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11 穴の底(2)
声を頼りに姿を探せば、そこには、ひとり、男が立っている。深緑の衣に同系色の羽織布を纏った目立たぬ姿だが、袖口の金糸の刺繍だけは、篝火の炎でくっきりと浮かんで見えた。
「博……」
犀星は唸った。
玲博は鷹揚に木の幹にもたれかかり、腕を組んでこちらを見下ろしている。
「おまえとゆっくり話がしたかったんでな。悪いが出向いてもらった」
こんなことだろうと思った。犀星に後悔はない。いずれ、玲博との決着はつけなければならないこと、それを、玲陽には見せられないことは、犀星も覚悟のうちである。
座り込み、犀星は瞳をあげて玲博を見据えた。
玲博によって際限なく傷つけらた玲陽の傷の凄惨さが、犀星の脳裏に蘇ってくる。玲陽の痛みは、何倍にもなって犀星の痛みに変わる。自分を傷つけられるより辛い。今、目の前にいる男は、間違いなく、犀星の敵であった。何があろうと、許すことのできない悪であった。
自然と胸の奥が揺れて、感情がぐるぐると渦巻くのを感じる。込み上げては引いていく、そして次の波はもっと大きく高くなる。その波が少しずつ高さを質量を増し、犀星の全身を揺さぶってくるようだ。日常的に持つことのない、特殊な感情の色。殺意。
「何だ、俺を斬りたいか? 刀ならあるぞ」
玲博は、手にしていた犀星の太刀を、足元に放り投げた。金属の音が、森の木々に長くこだまする。
「まぁ、それじゃ無理、か」
まさに手も足も出ない、という状態の犀星を、玲博は楽しそうに眺めた。
「おまえが砦に来た時のことを、門番が覚えていた。中からトンビの声がした、って。試してみたら、おまえが釣れた。随分簡単だったな」
「く……」
犀星はどうにかできないものか、と背中の腕に力を込めてほどこうと足掻く。
「小細工しなくても、おまえにはあの侍童一人で、十分効き目があったかもしれないが」
「東雨……あいつをどうした?」
「心配するな。俺はおまえ以外に興味はない。あいつは犀家の門前に転がしてある。そのうち誰かが見つけるだろう」
東雨の傷ついた顔が蘇ってきて、また、別の波が押し寄せてくるような感覚を覚える。次々とやり場のない感情が溢れ、普段は乱れない表情が、鮮やかなまでに揺れ動く。玲博は残酷に目を細めた。口元が緩んで、気味の悪い曲線を描く。ゆっくりと犀星の間近に歩み寄り、
「今にも斬り殺したいっていう顔だな。嬉しいぞ、おまえが俺をそこまで思ってくれるんだからな」
「まだ、陽に関わるつもりか?」
仕方がないだろう、と玲博は肩をすくめるようにして、
「俺のせいじゃないさ。父上がどうしてもってご所望なんでね」
犀星の表情が大きく歪む。さも嬉しそうに、玲博は目を見開いた。
「そんなことより、話をしようじゃないか、なぁ、犀家の坊ちゃん」
その呼び方は、子供時代の犀星を揶揄するものだ。
「まぁ、犀家と言っても、血のつながりもなけりゃ、戸籍も別。他人ってわけだ。犀侶香も物好きなもんだ。わざわざおまえみたいなのを背負い込んで」
話の最中にも、縄を抜けようと頑張っていた犀星は、腕を縛る布の感触が妙なことに気づいた。肌に食い込むはずの縄が、直接、触れていないのだ。予感がして、手首をひねり、指先でまさぐる。案の定、乱暴にくくったと見えて、服や帯を巻き込んで締め付けている。これならば、帯を緩めて肌と縄の間の布地を引き抜けば、隙間ができる。手が自由になれば、足の戒めを解くことも難しくない。
ゆったりとした長袍の長い袖が幸いした。寒いから着ていくように、と言った玲陽の声が蘇る。
こんなところで、あいつに救われた。
犀星の心に、希望が見えた。そうだ、自分は一人ではない。玲陽の心はいつも、自分と共にある。
犀星は気づかれないよう、玲博に視線を定めたまま、密かに指先で少しずつ帯紐を緩め始めた。
じっと食い入るように見つめる犀星を、玲博は見返した。その目には、犀星に対する不気味なまでの執着心が滲んでいる。
「くそ忌々しい!」
いきなり顎を蹴り飛ばされて、体勢を崩す。それでも、犀星は怯まなかった。心だけは、決して折れない。
「綺麗なつらしてよ。腹の中じゃ何を考えているか、わかったもんじゃない」
「おまえと話すことなんかない」
「俺にはあるんだよ。人が親切に教えてやろうとしてんだ。黙って聞いてろ」
玲博の蹴りが腹に入る。息が止まって身を捩ったが、どうにか意識は手放さない。
「陽のことだ。聞きたいだろ?」
「!」
「ほう、顔色が変わったな」
玲博は犀星の前にしゃがみ込むと、首筋から耳の後ろへと、ねっとりとした手つきで指を這わせた。ひるんだふりをして、犀星は仰向けに体を傾け、玲博の視界から背中を遠ざける。後ろで手を動かしていることに気づかれるわけにはいかない。
「教えてやるよ。おまえは、何か、勘違いをしているようだからな」
「勘違いだと?」
「あいつは、おまえが思っているような人間じゃないぞ。
「どういう意味だ?」
自分の行動を悟られまいと、わざと玲博の話に食いつくそぶりを見せる。
「おまえにとってあいつは、誰にでも親切な、自己犠牲とか慈愛とかの象徴なのだろうがな、実際にはそんなんじゃない」
大仰な語り口で、玲博は言った。
「俺は十年間、あいつを一番近くで見てきた。あいつが何を考えて、何を望んで、何を求めているのか、誰よりも知っているのは、俺だ。そう、おまえじゃない」
「………」
「俺たちが何をしていたか、おまえも覚えているんじゃないか? 忘れられないよなぁ。可愛い可愛い陽が、他の男を相手によがり狂ってる姿なんかよ」
「!」
屈辱と言うには生ぬるい嫌悪と破壊の欲求が、犀星の全身を震わせた。体が自由になるのなら、衝動に任せて目の前の男を殴りつけていただろう。だが、そんな怒りに我を忘れる行為が、自分の身を滅ぼすことを、この数日で犀星は思い知っている。今は、自分を縛る縄に救われた気がした。少しでも、冷静になる時間が必要だ。
『危険な相手と話をするとき、もっとも避けるべきことは、冷静な判断力をなくすことだ』
いつだったか、涼景が交渉の議論の際に言っていたことを思い出す。
そうだ、今が、その時だ。
「ふん、いい顔だ。そそるねぇ」
玲博の挑発に、犀星は睨むことで抵抗し、同時に気持ちを抑えるよう、呼吸を整える。
「博……おまえがしていることは、暴力であり、虐待であり、陽の心を壊すことだ。俺は、絶対におまえを許さない」
「別におまえの許しなんか欲しくもないね」
玲博は蔑むように犀星を見た。
「だいたいなぁ、そこが勘違いだっていうんだ。お行儀のいい親王様にはわからないだろうな、俺や陽の気持ちは」
玲博が、自身と玲陽とを同列に扱うことにさえ、犀星の怒りは熱を増してしまう。だが、今は玲博の言葉に煽られる自分を制する、それだけを考えねばならない。
玲博はうっとりとして、急に声色を変えた。
「あいつは楽しんでんだよ。自分から進んで凌辱されることを望んでいる。あんたが知ってる十年前の陽はもういない。あいつは変わったんだ。心身ともに快楽に堕ちて、自分から男にすり寄る。みんなころっと騙されちまう」
「嘘だ」
「あんたもそうなんじゃないか? あいつの純真無垢なつらにほだされて、何でも言うことを聞きますってか? 悲しいねぇ」
自分のことなら飲み込める。だが、玲陽への侮辱は、相手が誰であろうとも、犀星が見過ごせるはずがなかった。
一つの感情を押さえつけても、玲博はまた次の激しい混乱を煽り立ててくる。次から次へ、犀星の心の中は、処理しきれない感情のるつぼと化していく。
玲博は、そんな犀星の憤りを、さも面白そうに眺めている。
「それが陽のやり方だ。自分は何も知りません、って顔して、腹ん中じゃ、自分の欲望のために相手を利用することしか考えてねぇ」
「陽を苦しめておいて、よくそんなことが言えるな?」
「陽を苦しめた? 誰が? 俺が?」
玲博の笑い声が、静まっていた森の空気を震わせ、木の葉がざわめきを立てる。
「おまえ、本当におめでたいな。陽を苦しめてたのは……おまえ」
「!」
「十年前、おまえがあいつを一人にした。そこから、全部狂ったんだ」
その言葉に、犀星は思わず布をまさぐる手を止めた。じっと、玲博を見る。
同じ言葉を、犀星は最近聞いた。
玲凛だ。
彼女も言った。すべて、星兄様のせいだ、と。玲陽を置いて行ったことが、悲劇の始まりだ、と。
「あいつはずっと、おまえのせいで孤独だった。おまえを信じるあまり、他の誰の言葉も受け入れない。誰にも心を開かない。あいつが孤独になったのは、おまえが心を縛ったからだ。そうやって、ただ一人で耐えることを強いたのは、おまえだ」
徐々に加速していく何かに、玲博は追い立てられているようだった。表情が次第に強張り、目が忙しなく動く。
「助けを与えてやろうと言葉をかけても、手を伸ばしても、あいつはそれを掴むどころか、見向きもしねぇ。語りかけて、触れて、抱いても、俺を見ねぇ!」
「…………」
「どんな時でも『星が、星が』って。おまえという呪いで、あいつは心を閉ざすしかなくなった。すぐそばにいる俺にさえ……」
玲博の気持ちが昂っていくのが、その口調からもありありとわかる。徐々に声は震え、大きくなり、そして途端にしぼむ。その起伏は、彼の感情の乱れをそのままに音にしていた。
それに反して、犀星の胸は静けさを取り戻しつつあった。依然、全身を埋める嫌悪感は消えないが、また別の冷めた感情が入り込んできて、それが沸き立つような興奮を静かにいなしてくれる。
「あいつを一人きりの世界に閉じ込めて、苦しめたのはおまえだ。そして、救おうとしたのが、俺だ」
ピクッと犀星の眉が片方、震える。後ろの縄が大きく緩んだ。
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