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11 穴の底(3)
「星、おまえはとんだ思い違いをしてるんじゃないか? あいつが十年間、おまえへの一途な気持ちに支えられたと、自分があいつの支えになれたと、そんなふうに思っているならとんだ茶番だ。今のあいつは、俺といて幸せなんだよ。黙っていりゃ、いくらだって与えてやる。おまえには絶対に手の届かないものを、俺なら、あいつに、俺が、あいつにっ……」
息ができない、というように、玲博は苦しげに喉を鳴らし、天を仰いだ。
犀星の蒼眸に、憎しみでも怒りでもない色がたゆたう。
「やっとわかった。どうして陽があのとき、おまえを逃がせと言ったのか」
「なんだと?」
引き攣る喉で玲博はうなり、犀星を見た。その目はどこか視点が定まらない。犀星はゆっくりと言葉を重ねた。
「あいつはわかってたんだ。おまえを拒み続けた自分が、おまえを壊してしまったんだってこと」
「おまえ……何を……」
「あいつは許したんだ」
「……言うな」
「あいつはおまえに償おうとした。おまえがそうなったのは、自分のせいだから、と。おまえを庇おうとした」
「……あ、憐れみなど……」
「陽は、そういう奴なんだ。何もかも、全てを自分の罪に置き換えて、自分が潰れることで、誰かを救おうとする」
「言うな!……殺すぞ!」
玲博の叫びを合図に、犀星は飛びかかった。足元の刀を鷲掴み、玲博に体を当てる。勢いでよろめいた玲博が木の幹に背中を打ちつけたところに駆け込んで、左手で襟首を掴み上げ、右手の刀を喉元に押し付ける。
互いの視線が近距離で交差し、乱れた呼吸が互いを圧する。
犀星に刀を与えた時点で、玲博に勝ち目はない。それは、両者ともによくわかっていた。
犀星は玲博の喉にあてがった刀を、ほんのわずか、引くだけでよかった。それだけで、禍根を断つことができる。
玲博が生きている限り、どこへ行っても玲陽は逃れられない。
『あなたが人を殺すところは、見たくなかった』
そうだ、そうだと信じたい。自分のためであったと、信じたい。
犀星の心が大きく傾く。
ここで刀を引くことは、玲陽の願いを自ら消してしまうことだ。そのような自分に、これ以上、玲陽を守る資格はない。
「俺は、殺さない」
犀星の澱みのない声が、ともすれば、愛さえ滲む声が、玲博の運命を告げる。
玲博の目元が引き攣る。
「……おまえは、いつか、後悔する」
まるで、呪いをかけるように、玲博は言った。
「俺を殺さなかったことじゃない。陽を選んだことを、おまえは必ず後悔するぞ」
犀星はその言葉を聞いても、何も感じなかった。そのまま手を離すと、数歩後退り、玲博から離れる。
じっと犀星を見ていた玲博の表情が、激しい憎悪と屈辱に歪み、彼の中で、決定的に何かが崩壊する。
玲陽に情けをかけられ、犀星にもまた赦されたことで、彼の自尊心は根底から崩れ落ちた。
もう、玲博にはそれ以上、犀星を責める力はない。それを悟ると、犀星は篝火の中から燃え盛る薪を一本抜き取り、その灯りを頼りに犀家への帰路に向かう。狂った様な嘆きとも笑い声ともしれない絶叫の他は、彼を追ってくる者は、誰もいなかった。
ゆらゆらと視界の隅でかすかに揺れていた油灯の芯が、やがて小さくしぼんでゆき、プツッと音をたてて消えるのを、玲陽はかすかに震えながら見つめていた。
視界が闇に閉ざされても、犀星は戻らない。
口惜しい。
犀星を案じて、彼にできるのはただ、祈ることだけだ。
彼が必ず帰ること、約束を果たすことを、玲陽は固く信じている。その信頼は、決して揺らぐものではない。
しかし、たとえ戻ってきたとしても、傷ついた犀星の姿は見たくはない。
どうか、無事でいて……
あの砦に幽閉されていた時から、毎日ひたすら変わらずに祈り続けた言葉。
玲陽にとって、無意識に口にでるほど、心に染みついたその言葉は、再会を経て、より思いが募る願いとなる。
十年ぶりに自分の前に現れた犀星は、昔のままの、暖かく繊細な心を宿した、愛しい人に違いなかった。
絶望という深い深い井戸の底で、出口を見上げ続けるような日々。いつか、その光の円の中に犀星が現れて、自分に向かって手を伸ばしてくれるのを待ち続けた日々。
だが、それが訪れることは決してなかった。
犀星は、井戸の外から自分を救うことはしなかった。自らも、同じ暗がりの中に降りてきて、冷たい水に体を浸し、そっと、だが力強く、玲陽を抱きしめてくれた。ふたりなら、きっと、この穴の底から這い上がり、あの青い空の輝きの中へ行けるはずだ。ふたりなら……
「星、どうか無事で……」
炉の炭も尽きようとしているが、それを継ぎ足す手はない。
久しぶりに、一人だ。
砦から助け出されたあと、玲陽のそばにはいつも誰かがいた。それは、看護のためであったが、同時に、玲陽の心を支えるためでもあった。その気遣いが、玲陽には身に染みてありがたかった。
こうして一人になると、砦での日々が走馬灯のように蘇ってくる。あれは、確かに自分の身に起きたことだ。体に刻まれた感覚、肌の記憶は鮮烈で、理由もなく反芻を繰り返す。どんなに忘れようとしても、体がしっかりと覚えていて、拭い去ることができない。ふとした瞬間に、脆い吊り橋が崩れ落ちるように、さまざまな記憶が続けざま引き出されて止まらなくなる。目に見えている世界が薄れ、現実よりも記憶の方がはっきりと見えてしまう。
玲陽は強く自分を抱いた。
あの頃の記憶は、生涯、自分を苦しめ続けるのだろうか。どれだけ傷つき、痛みに耐えれば、終わるのだろうか。
「助けて……」
つぶやいて、玲陽は疑問に思う。
もう、十分に救われているはずなのに、どうしてこんなにも恐怖を感じるのか。自分は何に怯えているのか。何から助かりたいと言っているのか。
突然、言葉が降りてくる。
それは、孤独。
その瞬間、玲陽の目に、熱い涙が溢れた。もう、何年も泣いていなかった。犀星に抱かれて見つめ合った時も、涙は流れなかった。心が渇いて死んだのだ、と思っていた。胸のあたりが痺れるような奇妙な感覚と、止まらない涙と、嗚咽を堪える喉の痛み。
会いたい。
強く、そう思った。
会いたい。
砦にいる間、どれほど寂しくても泣かなかったというのに、今の自分はあまりに弱い。もう、耐えられそうもない。一人の夜に、一晩たりとも、耐えられそうにない。
犀星の温もりを知ってしまったから。
もう、孤独には耐えられない。
玲陽は今、自分の心のひび割れが、全ての始まりであったと感じた。
少年の日に味わった、あまりに空虚な喪失感が、自分の精神を崩壊させ、その間隙に何かが入り込むことを許してしまった。
あの時、もっと自分が強くいられたら、犀星を失っても、その約束を信じて、毅然として強い気持ちでいられたら、忌まわしい『力』に取り憑かれることもなかったかもしれない。
何もかも、自分が導いてしまった結果だというのに、こんなにも誰かに助けを求めている無責任さが、玲陽をさらに追い詰めていく。
手で涙を払い、褥に顔を埋め、玲陽は声を殺して泣き続けた。まるで、子供の頃、熱を出した犀星が心配で、眠れなかった時のように。あの時も、今と同じだ。犀星が死んでしまうのではないか、一人ぽっちになってしまうのではないか、と怖くてたまらなかった。
私の心は、子供のまま、少しも強くなれていない。
それがまた、余計に玲陽を締め付ける。
「陽?」
突然に呼ばれて、玲陽は息が止まった。
泣き腫らした目で暗がりを探る。引き戸の足元に、ぼんやりと外から差し込む炎の灯り。それを踏むように、人影が立っている。
「起きているのか?」
ああっ!
あまりに大きな安堵感に、玲陽は押しつぶされるように呻いた。
「はい」
小さく、声の震えに気づかれないよう、彼は応えた。
「すまない、遅れた。……油灯、消えてしまったな」
引き戸を閉める音と、優しく語りかける声。玲陽の胸の痺れは熱を帯びて、暖かいものへと変わってゆく。
「でも、炉の炭は、残っています」
人影は灯りの油を探しているようだった。灯りはいらない、と、玲陽は首を振った。
人影、犀星は玲陽の枕辺に座った。玲陽はかすかに、土と草の匂いを感じた。そっと、何があったのかを尋ねてみる。
犀星は、森の中での出来事を、静かに話して聞かせた。玲陽はじっと、耳を傾けた。その表情は、まるで、自分の過去の過ちを聞いているかのように歪んでいたが、暗い部屋の中では、犀星に見られることはない。
「東雨はもう、部屋で休ませた」
最後にそう言って、犀星は息を長くはいた。訪れた沈黙に、玲陽は何かの色を見た。夜の闇の中、空気が動くような微かな耳鳴り。そして、まだ、犀星が全ての言葉を尽くしていない気配。
犀星は、そんな玲陽の疑問を裏付けるように、姿勢を正した。
「陽」
改めて呼びかけたその声は、今までとは明らかに違う響きを帯びていた。この声こそが、本当の犀星の声なのだ、と、玲陽は思った。
「はい」
微かな怯えを含んだ声音で答える。犀星はしばらく呼吸をひそめたが、その間も、心は波立って何かを探っているようである。犀星の心の音とも言えるその何かの騒がしさを、玲陽は肌で感じ取った。やがて、犀星はゆっくりと言葉をつむいだ。
「あの砦で、おまえは何をしていた?」
胸の底を、手のひらですくいとられたような不安が込み上げる。玲陽はややしばらく言い淀んでから、
「博兄上に、何か言われたんですか?」
「あいつは関係ない。俺が、知りたいと思った」
再び、沈黙が生まれる。それを破ったのは、犀星だった。夢見るような、しかし、確実に彼の本心からの言葉が流れ出す。
「ずっと、知りたかった。だが、おまえにそれを尋ねることは、思い出したくもないことを思い出させてしまう。だから、ためらわれた」
「ならば、どうして、今になって?」
掠れた玲陽の声。それと同じくらいに苦しげな犀星の声が追いかける。
「博と話をして……俺は初めて、陽があいつを逃した真意に気づいた。そんなことは、もう、嫌だと思った。誰かの言葉で、陽を知るのは嫌だ。俺は、おまえのことを、直接おまえから知りたい。誰よりも、ちゃんとおまえを知っていたい」
ああ、そうだ。この人は、本当に私と向き合おうとしてくれる。
玲陽はそのまっすぐな言葉に、優しい強さを覚える。これが、犀星なのだ。
犀星の思いは、玲陽にある種の勇気と、決意を促すようだった。
玲陽の思考の流れが、方向を変える。
どこかで隠し続けてきた本当の心を、今、見せてみたいと思ってしまう。
それは、犀星の真心に、玲陽もまた裸の心で向き合おうとした瞬間だった。
「私が、すべて真実を語るとはかぎりませんよ」
一歩、踏み込んで、玲陽は言った。犀星は動じることなく、受けてたった。
「それでもいい。おまえになら、たとえ騙されても構わない。誰かが語る真実より、おまえが語る嘘のほうが、俺にとっては、信じて悔いはない」
「本当に……星、あなたという人は……」
わずかな呆れ、そして、期待。
「陽。頼む。あそこで何があった? おまえは、何をしていた?」
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