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3 命あれども心なきが如く(1)

 犀星の腕の中で、いつしか玲陽の意識は薄れ、その体からは一気に力が抜けていく。 「!」  咄嗟に、しなやかな腕を絡めて支えながら、犀星はゆっくりと水の中に膝をつき、玲陽が倒れないように慎重に座らせた。ゆらめく水にとけるかのような、淡い玲陽の肌に目を奪われる。  ぐったりと力の抜けた玲陽の体は、あまりにも無防備だった。これほど弱りきった彼を、犀星は知らない。  肩を揺すったが、目をさます気配はなかった。  滝の音だけが、耳元でやたらと響いている。そのしぶきを頬に受けて、犀星は我に返った。  このまま、玲陽を水に浸しておいては、体が冷えて危険である。体温の低下がどれほど体を痛めることか。  水に足を取られないよう注意しながら、玲陽を抱き上げ、犀星は慎重に池から上がった。  玲陽の身体は、信じられないほどに軽く、骨ばかりが目立っている。以前、仕事で地方の飢饉の村を訪ねた時のことが思い出された。痩せ衰え、苦しんだ末に息絶えた人々を目にした。もし、自分がここに来るのがあと半年遅れていたら、玲陽の命も危うかったかもしれない。  食べられていないのか。  確かに、庭を調べても、食用となる植物は見られなかった。外部から食事を運んでこない限り、自給自足は難しい様子である。  玲陽のため、玲芳が何もしていないとは思いたくないが、決して良い環境に置かれていなかったのは確かだった。  今は、一刻も早く、玲陽を温めてやりたい。  温暖な歌仙とはいえ、風はもう冷たくなり、日中の気温も温まるほどは上がらない。このままにしておけば、一気に体力を失い、動けなくなってしまう。  本当はすぐにでも砦を出たかったが、あの通路を玲陽を抱えたまま通るのは無理だった。どうにか、彼が歩けるようになるまで、休ませたい。  着替えはどこだ?  犀星は足元を調べた。注意深く見ると、滝から、近くの小屋までの間だけ、地面の色が変わっている。何度も人が通り、踏み固めた印だ。  犀星は玲陽を抱いて、朽ちかけた小屋に向かった。一部屋だけの、箱のような質素な小屋は、年月に任せて放置されている。  だが、ここで長い間を過ごしているのだとしたら、それなりに身の回りのものが整っているはずである。乾いた着替えも、体を拭く手拭いも、暖かな寝床も必要だ。  扉はとうに崩れてなくなり、壁に空いた穴から出入りしていたらしい。小屋の中を見て、犀星はため息が出た。  何という酷い有様なのか。  犀星の目に映る、果たして部屋と呼べるかもわからぬ空間。  軋んで傾いた(しょう)には、ボロボロに破れた(じょく)が丁寧に畳んで置かれている。  壁には、薄い着物と襦袢がかけられている。丁寧にほつれを修繕した跡があるが、どちらも短かすぎて、玲陽の膝丈しかない。壁の棚に置かれた櫛も、何本も歯が折れ、結い上げるための髪紐すら擦り切れて、数本を束ねて使っているようだ。中には、植物の蔓を乾燥させて補強したものもある。  履き物は体に合わず、壁際にきちんと並べてあった。素足でいることが多いようだ。  唯一、使えそうなものといえば、部屋の隅の床に置かれた、小さな文机と、硯に墨、小筆だけである。  こんな場所に、閉じ込められていたのか?  犀星は体を伝い落ちる水もそのままに、立ち尽くした。  呆然として、腕の中の玲陽を見る。  この大切な人を寝かせる場所すら、犀星には思いつかなかった。こんなところにその体を降ろさなければならないなら、ずっと抱いていた方が、どれだけ良いか。自然と玲陽を強く抱き寄せる。  他にまともな場所はないのか?  犀星が小屋を出ようと振り返った時、涼景が外から、こちらを覗き込んだ。 「ここにいたか」 「…………」 「大丈夫だ、追手はない」  そう言って、涼景はまじまじと、犀星が抱く男を見下ろした。 「こいつが?」 「……ああ。陽だ」 「こんな容姿だったとは、聞いていないが」 「間違いない」  犀星が複雑な表情を浮かべる。再会を喜ぶ気持ちはあるものの、それ以上に、玲陽の変貌ぶりに絶句することしかできなかった。 「おまえたち、ずぶ濡れじゃないか」 「陽が滝に入っていたから……」 「だからって、おまえまで……」  と、言いかけて、涼景は黙った。今の犀星に何を言ったところで、話は先に進まないだろう。 「それにしても」  と、涼景は部屋を眺めた。 「酷ぇな」  足元の木片を蹴り飛ばして、涼景が唸った。 「都の死刑囚牢だって、ここまでじゃない」 「他に、部屋は?」 「建物の状態から見て、ここが一番、まともな部屋だろうな。穴は空いているが、辛うじて雨風は……」  と、天井を見れば、明らかに雨漏りの跡が真っ黒いしみとなって残っていた。 「外よりはマシか」  仕方なく、涼景は付け足した。 「とにかく、玲陽を連れ出さないと」 「その前に、濡れた体を温めてやりたい」  犀星が、どうしたらいい? と涼景を見上げる。  涼景は、あらためて部屋を見回した。 「待ってろ」  涼景は傾いた寝台を調べた。折れて欠けた足に、壁際にあった古い履物を噛ませて、高さを合わせる。寝台のささくれだった硬い木の板の上に褥を広げたが、薄すぎるため、ありったけを重ねた。褥は古く擦り切れていたが、丁寧に洗ってあると見えて、使うことはできそうだ。  そういえば、と、涼景は改めて見回した。  確かにこの部屋のものはどれも古く傷んではいたが、清潔に保たれているようである。また、着物の折り目ひとつみても、丁寧で整頓されている。  玲陽がやっていたのか?  涼景はちらりと、犀星の腕の中を振り返った。  涼景は玲陽を知らない。  歌仙で暮らしていたことがあるが、その頃は涼景も玲陽や犀星も、まだ幼子であった。記憶はない。  このような環境に置かれていながら、身の回りを几帳面に整えていたとしたら、それは思うよりも強い精神力を有する。  犀星の腕に抱かれて眠る玲陽は弱りきっていて、とてもそのような強さを持ち合わせているとは思われなかった。だが、犀星がここまで心酔するのには、確かな訳があるはずだ。  早く、話してみたい。  涼景は、途端に玲陽に強い興味を抱いた。 「陽を牀に寝かせろ」  明らかに不服、という表情を見せる犀星に、涼景は歩み寄った。 「仕方がないだろ。とにかく、体を温めることが先決だ。玲陽の襦袢を脱がせて、お前も濡れた服を脱げ」 「……うん」  素肌を人目に晒すことは、それだけで恥である。犀星が戸惑っていると、涼景は自分で玲陽の襦袢に手をかけた。 「涼景!」  思わず、犀星が玲陽を引き寄せて避ける。  涼景は淡々と、 「こんなもの着ていたら、体を冷やすだけだ。星、お前も脱げ」 「わかっている。俺がやるから……」 「早く、な」  言いながら、涼景は壁にかけてあった二着の着物を手に取った。  その間に、犀星はしゃがみ、膝の上に玲陽を座らせて、片腕でその背中を支えながら、片手で襦袢の帯を解こうとする。水を吸った布地は固く締まっていて、片手ではなかなか思うようにならない。無理をすると、痛んだ生地が裂けてしまいそうだ。  涼景は腕にかけていた着物を寝台に置くと、犀星の手元を手伝った。 「脱がせたら、玲陽を寝かせて。おまえの着物、肩のあたりは乾いているだろ。脱いだら、それで玲陽を拭いてやれ」  涼景は犀星たちに背を向けて、目をそらしながら言った。

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