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2 星と太陽の邂逅(4)
「あの砦は、一見、強固だ。高い塀と深い堀に囲まれ、唯一の入り口は門のみ。それも、昼夜問わず門番が立っていて、侵入も容易じゃない。だが、方法はある」
「どうするんだ?」
涼景は、犀星の変化に浮き立つ胸を押さえながら、平生を装った。
「あそこは昔、牢獄だったんだ。本家に楯突いた者を閉じ込めたという……」
「ふむ」
「牢獄ってことは……あれがある」
「あれ?」
「脱獄のための通路」
「!」
「誰も知らないけれど」
「それはいい! ……って、どうしておまえが知っているんだよ?」
「子供の頃、遊んでいたときに、偶然見つけた」
そう言って、犀星はにやり、と笑った。その不敵な笑みは、犀星が見せる数少ない感情の一つだ。そして、彼がこの顔をするとき、大抵のことは、彼の思うように進むことを、涼景は経験上、よく知っていた。
しかし、犀星はすぐに、真顔に戻った。
「でも、気になる」
「何が?」
「陽も、抜け道のことは知っているはずだ。なのに、どうして……」
「忘れてるんじゃないのか? 子供の頃の話だろ?」
「忘れない。陽は、俺が話したことなら、絶対に忘れない」
犀星の口調が少々ぶっきらぼうに聞こえたのは、照れたためかもしれない。
やっぱりお前は、そうやって前だけを見ている方が似合っている。
涼景は、少し前までの荒ぶった気持ちもすっかり消えて、満足そうに犀星を見つめた。
道の先に、人の背をはるかに超える石壁に囲まれた古い砦が見えた。本家から徒歩で半刻ほどの場所にある、鬱蒼とした下草に覆われた場所に、昔と変わらない威圧感を持って、それは待ち構えていた。
時代によっては、罪人を捕らえていた牢獄である。決して、良い環境ではない。
犀星と玲陽がここで遊んでいた頃、ここは無人であり、好きに出入りすることができた。
牢獄は朽ち果てて、誰かを閉じ込めるには意味をなさなかったが、奥の見張り役の詰所や、資料室はまだ、使われていた当時のまま、残されていたのを覚えている。
砦の裏手は険しい崖になっており、そこから一筋、滝が流れ落ち、庭に池を作っているはずだ。池は堀と繋がっていたが、途中には格子がはまっていて、泳いでくぐり抜けることができなかったのを覚えている。水は堀を満たし、東側に掘られた側溝を通って、近くの川へと繋がっている。
池の周りは、放置された野草が茂り、腐りかけた木戸と錆びた閂やらが散乱していた。
砦に近づくにつれ、犀星は少しずつ記憶が蘇ってくるのを感じた。それと共に、玲陽への想いもさらに強くなる。
堅牢な石壁だけは朽ちることなく、今でも外界と内部とを断絶していた。
堀にかかった跳ね上げ式の橋の辺りに、数人の男が立っている。この時刻、橋は上げられており、堀を渡る手段はなかった。
「涼景」
星は馬を降りると、手綱を涼景に託した。
「頼みがある」
「あいつら、引きつけておけばいいか?」
犀星が言う前に、涼景はそう言って笑って見せた。犀星は、安心したように頷いた。
「中の安全が確認できたら、合図する。追ってこい」
「わかった」
犀星は身を屈めると、草の中を静かに砦の石壁まで移動する。涼景は草が揺れる先を確かめた。ちょうど、石壁と岩肌が接するあたりで、その動きが止まり、それから、しん、と静まった。
「あのあたりが入り口だな。では、歌仙様の勅命、果たすとするか」
涼景は門番の死角から出ると、悠然と近づいていった。
子供の頃に通った通路は、幸い、そのままに残されていた。
それは犀星にとって幸運であったが、同時に、別の懸念を起こさせた。
どうして、陽は、これを使って逃げ出さないのか。
涼景が言うように、本当に忘れてしまったとは考えられなかった。
だとしたら、自分の意志で中に留まり続けているということになる。
草をかき分け、息苦しい土の穴を這いずって、犀星は先へ進んだ。こういう時に、飾らない着物は役に立つ。昔から泥にまみれて野山を駆け回っていた犀星である。宮中育ちの親王とは訳が違う。
真っ暗な土の中を手探りで進み、所々崩れて通りにくくなっている場所を、手で土を掘り返しながら切り開く。通路は途中から、岩の中を通る。脱獄を試みた囚人たちに、今は感謝すべきだと、犀星は思った。
子供の頃は、随分と長い通路だったように感じたが、もう、すぐ先に出口の日の光が見え始めた。
出口を見上げて、犀星は違和感を覚えた。
隠されている?
出口には地上から枯れ草が置かれ、通路の存在を隠しているようだ。今、通り抜けてきた道を思い出し、記憶と比べる。いくら童心であったとはいえ、明らかに距離が短い。しかも、犀星が顔を出した出口は、彼が覚えていた出口より、石壁に近い位置にある。
これは、元の通路より手前に、出口を作り直した?
もしかすると、この通路は、最近、使われたのかもしれない。
犀星は周囲をうかがいながら、人気がないことを確かめ、地上に這い出た。
あたりは、鬱蒼とした草が腰の高さまで生え、身を潜めるには十分である。
注意深く周囲を見回すと、記憶と重なる風景が見つけられた。
自分がいるのは、庭の隅らしい。
涼景が門番と何やら言い争っている声が聞こえるが、それ以外に人の気配はない。犀星は体を起こして、改めて見渡した。
庭の中を石畳が道しるべのように続いている。以前はなかったように思いながら、その細い道をゆっくりと奥へ進んだ。左手には、崩れた木造の残骸が放置され、右手には対照的に美しい水を湛えた池と、その周囲に花々が咲き乱れている。
妙だ。
犀星は記憶の中の景色と比較して、その変化に疑問を抱いた。
明らかに、誰かが手入れをし、世話をしている形跡がある。まさか、あの門番たちがやったとは到底思われない。だとすれば、ここに住む誰かか、それとも、その世話をする者か。
背後で、涼景が門番たちをからかう声が遠のいていく。
犀星は一度立ち止まると、空に向けて、鳶の鳴き声を真似た合図の指笛を鳴らした。涼景が引き上げていくのを確認し、先へと進む。
水の流れ落ちる音が大きくなっていく。
石畳に沿っていくと、道は大きく右に曲がり、水量はそれほどないが、落差のある滝が見えた。
犀星の記憶によれば、そこは、この砦の突き当たりである。左手に、十年前よりさらに朽ちた、木造の小屋がある。あれは見張り役の詰所であったか…… どこにも、人の気配はない。どうやら、心配していた警備は、門番だけのようである。
やはり、変だ。
犀星は怪しんだ。
これほど手薄なら、その気になれば玲陽は容易く逃げ出せるはずだ。
玲陽は犀星と共に犀遠から剣術を学んでいた。しかもその腕前は、犀星をしのぐものである。たとえ捕らえられ、武器を奪われたとしても、庭に転がっている木の枝一本でもあれば、強行突破することもできるはずだ。
胸騒ぎがした。
こうなると、ここにいるのはもう、玲陽ではない、と考える方が自然だ。
犀星は頭の芯が、熱を帯びてくるように思われた。
大きな期待感と、同時に不安。
何に期待し、何を不安に思っているのか、犀星自身にもわからなかった。ただ、大きな変化を目前にして、彼の神経は極限まで昂り、集中力は否応なく感覚を過敏にしている。
陽……
祈る思いで、犀星はまた、滝を目指した。
誰もいない。
そう、思った時、自分が見ている風景の中に、突如、人の姿を見つけて、犀星は立ち止まった。
まるで一枚の絵のように、その人影は周囲の景色に溶け込み、動かない。
高い崖の上から流れ落ちる一筋の滝。
水量は多くないが、途切れることなく、水音を響かせている。
その滝の下に、人が一人、こちらに背を向けて立っている。
膝まで水に浸かりながら、落ちてくる滝の水を背中に受け、じっと、動かない。体には白い襦袢を身につけていたが、水に濡れて肌が透けている。全身に赤や紫のアザや傷跡が見える。まるで、拷問を受けた罪人のような姿である。
犀星は、目を細めた。しばし忘れていた涙が、その目に浮かぶ。
違う。
犀星は震えた。
水の中の人物は、華奢ではあるが、体つきは男だ。
しかし、髪は、見たことのない金色をしている。玲陽の髪は、吸い込まれるような漆黒だった。
陽ではない。
涙が、流れた。
滝の音のせいか、男は犀星には気づいていない。
陽ではない。
犀星は嗚咽を飲み込んだ。
もう、立っていることさえ、不思議なほど、力が抜けた。
何もかも、全ての希望が失せた。
その時、一陣の風が庭を吹き抜け、花々を大きく揺らした。滝の水までが、ふわりと弧を描いて歪む。舞い上がった強い風に、犀星は思わず腕で目を覆った。
しんとして、辺りに水音だけが戻ってくると、彼は再び目を開けた。
途端に、体が凍りつく。
ずっと自分を支配していた恐怖、不安が、一気に蘇ってくる。
滝を背にして、男はこちらを見ていた。
太陽の光が男の濡れた髪に弾けて、金色に輝く。驚きに見開かれたその目もまた、黄金色をたたえ、人間の目とは思われない光芒を放つ。
異様な姿。
常人とは思われぬその姿は、犀星の驚愕を招くに十分だった。
だが、それ以上に彼を困惑させたのは、男の容貌だった。
十年の時を経て、変わり果てたとはいえ、その面影を見まごうはずはない。
「……陽……なのか」
震える声で、犀星は問いかけた。ささやきにも近い、かすかな声しか出せなかった。
何かを言おうとして、男の唇が動いたが、声はなかった。声はなくとも、犀星には聞き取れた。
はっきりと、自分の名を呼ぶ声が。
犀星は無意識のうちに駆け出し、滝壺に近づくと、迷わず飛び込んだ。水に足を取られながらも、転げながら男に駆け寄り、そのままの勢いで彼の冷たく冷えた体を抱きしめる。すがりつく。
悲鳴のような鳴き声が、犀星の喉をついた。
抵抗もせず、されるがままに犀星に体を委ねたまま、玲陽は目を閉じた。
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