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3 命あれども心なきが如く(4)
自分でも不思議と、そんな言葉が犀星の口をついた。そして、言ってしまってから、それが自分の全てであることに気づく。
そうだ、玲陽と離れていた時間、自分の心は死んでいたのだ。
そしてそれは、玲陽も同じだったのだろう……
自分には、涼景がいた。東雨もそばにいてくれた。たとえそれが玲陽ではなかったとしても、一人ではなかった。
だが、玲陽は、たった一人、この地で孤独を見ていた。
姿が変わり果てようとも、犀星には愛しくてたまらない存在に他ならなかった。
よく、生きていてくれた。やせ細った身体と、いたたまれないほどの傷を抱えながら、それでも、玲陽は生きていた。一体、そこにはどんな思いと苦しみ、そして強さがあったのだろう。
知りたい、と犀星は思った。
玲陽の言葉で、彼の日々を語って欲しい。それがどんな苦しみを伴う時間であったとしても、自分は全てを聞き届けたい。自分が過ごした暗い出来事も、洗いざらい聞いて欲しい。そうやってすれ違ってしまった時を埋めたい。そしてそこらまた、一緒に生きていきたい。二度と、離れることはない。
そう、望みはしても、それは犀星がひとりだけ、思うことかもしれないのだ。
玲陽が同じ心を抱かず、自分を拒んだならば、それはもう、犀星にはどうすることもできない。もし、そのように運命がめぐるならば、そこで自分の命を閉じてしまいたかった。犀星は涼景に、場合によっては自分を殺して欲しいとまで訴えた。
玲陽は文字通り、犀星の最後の希望だった。
玲陽の頬から口元へ、犀星は手のひらを滑らせた。
わずかに、赤みが戻ってきた唇。あの滝の下で再会したとき、その唇が動いて、確かに、自分を呼んだのだ。
『星…兄様』
玲陽は、確かに自分をそう、呼んだ。
それこそが、自分が何より欲していたものだ。
どんな宝より、地位や権力より、たった一人の人が、自分だけを求めるその言葉。
これが、これだけが、犀星の望む『富』だった。
玲陽を取り戻すこと。
彼が都で生き抜いてきた理由の全てだった。
「二度と、一人にしないから」
今度は、自らの意思で、力のこもった声で、はっきりと、犀星は囁いた。そうして、玲陽の首元に顔を寄せた。冷えた肌に息を吹きかけ、少しでも温もりを伝えたかった。
「……約束、ですよ」
かすかに、この世のものとは思えないほど澄んだ声が、犀星の耳元で煌めいた。
喉が潰れたように呼吸が止まり、犀星は何も言えなかった。寒さではない何かが、かたかたと体を震わせた。
答える代わりに、ただ、強く強く、玲陽を抱きしめる。
犀星が力を込めれば、容易に砕けてしまいそうなほど、玲陽の体は細り、病んでいた。全身の傷も、さぞや痛んだことだろう。
それでも玲陽は、声一つ上げることなく、黙ったまま、その細い腕を精一杯に伸ばして、犀星の背中を抱き寄せる。
ああっ!
犀星は目を閉じ、玲陽はその目を開いた。
自分より、ずっと逞しくなった犀星の体は、彼が都で戦い続け、己を危険に晒してきた結果であることを物語っていた。辺境の地で幽閉され、飼い殺されていた自分には、想像もつかない苦難が、犀星の身には起きていたのだろう。
身を裂かれる思いで都へ連れ去られたあと、犀星は、命を狙われ、眠れぬ夜を過ごしたに違いない。玲陽を連れていく、と叫んだ犀星の言葉をはっきりと断ったのは、玲陽自身である。
もし、自分が共に都へ行ったならば、間違いなく、犀星に負担をかけてしまうことを、玲陽は察していた。親王の従兄弟、まだ幼く、剣術もままならず、己の身も自在に守ることができない自分が、どれだけ、足手まといになるか、玲陽は、それだけを考え、後を追いたい気持ちを殺した。
あの時、犀星は泣きそうな声で自分を呼んでいた。出立のぎりぎりまで、自分を探し、必ず守るから一緒に来てくれと、繰り返した。
必ず守る。
犀星のその言葉は真実だっただろう。
そして、犀星は自分を守り、命を落としただろう。
玲陽が何より望まない、未来。
犀星なき世界に、自分もまた、存在する理由はない。
悲鳴にも似た、自分を呼ぶ声が遠ざかるのを、玲陽は膝を抱えて、隠れたまま聞いていた。
あの時流れた、止まらない涙の熱さを、玲陽は今でも鮮明に覚えている。
よく、生きて帰ってくれました。
玲陽は犀星の頭を引き寄せ、そのうなじに顔を埋めた。
感じる、喉元の血管の脈動。
確かに、生きている暖かい体。
それが、自分が求めた全てなのだ。
そして、その命が、今、こうして自分の腕の中にある。玲陽は、何もかも、忘れていた。
幼かった時のこと、この砦で受けてきた仕打ち、何度も襲ってきた、自ら命を絶ちたい衝動。
それら全ては、この、今、という瞬間が消し去った。そして、新しい時間が始まるのだ。
命あれども、心なきが如く。
抜け殻のように生きてきた時間は、終わりを告げた。
重なり合う心を自らの中に受け入れて、二人は互いの髪を撫で、頬を撫でて、見つめあった。
「陽……」
「星、おかえりなさい」
犀星は、煌めく玲陽の金色の目を見つめた。かつての彼の瞳と変わらず、優しく底知れぬ慈愛の光が、そこには宿っていた。
「陽、おまえ……」
変わっていない。
姿がこれほど変わり果てても、玲陽の魂は変わってはいない。自分が焦がれた心のまま、自分を待っていてくれたというのか。
交わり合う視線が、互いを絡め取り、どちらからともなく、自然と唇を寄せようとしたとき、
「悪い。待たせたな。湯を沸かすのも一苦労だった」
火おこしから始めて、煮詰めた薬湯を入れた椀を手に、涼景が入ってくる。
犀星は、顔を上げると、玲陽の胸に甘えながら、とろんとしたまなこで涼景を見た。
その恨めしげな目に、涼景は自分が邪魔者だと感じたらしい。
「ああ、そうかよ」
全てを察して、涼景は無遠慮に二人に近づくと、犀星にはお構いなしで、逞しい腕を差し入れ、玲陽の上半身を抱き起こした。
「触るな!」
どこか夢うつつだった犀星が、慌てて玲陽の体を奪い取る。突然のことに、あっけにとられて、玲陽は目を瞬いた。
「あの……」
玲陽は、恐る恐る、犀星と涼景を見比べた。
この関係はなんだ? 敵同士には見えないが……
「玲|光理《こうり》どの」
涼景は寝台の下にひざまづいて、玲陽を見上げた。
「とんでもない姿での対面となったが、勘弁してくれ。燕|仙水《せんすい》だ」
玲陽は、自分たちにかけられていた古着を引き寄せ、素肌を隠した。今更取り繕っても仕方がないと思いながら。
「事情は察しがつきます、仙水様」
静かに、玲陽は涼景に頭を下げた。
「あなたが、助けてくださったのですね。私も……そして、兄様のことも、ずっと」
「恩は返してもらうぞ」
「涼景!」
犀星は恨みがましい声を出した。それが、涼景なりの親しみを込めた挨拶だと知ってはいても、玲陽にぶつけられると、なぜか不安になる。
犀星の心配をよそに、玲陽の方は、落ち着いて答えた。
「仙水様。暁将軍としてのお噂は聞き及んでおります。そのあなたが、兄様をお守り下さいましたこと、この玲光理、心より感謝申し上げます。あなた様からのご恩、とてもお返しし切れるものではないでしょうが……」
「案ずるな。俺が押し売りする恩は安いんだ」
涼景は薬湯を差し出した。
「こいつを飲めば、帳消しになる」
一瞬で、涼景の懐の深さを悟ったのだろう。玲陽は素直に椀を受け取ると、疑うことなく飲み干した。
心配そうに玲陽を支えていた犀星に、涼景がにやりと笑って、
「星、お前がどうして、ここまでこいつにこだわったのか、得心がいった」
「なんだ?」
「二度と手放すな。その時は、俺が貰い受ける」
「ふざけるな! 殺されたいか!」
「兄様」
思わず激昂した犀星に、穏やかに玲陽が声をかけた。呼ばれて、反射的に振り返る。
「お帰りを、お待ちしておりました」
犀星の頬に流れ落ちた一雫の涙の意味は、彼自身にもわからない。
そして、玲陽の頬に、十年ぶりに優しい笑みが浮かんでいたことに、玲陽自身もやはり気づいてはいなかった。
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