13 / 59

4 炎の刻印(1)

 抱き合った犀星と玲陽が寝台に横たわっている。その隣の壁に背中をもたれて、涼景は床に座り込んでいた。  意識を取り戻した玲陽を、犀星は体をさすりながら暖めている。  薬湯が回り、玲陽も少しずつ、自力で動けるようになっているらしい。  早くここを抜け出したいが、急いては事を仕損じる。  玲陽が言うには、人が来るとしたら夕刻より後、とのことであった。だがそれも、絶対では無い。また、来る日もあれば来ない日もある。その時になってみないとわからない、という。  もう少し、玲陽が落ち着くのを待ってから抜け出そう、ということで、話はついた。  そして、今の状況である。  涼景は寝台の上を見ないように、と、顔を背けつつも、どうしても気になってしまう。  犀星と玲陽はただ、体の回復のために、調子を整えているだけだ。時々、小声で他愛の無いことを話し、クスクスと笑う。十年も離れていたとは思えない親しさだ。  情事を覗き見している訳ではないにせよ、その甘い空気はどうにも落ち着かない。つい、妹のことを重ねてしまうと、涼景も体がほてってくる。自分達にもいつか、そんな日が来るのだろうか。いや、それは決して望んではならない日なのだ。  燕春とは、十二歳の年齢差がある。しかも、相手は十六になるばかりの娘、体の弱い妹である。涼景は医術者として、彼女の診察を繰り返すうちに、その体が永くは生きられないことに気づいてしまった。二十歳まではない命だろう。出産は愚か、破瓜にも耐えられまい。そのことを、涼景は自分の胸の内にだけ秘め、犀星にすら話したことはない。  国の大事を担う犀星に、自分の個人的な事柄で気遣いをかけたくはなかった。  涼景とは、そういう男であった。  守ると決めた者のためには、官位も道徳も無視する。こうして、犀星のために危険を承知で玲家の懐に飛び込んだのも、彼の性格ゆえだった。  そんな豪胆さを持ち合わせながら、自分は得を取るということをしない。うまく立ち回れば、さらに富も名誉も手に入る立場にありながら、それらには一切の興味を示さない。ただ、友のために、全てを投げ打つのだ。我ながら、損な性格だと思う、と言いながら、それでも、涼景は満足そうによく笑った。  犀星は、そんな涼景だからこそ、惹かれたのかも知れない。そして玲陽も、涼景のその本質を一目で見抜いた。  時折、背後から聞こえる衣擦れの音や、安堵のため息を聞きながら、涼景の胸に、一抹の不安がよぎる。  この二人を、本当に会わせてよかったのだろうか。  両者の気持ちを思えば、こうする以外に方法などない。さもなくば、犀星が孤独のあまり、玲陽に再会せぬまま、命を断つのは時間の問題だった。  しかし、出会ってしまったら、それで終わりではない。  これは、始まりなのだ。  涼景にも想像できないが、何か、大きな出来事が、二人の再会をきっかけに始まろうとしている。そこには、自分も無関係ではいられないだろう。燕春も巻き込むかもしれない。東雨とて、他人事ですまないはずだ。自分達を取り巻く身近な人々、また、ともすると、都を、宮中を、国をも揺るがす、そんなことが……  涼景が途方もない想像をしていたとき、まるで天運のように、痩せこけたネズミが部屋を駆け抜けた。 「大山鳴動して鼠一匹」  思わず、涼景は声に出すと、小さく笑った。 「どうした?」  気づいた犀星が静かに声をかけてきた。振り返ると、艶めかしい姿のまま、犀星が寝台で体を起こしている。その表情はどこか気だるげで、そして、穏やかだった。こんな顔をする犀星を、涼景は知らない。玲陽が犀星に与える影響とは、そこまでのものなのか…… 「いや、ちょっと考え事を、な」  涼景は体勢を変えると、玲陽の脈を取ろうと手を伸ばしかけ、宙でそれを止めた。ちらりと犀星を見る。 「光理に触ってもいいか?」 「……ああ」  少しは落ち着いてきたらしく、犀星は頷いた。  こいつ、こんなに過保護だったのか?  玲陽に対する犀星の態度に、涼景は引きつった笑みを浮かべる。歌仙親王は、他者に興味示すことのない、無感情な人間、という評価は、真実ではなかったようである。  玲陽は涼景を信用していると見えて、おとなしく腕を差し出してくれた。 「いい子だ、光理」  涼景の言い草に、犀星がムッとするのがわかる。今は、それすら面白い、と涼景は思う。  正直、のんびりとしていられる状況ではないのだが、これが安全な場所でのやり取りであるなら、大歓迎だ。きっと、涼景の参謀である遜蓮章も、面白がるに違いない。  蒼氷の親王に感情が宿った。  これは、都を揺るがす大事件だ。  涼景は横たわる玲陽の脈を取り、体温を確認する。 「血の巡りが良くなってきたようだな。気分はどうだ?」 「はい。もう、寒気はありません。関節も楽になりました。すぐにでも動けます」 「無理をするな」  涼景は首を振った。 「急に動くと、貧血を起こす。まずは姿勢を維持できるようにしてからだ。座れるか?」  玲陽は犀星の腕に掴まりながら、体を起こした。涼景は、じっと玲陽の体を観察する。傷もそうだが、彼が今見ているのは、その骨格と筋肉の様子である。  玲陽の栄養状態が酷いことは明白である。しかし、涼景には、その体の芯がぶれていないように思われた。筋肉はかなり落ちている。それでも、体幹がしっかりと残り、最低限の力で動けるよう、整っている。  ひょっとすると、計算して鍛えていたかもな。  素人目にはとてもそうは思えない身体を前に、涼景はそう、分析した。  もし、そうだとしたら、この男、相当に強い精神力だ。  そんなことを考えて、思わず、涼景はにやりとした。 「何を見ている?」  涼景の表情を目ざとく見咎めて、犀星が言う。 「陽に妙な目を向けるな」 「そんな目では見ていない。健康状態が知りたいだけだ。お前と一緒にするな」 「! 俺は何も……」 「ほら」  涼景は庭で乾かした犀星の着物を押し付けた。 「早く着ろ。いつまでそんな格好でいるんだ」 「おまえが脱げと言ったんじゃないか」 「状況によって対処は変わるんだ。言うことを聞け」  まるで子供のように言い合いをする二人を、玲陽の優しい笑い声が止めた。  思わず、二人とも、玲陽の顔を見つめる。 「この状況下で、一番落ち着いているのは、光理らしい」 「陽は、いつもそうだ。俺の暴走を止めてくれる」 「そいつはすごい。俺でも手こずるのに」 「それはおまえが無力だから……」 「本当に、よかった」  鈴の音のような、玲陽の声が遮る。操られてでもいるように、大の男が二人とも黙ってしまう。玲陽に優しく見つめられて、犀星は見つめ返すだけで動けない。 「兄様、仙水様とのご縁、大切になさいませ」 「せ、仙水様……か」  聞きなれない呼び名に、犀星が着物を羽織りながら苦笑いをする。 「涼景、で十分だ」 「それはどうも、伯華様」  悪戯っぽく、涼景も犀星の字を口にする。忘れているのではないか、と思うほど、字で呼び合うことのない二人だ。それを察しているのか、玲陽は嬉しそうだ。 「仙水様、私のことも、陽とお呼び下さい」  涼景がフッと笑顔を見せた。 「お許しが出たところで、恐れながら、そうさせてもらおうか」  犀星が手早く帯を締めながら、 「今更なんだ? 本人がいないところでは、そう呼んでいたじゃないか」 「それは、お前が、陽、陽、とうるさいからだ。つい聞きなれてしまった」 「兄様?」  にっこりと玲陽が首をかしげて微笑む。その笑顔に、犀星の手が自然と止まり、見とれたように玲陽を見る。 「いや、俺はそんなには……」  涼景は玲陽に襦袢と紐を差し出しながら、片目をつむった。 「どうやら、寂しくて仕方がなかったらしいぞ。酒を飲んで酔い潰れると、いつもお前を呼んでいた」 「涼景!」  珍しく、犀星が頬を赤らめて自分を睨んでいる。 「おまえ、そんな顔できるんだな? 驚きだ」  嬉しそうに、涼景がからかう。  玲陽の身支度手伝いながら、犀星は顔を背けた。  そうだ、これでいい。  涼景は、先ほどまでの胸騒ぎを沈めた。  今の犀星は、俺が知る都での親王ではない。だが、これが、本来の犀星なんだろう。  そう思うと、玲陽という存在が、犀星にとってどれほどのものであったのか、理解できる。  もっと早く、合わせてやりたかったな。  涼景は玲陽に向き直った。 「それじゃ、陽。俺のことも、涼景と呼べ。俺にとって、おまえたち二人はどちらも同等だ」  頬を火照らせて不貞腐れる犀星をよそに、玲陽はやんわりと頷いた。 「では、せめて、涼景様、と」  涼景の豪快な笑い声が響く。 「星、こいつはおまえより、よっぽど礼儀をわきまえた男じゃないか!」 「こ、これは、陽の昔からの癖だ。俺以外は呼び捨てにしない」 「おまえだけは自分より下、ってことか?」  合点がいった、と、涼景が腕を組む。 「そうじゃない! 俺はっ……」 「兄様」  玲陽が声を高める犀星を制した。 「落ち着いてください。今は、おしゃべりを楽しんでいる時ではありません」  うっ、と、犀星はおとなしくなった。  やはり、この二人は面白いな。  涼景は一瞬笑ったが、すぐに真顔になる。

ともだちにシェアしよう!