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11 穴の底(1)
夕闇は残されていた日の光を瞬く間に飲み込み、夜の気配は、吹き抜ける風の速さで空を覆っていく。藍色の空に一際白い星がしん、と煌めき、夜の寒さが流れ込んでくる。
犀星は涼景に釘を刺されている炉の火の番に専念していたが、手元の暗さに不安を覚え、欄間を見上げた。月はやせ細り、頼りない。この暗がりに乗じて玲家が兵を動かすことに備え、涼景は領地の境界で野営の予定である。屋敷の表門には玲凛が張り付いている。犀遠は奥座敷にこもって、何やら作戦を考えているようだった。犀星は、ここが自分の居場所、と決めている玲陽の部屋で、静かに時を過ごしていた。
玲陽の回復は順調で、今日はしばらくの間、牀の上に体を起こしていることができた。明日には歩行に向けて、弱った足を徐々に慣らしていく予定である。
「暗い……」
明かり取りの欄間からは、星がひとつ、見えるだけである。
玲陽が、そっと犀星に声をかけた。
「兄様、東雨どのは、まだ……」
その声は、犀星にさえ届けばいい、というように囁いている。炉の炭が弾ける音よりも小さい。
犀星は心配顔で唸った。
「燕家までの往復なら、とっくに戻ってきてるはずなんだが」
「探しに行った方がよいのでは……」
玲陽が、遠慮がちに言う。玲陽としては、そう提案するからには、本当は自分で行くべきだと思っている。だが、それが叶わない今、口にするのも気が引けるのだ。
「そうだな……」
思案していた犀星は、微かな音に気づいて顔をこわばらせた。
「兄様?」
玲陽が少し体を起こして、犀星を見る。犀星はじっと耳を澄ませている。だが、玲陽には何も聞こえない。
おもむろに引き戸を開けると、犀星は回廊にでて、外の藍色の闇に向かった。ごくかすかな風に乗って、その音は確かに聞こえてきた。
「今、トンビが鳴いた」
「え?」
犀星は部屋の中の玲陽を振り返った。
「……もう、暗いです。こんな時刻にトンビは鳴きません」
「涼景の合図だ。隠れて来い、と」
涼景と犀星は、お互いに簡単な合図として、鳥の鳴き声を真似た指笛を使っている。
「涼景様は見張りに出ているんですよね?」
「ああ、東雨も戻らないし、何かあったのかもしれない」
玲陽は牀に上体を起こした。犀星は何かをためらっているように視線を泳がせた。
「何をぼんやりしているんです? 行ってください」
毅然として、玲陽が言う。
「だが、おまえを置いて……」
「私はここで、あなたが帰るのを待ちます。悔しいけれど、今の私は何もできない」
「火が……」
「燃え尽きる前に、戻ってきて下さい」
玲陽の微笑みは、犀星の不安を静かに溶かす。犀星はどこかホッとしたように微笑んだ。不思議と勇気が湧いてくる。子供のように、恐怖が消えていく。
「陽……わかった。必ず戻る」
犀星は炉の炭を足して、少しでも長く燃えるように仕込んでから、部屋を出ようとした。それを、玲陽が呼び止める。
「長袍を羽織って行って下さい。夜気は体に触ります」
隠れて、か。
何らかの理由で、こっそりと合流したいときの合図だった。以前、玲陽を助けるために砦に忍び込んだ時と同じである。
犀星は人の多い前庭を避けて、東の離れに向かった。その離れの裏に、小さな庭があり、そこには自分たちが昔遊んだ石灯籠がそのまま残されている。誰にも気づかれないよう、犀星は灯籠の一部をずらした。下には、隠された通路が昔のままに残されていた。小さな得意の表情が一瞬口元に浮かんだが、再び聞こえたトンビの合図に、それもすぐに消える。
土の壁に打ち込んでいた木製の梯子は、犀星の重みで何段か崩れたが、どうにか下へ降りることができた。この通路は、犀家の抜け道である。万が一の時の脱出用として掘られたもので、子供の頃にはもう使われなくなっていたが、犀星と玲陽にとっては格好の遊び場だった。
最近は、こんなことばかりだな。
そんなことを思いながら、犀星は通路を進んだ。この道は、外門の向こうの木々の中まで続いているはずだ。出口は崩れて塞がっていたが、犀星はどうにかそれを掘りながら地上に這い出た。耳を澄ませると、指笛の音がはっきりとわかった。と、そこで、妙な違和感を感じる。笛の音は、玲家との境界とは逆の方から聞こえてくる。しかも、何となく涼景のものとは違う気がした。
罠かもしれない。
そう思いながらも、引き返すことはしない。腰の太刀の鞘に左手をかけたまま、犀星は周囲を警戒し、少しずつ木々の中へ、音を目指して入っていく。足元も見えない闇を進むのは困難だが、幼い日の記憶を頼りに、ゆっくりと前進する。
宵闇はもう、完全に太陽の余韻を消してしまった。月はなく、星明かりが頼りなく灯る。弱々しくとも、星は彼に味方している。目を凝らせば、空と木々の境目が見える。だが、視覚が教えてくれるのはそこまでだ。そして、夜の森では、視覚はもっとも頼りにならないことを、犀星は知っていた。
耳をそばだて、じっと音を聞く。指笛の音だけではない。風が木の間を抜ける音、空間を教えてくれるその気配を察知する。沓底が踏む土の感触。柔らかく沈む腐葉土と、カラカラと鳴る散ったばかりの枯葉の違い。フッと香ってくる土や水、樹木や花の匂い、そして、揺れ動く空気の温度と湿度。
この辺りには崖があるが、その位置は犀星の記憶にしっかりと残っている。安全な道を探りながら、焦らず、一歩ずつ……
幼い頃に玲陽と迷い込んだ森に、今は意志を持って一人で分け入る。
指笛の音が、確実に近くなる。近づくにつれ、それが間違いなく涼景のものではないという確信が強まる。息遣い、合図の感覚、その音色。
誰かが……それも、涼景を騙って自分を誘い出したい誰かが、待ち構えているはずだ。
「…………」
闇の中で、何か、違う音がした。
犀星は足を止めると目を閉じ、気配を探った。木や風が立てる音ではない。生き物の気配だ。
「……は……」
息を吐き出す、短い音。犀星は鞘を握る手に力を込めた。獣であれば、自分が狩られる。
ズズっと、何かが擦れる音がする。かすかな星明かりの中、前方の闇が蠢いた。誰かがいる。
鼻先に、覚えのある匂いが漂ってきた。
金木犀、東雨が身につけている香袋の香りだ。
「東雨」
小さく、鋭く、犀星は闇に問いかけた。
「……か……ま……」
明らかに人間の声だ。影が動いた方へ、犀星は慎重に近づく。前に差し出していた指先に、突然、柔らかいものが触れた。それを頼りに一歩踏み出して、犀星は木の幹に縛り付けられていた東雨を探り当てた。思わず、安堵の息が漏れる。
「東雨、怪我をしているのか?」
手探りに顔を撫で、犀星は囁いた。
「わか…さま…… ごめんなさい」
視界を奪う闇がそうさせるのか、犀星は東雨をしっかりと抱きしめる。体をまさぐり、異変がないか、と確かめていく。東雨はくぐもった呻き声を立てるが、大きな怪我はなさそうだ。
「待て、今、解いてやる」
犀星は太刀を抜くと、東雨を傷つけないように縄を切る。縄がばらりと足元に落ちると同時に、東雨の体が自分の方へ倒れてくる。即座にそれを支え、そっと地面に下ろす。
背後で、ジュッと何かが擦れる音がした。反射的に振り返ると、燃え上がった松明の炎の眩しさが、闇に慣れた目を焼いた。思わず顔を背ける。後ろからの篝火に照らし出された東雨の顔には、殴られたようなあざが残っている。唇を切ったのか、一筋、真っ赤な血が垂れていた。瞬時に、犀星の体に震えが走る。それは激情が爆ぜる前兆、一気に高まる浮遊感。だが、犀星の行動を待たず、炎を掲げた相手が動いた。
右の後頭部に、鈍い音を聞いたような気がしたのを最後に、犀星の意識は闇に落ちた。
最初に感じたのは、熱い炎の音だった。小さな炉や油灯ではない、もっと激しく燃える篝火の音。音はするのに、空気は冷えていて、うっすらと寒い。冷たく固い地面は、かすかに湿気を帯びている。土の匂いがすぐ近くでする。
犀星は何度かしばたきながら、目を開いた。いつもなら、柔らかく息づく玲陽の寝顔があるはずの距離に、いまは橙色の炎の影が揺れている。
ばちん、と音がして犀星の頭上で篝火が崩れた。火の粉が顔に舞い落ちる。一瞬の、小さく強烈な熱。犀星は振り払うように首を振って、周りを見回した。
夜の森。木々の間に、自分は倒れていた。両腕が後ろで組まされ、太い縄が体を締め付けている。足首もまとめて拘束されていた。犀星は体を揺すって弾みをつけると、上半身を起こした。
「いい様だな」
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