを嬉しく思う。  涼景は玲陽を知らない。  詳しい話を犀星から聞いたことはなかった。  犀星は慎重で、自分と玲陽の関係については、ほとんど何も語らなかった。それは、近しい涼景や東雨に対しても同じであった。  親王であり、有能であり、人心を集める犀星にとって、敵となる人物も多い。  玲陽との深い心のつながりを知られることは、そのまま、自分の弱点を曝け出すことにもなる。  そして、玲陽を宮中の闇に巻き込むことへとつながってしまう。  その懸念から、犀星は沈黙を続けていた。 「陽のこと、ずっと気がかりだった」  犀星は行手の玲家の屋敷、そして、その奥に見える切り立った崖と、古い石造りの砦へと目を向けた。 「……俺がいない間に、状況は悪化したようだな」 「だろうな」  涼景は手綱を握り直した。 「玲陽は、玲芳の私生児だったんだろ? ただでさえ、玲家での立場は不安定だ。おまえが庇っていたから救われた部分も大きいと思うぞ」 「それでも、叔母上は陽を、守ってくれると……期待していた」 「自分の願望を人に期待するな」  涼景は厳しく言った。 「自分が守りたいものがあるなら、自分の手で守るべきだ」 「涼景」  犀星は物言いたげに涼景を見る。その目は、恨めしそうでもある。 「おまえ、俺を責めたいのか、励ましたいのか?」 「どっちでもない」  涼景ははっきりと、 「ただ、いつものおまえでいて欲しいだけだ」  犀星は形の良い眉をわずかに歪めて、行くてを見つめている。 「おまえが玲家を訪ねた時、叔母上の様子はどうだった?」  犀星は、感情の読み取れない声で言った。 「うむ……普通じゃなかった、と言えるかもしれない」 「普通じゃない?」 「俺は初めて会っただけだから、正しくはわからないかもしれないが、とにかく、会話が噛み合わない」 「同じことを繰り返したと言ったな?」 「ああ。心ここにあらず……いや」  涼景は眉間に皺をよせた。 「薬」 「?」  犀星の目が、明らかな動揺に見開かれた。 「薬か毒か……何らかの方法で自我が失われていると考えた方がいい」 「毒……」  犀星は眉をひそめた。 「もしかすると、叔父上が絡んでいるかもしれない」 「叔父上? ……玲格か?」  涼景は玲家の構成を思い出した。玲格は玲芳の兄であり、現在は夫だった。 「父の話では、俺が都へ出たころから、叔父上の様子がおかしくなったという。もともと、叔母上には厳しかったが、それがひどくなったとすれば、十分に考えられる」  涼景は怪訝そうに首を傾げた。犀星は、長く息を吐いた。 「現在の玲家の当主は叔母上だ。女系の家だから、叔父上が実権を握ることはない。しかし、もし、叔母上をあやつれるとしたら、話は別だ」  少しずつ、犀星の言葉はしっかりと、声は強くなっていく。目の前の出来事に集中することが、彼の気力を蘇られせているかのようだ。 「もともと、俺が生まれた頃……おそらく、母上が亡くなったことが、叔父上の心に影を落としたのだと思う」 「お前の母を失い、双子の妹であった玲陽の母を妻にした……」 「ああ」  犀星はこくん、と素直に頷いた。 「理解できない」  涼景は触れたくない話題だ、というように顔を背けた。 「いくらなんでも、どうかしている」 「それが、玲家なんだ。そして、陽も犠牲になっていると考えるのが自然だ……」 「やってやろうじゃないか、星。俺は玲家に恨みはないが、おまえが死ぬほど惚れ込んでる玲陽、好き勝手にされるのも腹が立つ」  涼景の中の、武人の血が騒ぐらしく、彼は自然と厳しく、そして活力に満ちたように目を輝かせた。そんな涼景を横目に、犀星は冷静だった。 「落ち着け、涼景」  犀星が自然と呟いたその言葉に、涼景が目を丸くした。今朝までの半死人のようだった犀星は消え、すっかり、都で縦横無尽に策略を巡らす、涼景のよく知る歌仙親王の顔だ。

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