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11 穴の底(4)
あなたが望むなら、話してもいい。
けれど、そのために、勇気をください。私に、勇気をください。
玲陽は、祈る思いで言葉をつないだ。
「本当にすべてを、話してもいいんですか?」
「ああ」
「あなたにとって、聞きたくない現実かもしれません。それでも、いいんですか?」
「ああ」
そして、
「……私を嫌いに、なりませんか?」
「ああ!」
自分が一番恐れていた核心を、犀星は強く否定した。否定してくれた。
玲陽の心が、決まる。
「手を……手を、繋いでいてください」
差し出した震える手を、犀星は迷わず握った。するりと絡み合う指は、無言で伝わる優しさの証だ。
もう、どうなってもいい。楽になりたい。
玲陽は一度目を閉じると、深呼吸をしてから、静かに話し始めた。
「十年前、私の体に異変が起きて、この力が宿ったとき、義父は、私をあの砦に閉じ込めました。母はそれを止めようとしてくれましたが、叶いませんでした。あの砦で、私は少しずつ、自分に起きたことを知りました」
できる限り丁寧に、自分でも混乱するほどに複雑に思われる現実を、玲陽は整理しながら、焦らずに続ける。どんなに時間がかかっても、犀星は必ず最後まで聞いてくれると信じていた。
「博兄上は、あるとき、一人の人を連れてきました。その人は、玲家の分家、参玲家に名を連ねる男性で、私の前に来た時、酷く具合が悪そうでした。博兄上は、この人を助けろ、と言いました。でも私には、どうしていいかなんてわかりませんでした。そうしたら……」
ぎゅっと手を握る。当然のように、犀星が握り返してくれる。
「博兄上が言ったんです。『この人の、精液を飲むのだ』と」
自分の声が、やけに遠く玲陽には感じられた。その方がいい。我が身の記憶だとは思いたくない。淡々と、ただ、理路整然と。玲陽はつとめて心を空っぽにしながら、話し続ける。
「体内に取り入れられるなら、口からでも、腹からでも、どちらでもいい。好きな方を選べ、と。何を言われているのか、全然わかりませんでした。黙っていたら……そうしたら、その人は……私の……くち……」
グッと喉が締まって、息が止まる。玲陽は少し休んで、気持ちを抑えた。
「当時の私は、そういうことがよくわかっていなくて……でも、きっとこれは、暴力なんだな、って思いました。喉の奥に絡みつくようなものを出されて、熱くて、味わったことのない匂いと味がして、もう、怖くて…… このまま死ぬんじゃないかって……」
遠くから聞こえるか細い自分の声を、玲陽は冷めて聞いている。そうだ、これはただの事実。それだけのことだ。
「でも、本当に怖いことは、その後に起きました。体の中が焼けるみたいになって、熱くて熱くて熱くて痛くて苦しくて……吐き戻しました。吐いたら意味がないと言われ、また、同じことをされて。次は絶対に吐かないようにと。でも、そんなの、自分ではどうしようもなくて。そしたら、博兄上は私を滝の所へ連れて行って、水を飲んで浴びろと言いました」
まるで、言葉の足りない物語を読み上げているような平坦さで、玲陽は語った。彼があえて感情を殺していることは、犀星にも伝わっている。そうしなければ語れない現実であることを、彼も理解していた。玲陽は淡々と、
「私、怖くて、逆らえなくて、滝の水を浴びました。喉も熱かったので、その水を飲みました。おなかの中で、何かが動いて、体を内側からすごい力で引き裂かれていくみたいで、悲鳴をあげながらのたうち回って、でも、今度は吐き出すことはなくて、そんなことがどれくらい続いたかわからないですが、やがて痛みがだんだん引いてきて、頭がぼーっとして、全身がぐったりして動けなくなった。そうしたら、浄化が終わった、って博兄上が言ったんです。私は悟りました。これが私のこれからの生活なんだ、って」
次第と口調が速くなり、呂律が回らなくなってくる。犀星は繋いだ指を緩め、励ますように、何度も握ってやる。
急がなくていい。俺はちゃんとここにいる。
その気持ちが伝わったのか、玲陽は少し落ち着きを取り戻して、声を静めた。
「私のところに来る人たちは色々でした。共通するのは、みんな、参玲家の男性ってこと。最後だけ私の口に出す人もいた。最初から、私の体が欲しいって人もいた。私は黙って従いました。体の中に取り入れて生まれる痛み、その痛みに耐えることで、彼らの命が救われる。初めは信じられなくて、騙されているのかもしれないと思いました。でも、後からわかったんです。参玲家の男性たちは、みな、一生をかけて、周囲の傀儡を自然と吸収してしまう。それは生まれ持っての運命。そして、その傀儡が一定量蓄積すると、発狂して死んでしまう。私のところに連れて来られる人たちは、たくさんの傀儡を吸って、発狂寸前になっている人たちだったんです。本来であれば、一生をかけて傀儡を吸って、ようやく死に至る量に達する。けれど、私が力を得たころから、傀儡が数を増やして、一つ一つの力が強まって、彼らの限界は早く来るようになってしまった。だから、私のせいだから、きっと私のせいだから、私がそれを償わなければならない。そう思って、耐えてきました。数日に一度、博は誰かを連れてきました。一人の時もあれば、数人の時も。私は黙って罪を償い続けた」
これは、告白なのだ。
自分が知らず知らずのうちに犯した罪状の告白。
決して、犀星に知られたくなかった真実。
玲陽は繋いだ手の温もりだけを信じて、続けた。
「でも、それは贖罪にはならなかった。彼らの精は、私にとっては、力の源だったんです。食べ物がなくても、私がどうして生きながらえたのか。それは、彼らのおかげだった。私たちは共存関係にあったんです。相手は命を救われる。私も、命を長らえる。そんな捻じ曲がった現実。でも、考え方を変えれば納得できます。私は無意識のうちに、周囲の傀儡を強化して、参玲家の人たちが大量に吸収する環境を作った。そして、彼らを糧にし、生きようとしていた。それだけのことなんです。理にかなってた。……でも、それは単なる始まりに過ぎなかった」
暗闇の中で、玲陽には犀星の表情が見えないままだ。それでも、じっと自分を見つめて、聞き入ってくれていることはわかる。決して目を背けず、向き合い続けてくれることが救いだった。犀星から無言の勇気を得て、玲陽はさらに続けた。
「二年ほどして、私の体にまた、異変が起きました。今度は見た目ではなく、力が強まったんです。二年間繰り返してきた行為によって、私の中で限界が壊れた。そして、次の段階に進んだんです。それこそが『新月の光』の本当の力。次に私が身につけたのは、参玲家ではなく、普通の人たちを救う力でした。傀儡が取り憑いた、傀儡付きと言われる人たち。その人たちは、老若男女、血筋も関係なく、私のところに連れてこられました。私は彼らから傀儡を受け取って、参玲家の人たちにしたのと同じように、浄化を繰り返した。それによってその人たちは傀儡の意識から解放されて、本来の自分を取り戻すことができた。その人たちから、傀儡を受け取る方法…… それはとても簡単。直接、口から吸うんです。わかりますか? そう、口付けを使うんです」
気持ちが揺れると、玲陽の声もうわずっていく。その度に、犀星は黙って手を握り直す。玲陽はそれを合図に、自分の心の乱れを知る。そんなことを何度も繰り返しながら、話はゆっくりと進んでいく。
「口付けて、相手の体の奥の奥に潜んでいる傀儡を捕まえて、引き摺り出し、それを飲み込む。言葉で説明するのは難しいです。私は、どうしてそんなことができるのかわからなかったけれど、なんとなく覚えたんです……いえ、覚えたというより、思い出した、というのに近い。まるで、遠い昔にそうしていたことがあって、その時の感覚が戻ってきたみたいに。昔触れたことのある琴の曲を、久しぶりに弾くように、自然と…… 怖いくらい、はっきりと。そうやって、私は人々から傀儡を吸ってその人たちを助け、参玲家の人たちから力を吸って生き延びていたんです。それが、私が砦でやっていたことです」
長い長い話が、区切りを迎えた。玲陽は疲れたように、呼吸を繰り返していたが、まだ伝えるべき言葉があることもわかっていた。
すべて、吐き出したい。もう、何もかも、曝け出してしまいたい。
しばしあって、玲陽は再び、口を開いた。
「博兄上は、そんな私をずーっと見てた。そして、少しずつ壊れていった。初めはきっと、本当に助けようとしてくれたんだと思います。でも、私は心を開かなかった。それが、博兄上の心を傷つけることになると、私は考える余裕すらなかった。次第と兄上の言動が変わっていって、でもそれを私は見て見ぬふりをした。だから、博兄上があんなふうになってしまったのは、私のせいなんです。私が、間違えたから……」
玲陽の声は切なさに震える。どうしてよいかわからないというように首を振る。
「兄上は、小さな頃に、産みの母親を亡くしました。それから、義父上が母上と再婚して……母は、兄上には関心がなかった。義父上も無関心を貫いてきました。だから、彼は、寂しかったんだと思います。誰かに自分を見て欲しいって、それだけだったんだと…… なのに、私までが、その思いを拒絶した。兄上にとって、それがどれだけ悲しいことだったか」
そこまで言って、玲陽は少しみじろぎをした。
「星、私が話せるのは、これで全部……」
「………」
「全部、忘れてしまいたい。でも、受けた痛みはこの体に刻まれている。涼景様に言われました。私は、二度と、男性を受け入れられないって。そんなことをしたら、傷が開いて、出血して、死に至るって。この体は、一生、あの記憶を忘れないんだって。それが、博兄上を傷つけた、私の罰」
握られた手はそのままに。
長い長い沈黙に、玲陽はじっと耐えた。
全て、伝えた。
心は震え続けていたが、どこかで、安らかだった。
全力を出して刀の稽古をした後のような、力を出し切った空虚感があった。
静かな闇のなかで、時間だけが動いていく。
沈黙は、自分への軽蔑と拒絶のためなのか。
その時間が長くなるにつれ、玲陽の中で希望が薄れていく気がして、心臓が何度も縮むように痛む。
怖い。
どうして、黙っている?
玲陽は遠ざかる希望と、膨らむ失意を味わいながら、そっと、絡めていた指を開いた。今はもう、犀星が手を離すことを、止めはしない。
振り払われるくらいなら、自分から離してしまいたい。
だが、犀星が力を緩めることはなかった。
「解 せない」
あまりに苦しい沈黙のあと、犀星はそっと、呟いた。
その声には、怒りも悲しみもない。
しっとりとした熱だけが、わずかにたゆたう。
「さっきから、おまえは繰り返し、自分の罪だとか罰だとか言うが、俺には、おまえにどんな罪があるのか、まったく理解できない」
玲陽は犀星の言葉が、自分を包み込んでいくのを感じた。
「力が宿ったことは、おまえのせいではない。ただ、何か避け難いことが重なっただけ」
その声には、自分の心の中でどうしようもなく絡んでしまった紐の結び目を、ひとつひとつ、優しくときほぐしていくような、深い慈しみがやどっている。
「博の心が壊れたのも、おまえのせいではない。当時のおまえに、博の心境を推し量る余裕がなくても当然だ。それは事故だ。おまえの過失じゃない」
犀星の声は静かだったが、その裏に、計り知れない昂る感情が潜んでいることに、玲陽は気がついた。
それを察して、玲陽は全身が総毛だった。
今、犀星は確かに飲み込まれるような感情の激流を抱いている。だが、それを強靭な精神力で抑えつけ、決して流されず耐えている。
あまりに、強い。
玲陽は息をひそめた。
その強さは、まっすぐに自分を守る意志と繋がっている。玲陽の体に、恐怖とは違う震えが走った。
「陽。そうやって、身の回りに起きる全てのことを自分の責任にして、それを償うという理由を得て、行為を受け入れ続ける。罪を償っているのだから仕方がない、というように。こんなことを、お前は、続けたいのか?」
「…………」
「俺に助けを求めたおまえは、本気で逃れたいと叫んでいた。自分の中の大義名分を全て捨てて、なりふり構わずに自由になりたい、と…… 俺は、陽の、あの願いが全てだと思っている。陽は、どう思う?」
ああ、今、まさに、犀星は自分を連れていくつもりなのだ、玲陽は思った。
今こそ、暗く冷たい穴の底から、蒼い空に向けて手を伸ばすときなのだ。
自分の傍で、体も心も支え、一緒に穴の壁に手をかけて、這い上がろうしてくれている。
私と共に。
震える指に、玲陽は再び力を込め、犀星の手を握ろうとした。それより一瞬早く、犀星の手に力が込められる。それは、確かな、合図だった。
俺と、来い。
その声なき声、言葉なき言葉は、玲陽の世界を開く。
あなたと、いきたい。
玲陽はしっかりと手を握り返した。ただそれだけが、彼の答えだった。
確かな力、確かな信頼が、手の温もりとともに二人を確かに繋いでいた。
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