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3 命あれども心なきが如く(2)
丁寧に襦袢を玲陽の腕からはずし、取り去る。玲陽の体に目を落とした犀星は、その有様に、顔を歪めた。
先ほど、濡れた襦袢越しに見えた傷は、全身に及んでいる。
大小古今さまざまな打撲の痕と、獣の咬み傷や刀傷、縛り上げられた鬱血など、顔以外に無傷な肌を探すことはできなかった。
「星、おまえも脱いだら、玲陽に寄り添って横になるんだ。温めてやれ」
「あ……」
「凍えた人間を温めるのは、人肌が一番だ。それとも、俺がやるか?」
「嫌だ」
「だったらさっさとしろ。いつ、誰が来るかわからないんだぞ」
涼景は崩れた壁から、外の様子を伺いながら言った。
犀星は玲陽を寝台に横たえ、自分も手早く着物を脱ぎ捨てた。
「ここは俺が見ているから」
傷ついた玲陽の身体に心を乱している犀星を、涼景の声が促した。
冷たく、冷え切った玲陽の体に自分の体を添えて横になり、体勢を変えてできるだけ密着するよう、犀星は静かに、しかし力強く懐かしい人を抱きしめた。
犀星が動くたびに、寝台が軋んで不安を掻き立てる音が鳴る。
玲陽の痩せこけた体は、まるで、氷のようだ。青く色褪せたその唇が、何かを感じ取ったようにかすかに震えた。
犀星の鼓動が高鳴る。介抱のためとは言え、このような形で玲陽に触れるなど、思ってもみないことであった。
涼景は壁から外した着物を、二人の上にかけてやった。
「星、辛くなったら言え。俺が代わる」
「嫌だ」
「おまえだって、体温を奪われて弱るんだ。二人で温めた方がいい」
「断る」
そう、つぶやいた犀星の言葉には、強い決意がある。涼景は、どこか、安心したようだった。
「俺は外を見てくる。火が使えるといいんだが」
「…………」
「ついでに、濡れた着物も干してくる。陽が着られるものは、これしかないようだしな」
「……うん」
犀星は、くぐもった声で答えた。
目を閉じ、体だけではなく、心も温めようとするように、犀星は玲陽の頬に顔をよせ、濡れた髪を撫でている。
その様子を涼景はどこか辛そうに見つめた。秋の風が、崩れた壁から、足元に吹き込んでくる。
涼景は部屋を出ると、周囲を警戒した。今はまだ、穏やかな時間が流れている。だが、いつ、誰がここへ来て、自分たちを排除しようとするかわからない。そのようなことになれば、流血沙汰も覚悟しなければならない。
歌仙親王の名前を出せば、大抵のことは混乱なく権威で押さえつけることはできるが、相手はあの玲家である。朝廷に対する忠誠など、まったく期待できなかった。だとすれば、力で圧するしかない。
何事もなく玲陽が目覚めてくれれば、すぐにでも抜け道を使ってここを出て、隠している馬で犀家まで走る。犀家に逃げこんでしまえば、いかに玲家とて手荒なことはできないはずである。歌仙領内での争いごとは、かたく禁ずるよう、領主たちの間で盟約が交わされている。涼景自身も、燕家の当主として、その誓約に名を連ねている。
その俺が、玲家の懐深くで何をやっているんだか。
庭の大きな石の上に、水を絞った着物を乗せて広げながら、彼は己が身の不遇を笑い飛ばした。犀星を思えば、この程度の危険はどうということはない。
見張りに立ちながら、涼景は記憶を遡った。
涼景の父、燕広播 は、犀遠とは旧知の仲であった。犀遠が都に出仕していた時期、広範は犀家の領地を任され、犀遠の期待に答えた。そのためか、涼景も犀家には縁を感じ、何かにつけ、犀遠が引き取った犀星のことを気にかけていた。
そして、犀星が都に来てすぐに、二人は顔を合わせた。正確には、涼景の方が、犀星に興味を持って近づいたのだ。一目犀星を見て、涼景はまるで昔から知っていたような親しみすら覚えた。
涼景と犀星は立場を超えて親しくなり、互いに本音を打ち明ける間柄となっていった。
犀星は玲陽については話したがらなかったが、その深く熱い想いが、単なる幼馴染への友情を超えたものであることに、涼景は誰よりも早く気づいていた。
犀星には、ひとつ、譲れない習慣があった。それは、毎日眠る前に、その日のことを書きつけるのである。それは日記などではなく、歌仙の玲陽に向けた、手紙であった。翌日には東雨がそれを投函していたが、十年間、一度も返事が来たことはなかった。それでも、犀星は何があろうと、これだけはやめなかった。
このような状況では、手紙は玲陽のもとには、届いていなかったのだろう。無駄なことをしたものだ、と笑うことは容易い。だが、涼景にはとても、そんな気にはなれなかった。玲陽に手紙を書き続けることは、犀星にとって、呼吸するのと同じことなのだと、涼景にはわかっていた。宮中という監獄の中で、犀星もまた、自分が生き残ることに精一杯だったのだ。
犀星と玲陽。その二人の再会のために、涼景もまた、力を尽くしてきたつもりだった。自分が、実妹である燕春を慕うように、決して世には出せぬ恋焦がれの苦しみを、犀星もまた、抱えているのだ。
涼景は周囲を警戒しつつ、庭の草木を観察した。食用になりそうなものはないが、逆に薬草の類は確認できた。軍人となるべく育てられた彼だが、一通りの医術も学んでいる。簡単な血止め薬の原料、解熱の薬、化膿止め、滋養薬、など、民間療法でも用いられる草が、自然に任せてではなく、明らかに人の手で育てられていた。
玲陽が多くの傷を負っていたことから、彼自身が自分のために育てていると考えられる。
あれだけ怪我をしながら、外部から薬も持ち込ませないのか?
涼景は眉をひそめた。
第一、あれは何の傷だ? 自分でやったのか、それとも、誰かに?
先ほど少し見かけただけで、丁寧に調べた訳でない。だが、帯を解く際に、玲陽の背中にも切り傷の痕を見つけた。
自分で自分の背中を切るとは考えにくい。
涼景は唸った。
「少し探してみるか」
彼は、幾つもの戦場を知っている。自ら、命の危険を感じたこともあれば、数えきれない者の返り血を浴びたこともある。戦地によっては、まともな陣営を構えることもできず、このような崩れかけた廃墟で寝起きしたこともある。
その涼景から見ても、砦の様子は酷いものだった。
水源は、唯一、玲陽が浴びていたという滝だけで、井戸は見つからなかった。
だいぶ日が高くなってきていたが、秋の風は冷たい。
涼景は古びた手桶を見つけ出すと、滝へと向かった。
膝まである池は、常に水が流れており、足を取られて歩くのも困難だ。滝の水で手桶を洗い、試しに一口飲んでみたが、思った通り冷たかった。この水を、玲陽は浴びていたのか。高い山麓からの水は、どれだけ、あの痩せ衰えた青年を傷つけただろう。
さらにあたりを物色して、涼景は妙なことに気づいた。
ひび割れた水瓶や調理台のある角の部屋は、厨房のようである。しかし、そこには火の気もなく、最近、煮炊きした痕跡もなかった。薪も炭も、釜もない。これでは、料理どころか、湯を沸かすこともできない。
「あいつ、何を食べていたんだ?」
誰かが、食事を運んでいたのだろうか。先ほどの門番からついでに聞き出した簡単な事情によれば、玲陽の義理の兄や、その知り合いらしき者が数名、数日に一度訪れる他は、誰も出入りしないという。その兄たちも、食糧を運んでくるわけではないようだった。時折、酒を手にしてくることもあったが、それだけである。
涼景は再び庭に戻り、手入れされた庭を調べた。
秋だというのに、食用の実を結ぶ植物は見当たらない。毒性のあるものは生息していないにしても、これらの草をそのまま食していたとしたら…
「よく、生きてたな」
まさに、水や霞を食べて生きるという仙人のような暮らしか?
世の中には、植物しか口にしないという者もいるが、そこには栄養のある種子や果実も含まれるため、玲陽のように体を痛めている様子はない。
では、やはり誰かが食事を差し入れているのだろうか。玲本家には、玲陽の生みの親である、玲芳がいる。まさか、実の子をこのような境遇に落としながら、何もしないということも考えにくい。しかし、先日玲家を訪ねた際に会った玲芳は、どこか焦点のさだまらない目をしていた。あれは、薬物に侵されている目だ。まともな判断ができなくなっていてもおかしくはなかった。
また、玲芳の実兄であり、現在の夫である玲格は、鬼人の異名を持つ、情け容赦のない男である。実妹の玲芳を妻に迎えたのは、父親の知れない玲陽を産んだ妹を嫁に出すことを一族の恥としたからであったともいう。理由はどうあれ、普通の神経でできることではない。さらに聞くところによれば、玲芳との間に、一女をもうけているという。
いかなる事情があれ、兄妹婚が容認される社会ではなかった。だからこそ、自身もまた、妹への想いに苦しんでいる涼景である。
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