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3 命あれども心なきが如く(3)

 自分のこと、犀星と玲陽のこと、そして、これからのことを、庭に突っ立って、涼景が考えこんでいた頃、殺風景な部屋の寝台では、静かに犀星が涙を流していた。  どんなに温めても、玲陽の体は冷たいままだ。犀星自身も手足が冷えて、感覚がなくなってきている。だからと言って、涼景と代わるのも嫌だった。玲陽を温めるという一点においては、交代が最善であることはわかっている。しかし、そう簡単に割り切れるほど、犀星も無感情ではない。  ちょうど、窓から午後の日差しが差し込んでくる。  犀星は少しでもその日差しを受けようと、寝台を動かした。大きな音が鳴ったが、それでも、玲陽が目覚める気配はない。  そっと、犀星は玲陽の胸に手のひらを当てた。玲陽の肌に触れているという事実に、不覚にも犀星は胸の高鳴りを感じる。  幼い頃、共に入浴したり、川で泳いだり、と、互いの裸体を見てはいたが、それは所詮、子供の頃の話である。  こうして成人した相手と、突然肌を重ねるなど、考えてもいないことであった。  玲陽の胸は、静かに、かすかに鼓動を打っていた。犀星の手のひらが、弱々しい脈動を必死に感じ取ろうとする。今にも消えてしまいはしないか。そんな不安に怯えながら、犀星は我知らず、肋骨を指先でたどった。一本ずつ、浮き出たその骨は、薄い皮膚一枚の下に感じられた。  どうしてこんな姿に……  犀星の涙が、ポロポロと落ちた。  玲陽は決して、華奢ではなかった。犀星同様、特に筋肉質ではなかったが、相応に逞しく、しなやかだった。  二人はよく剣術の勝負をしては競い合った。結果は、玲陽が勝つことが多かったように思う。犀遠が厳しく二人を鍛え、彼らもよくそれについていった。稽古に疲れると、最後には二人で地面に寝転んで語り合った。泥にまみれても、草つゆに着物を汚しても、二人とも、一向に気にしなかった。ただ、互いの存在がそばにあることが、全てだった。  犀星は、母を知らない。寂しさを感じることはあったが、彼は亡くした母よりも、目の前にいる人間に重きを置いた。犀遠が辛いだろうと慮って、少年になると、もう、母の話をせがむことはなくなった。いずれ、歌仙を離れて宮中に行かねばならないことが定められていた犀星は、その日その日を精一杯に生きた。身分に関係なく、平等に接した。目の前のことに全力で向かい、他者の評価より、己の直感を信じる。それが、幼い頃からの、犀星の生き方だ。  玲陽は父を知らない子であった。母の玲芳に尋ねても、身に覚えがない、という。父親が不明で生まれる子は数知れずいるだろうが、玲陽のように、父親が存在せずに生まれた子はどれほどいるのだろう。自分は何者なのか、という根本的な疑問、実の母親の愛さえ素直に受け止められず、誰にも心を開くことなく、いつも微笑み、嫌われまいと自分の心を封印してしまったのが、玲陽である。  このふたりは、生まれる前から、因縁のようなもので結ばれていた。  犀星の母、玲心が先帝の子を身籠もると、その身のまわりのことをするために、玲芳は都へと向かった。  生まれてくる子供が女であれば殺し、男であれば連れ去る。  玲芳はそう、きびしく命じられ、玲心には何も言わずに世話をした。  玲家の血を継いだ女児が、皇帝の手中に落ちることを、一族の長たちはなんとしても避けたかった。  また、子が男児であれば、自分たちが引き取り育てることで、次の皇位争いに利用することもできる。玲家には朝廷に成り代わる意志はないが、親王の身と引き換えに、それなりの盟約を通すことくらいは考えていた。  思惑の中、生まれた子は、男児だった。  玲心が出産直後に絶命したため、玲芳は急ぎ、犀星を連れて歌仙へと逃げ延びた。先帝・蕭白は追手を放ったが、それを妨害して犀星の歌仙入りを助けたのが、宝順であった。これをきっかけとして、蕭白と宝順は全面対決を迎え、その末に、宝順が即位する流れとなる。  一方、歌仙に帰り着いた玲芳は、自分が身籠もっていることに気づいた。彼女にはまったく身に覚えのない妊娠だった。  父が存在するのか、母にさえわからないまま、犀星が生まれた四十九日後に、玲陽が生まれた。  わずか一月半の差であったが、玲陽は犀星を兄として心深く慕った。  犀星もまた、父のわからぬ忌み子として避けられ、冷たい仕打ちを受ける玲陽を守りたいと願った。  二人は、一つの時間を過ごした。  自分にないものを、相手は持っていた。  犀星の勇気を玲陽は学び、玲陽の慈愛を犀星は学んだ。  十五歳を迎えるまでは、彼らは毎日、共に生きてきた……  犀星は、玲陽の凍った横顔に、そっと顔を近づけ、頬を擦り寄せた。  子供の頃さえ恥じらった大胆な行動が自然と出たことに、犀星自身、驚いていた。だが、こうせずにはいられない。胸の中に、熱くて痛い感情が次々と湧き出してきて、冷える体に反して心は焼けるようだ。 「陽」  堪えられない何かに、押し出されるように、犀星の喉から、その名がこぼれ落ちた。  長い間、虚空にむかって呼び続けた名。  十年前、自分が置き去りにしてしまった自分の分身、いや、自分の魂そのものの名だ。 「すまない」  どれほど謝罪を口にしても、償いきれるものではない。  犀星には、玲陽を都へ連れて行く勇気がなかった。玲陽もまた、自分が犀星の負担になることがわかっていた。  必ず迎えにくる。  犀星は別れ際、そう約束した。だが、それを果たすには、あまりに長い時間が必要だった。そしてその間に、玲陽の身にこのような悲劇が起きていようとは、思いもしないことであった。  あの頃、玲陽は、美しい艶やかな黒髪をしていた。犀星は自分の奇妙な髪色が気に入らず、玲陽の髪に憧れた。  また、玲陽の漆黒の瞳も、犀星にはうっとりと美しく感じられた。  黒い髪と瞳、真珠のごとき光沢のある白い肌、誰に対しても、何に対しても、愛情を持って尽くす玲陽の姿は、たとえそれが、寂しさの裏返しであったとしても、犀星には何よりも尊く、美しかった。この人のために、生きようと決意し、犀星は多感な少年時代を、玲陽に全てささげてきた。  犀星のその真実の想いは、玲陽の心を開かせた。  母にすら遠慮がちに接し、目をそむけてしまう玲陽が、犀星だけは真っ直ぐに見つめた。そして、作り物ではない、本心からの笑顔を、惜しげもなく向けた。鋭く、強く、自信に溢れた犀星の碧玉の瞳は、玲陽の誇りであり、正しく自分を導いてくれる(ほし)に相違ない。  あの頃、まだ若すぎた二人には、その感情がなんであるか、はっきりとした答えが出せなかった。  幼馴染か、複雑な事情を抱えた従兄弟か、共に育った義兄弟か。  そのどれもが当てはまると同時に、核心を得てはいない。  何かぼんやりとしたものを感じてはいたが、自信を持って口にすることはできず、心の中に秘め続けた。  そんな二人を、犀遠は優しく見守り続けた。  犀遠には、二人が互いに惹かれ、愛を抱いていることがわかっていたが、あせらせることはしなかった。時の中で、それは確実に育ち、やがて、彼ら自身が気付くことを願った。  そんな犀遠の願いむなしく、二人は十五歳を目前に、引き離された。  それでも、犀星は一人、玲陽への思いを抱き続けた。  心に生まれた感情の嵐。それは消えることなく、日々募るばかりで、やり場のない怒りや虚しさ、寂寥感に気が狂いそうになった時、犀星の心は、はっきりと、玲陽を想っている自分を見つけた……  体が冷えたせいか、鋭い頭痛を覚えて、犀星の意識が思い出の迷路から引き戻された。  子どもの頃のこと。  都で過ごした月日のこと。  そして、今、この瞬間のこと。  バラバラだった記憶が全て現実であることを、腕の中にしっかりと抱きしめた玲陽の体が、確かに告げている。  何もかもが現実に起きた出来事であり、その末に、今の自分たちがいるのだ。  犀星は玲陽の頬に、そっと手のひらを当てがった。 「二度と、放さない」

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