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10 間隙に住まう(4)

 東雨はどうしても、自分の中のもやもやとした感覚に足元をすくわれている気がする。冷静になれば、犀星はあくまでも監視対象であり、個人的な感情などない、と割り切れる。しかし『従順で明るく犀星に付き従う少年』を演じ続けてきた東雨にとって、このようなやり取りの中でも、つい、そんな『役柄』が出てしまう。本当の気持ちがどこにあるのか、東雨自身にもわからなくなりつつある。 「ふぅん」  したり顔で、玲凛は笑った。すべてお見通しです、と言わんばかりだ。東雨も頭に血が昇る。 「なんだよ、その顔! おまえ、本当に腹立つやつだな!」 「ムキになって……やっぱり子供じゃないの」 「おまえっ! やってやるよ!」  あわれ、東雨は玲凛の挑発に見事はまった。 「へぇ、抜いたわね」  スッと目を細め、玲凛は表情を冷たくする。 「おまえが誘ったんだろ? ほら、やれよ!」  一方、東雨の方は刀を構えながら、精一杯の虚勢を張る。すでにこの時点で、精神的に玲凛が上回っているのだが、いかんせん、決闘ごとに不向きな東雨には判断できない。  玲凛は静かに大太刀の柄に手をかけた。  彼女の細い腕が、すらすらと輝く太刀を鞘から抜いていくさまを見るだけで、東雨は一気に血の気が引いた。  気迫が、違いすぎる! これは、ぜったい、ダメなやつだ!  そんな後悔と恐怖が湧いた瞬間、玲凛の太刀が空気を裂く恐ろしい音を立てて横に薙ぎ払われ、東雨の刀が目にも止まらぬ速さで回転して弾き飛ばされる。 「……う、うわっ!」  衝撃でぺたん、と尻餅をついた東雨は、腰が抜けたままずり下がって腕で顔を庇った。控えめに言って、怖くて死にそうだった。  だが、玲凛の太刀がそれ以上自分を追い詰めることはなかった。 「……なに、これ。あんた、からっきしじゃない」  興味をなくした獲物を放り出す肉食獣。  東雨は猫に弄ばれたネズミの気持ちを察した。涙を浮かべて、凛の顔を見上げる。彼女はすでに、刀を納めていた。と、東雨の背後で、玲陽の部屋の引き戸が開いた。涼景が顔を出す。 「何をしてる? 騒がしいぞ!」  見れば、つまらなそうに突っ立っている玲凛と、砂埃の上に崩れ落ちている東雨がいる。 「ん?」  涼景は、畑のあたりに突き刺さっていた東雨の刀に気づいた。 「そういうことか」  東雨の不幸を察して、涼景は腕を組んだ。 「バカだな、東雨、こいつにかなうわけないだろ」  敗れた東雨にさらなる追い討ちをかける。東雨は独り言のように、 「だって……売られたら買うってのが喧嘩だろうが……」 「相手を見て買え。生活費少ないんだろ?」  恨めしそうに、東雨はのけぞって逆さまに涼景を見上げる。もう、なりふり構わず情けなさ全開である。涼景は、 「凛、こいつはおまえの相手にはならん。実戦経験もないし、そもそも、筋が悪い」  と、とどめを刺した。 「涼景様、酷い……」  東雨はそのまま、自棄を起こしたように地面に寝転がった。相手をしていられるか、と涼景はそれを一瞥しただけで、玲凛に向く。 「凛、玲家の様子は?」  玲凛は切り替えて仕事の顔になる。 「今のところ、境界付近に動きはない。見張りは続けるけれど、新月が近くて夜は危ないかもしれない」 「今夜から、俺が代わろう。おまえは屋敷を頼む」 「心得た」  力強く頷き、玲凛は微笑を浮かべる。涼景もひとつ頷いて応じる。年が若いとはいえ、涼景の玲凛に対する評価は高い。 「では、東雨」  涼景は、いまだに回廊の下あたりに転がっていじけている東雨を見下ろした。 「白芍(びゃくしゃく)大棗(たいそう)が足りないんだが、燕家に取りに行ってもらえるか? 春がよく使うから、備蓄があるはずだ」」  東雨が不機嫌そうな顔をあげる。と、涼景の後ろから、犀星が覗いた。途端に、東雨は立ち上がって埃を払い、犀星に元気な顔を向ける。その様子に、玲凛が呆れ返って肩を揺すった。 「お薬、光理様に使うんですよね? 俺、行ってきます。暇だったので、この辺りの地図は頭に入れちゃいました」  変わり身の速さだけは見事である。やる気に満ちている東雨に、犀星は不安そうに眉を動かした。 「だが……玲家の動きがどうなるかわからない。危険だ」 「護衛してあげようか?」  東雨の横顔を自信満々で覗き込んで、玲凛が提案する。 「誰がおまえなんかに頼むか!」  東雨は当然のようにそれを突っぱねた。護衛どころか、こいつと一緒じゃ、こっちが殺されかねない、というのが本音だ。  犀星はまだ、不安そうだ。 「若様、俺、若様のお役に立ちたいんです」  東雨の目が、犀星を見つめてきらきらと光る。  犀星は何か言いたげだったが、その言葉は飲み込んだ。そして、いたわるように微かに微笑んだ。 「わかった。本当に気をつけるんだぞ。何かあったら、すぐに戻れ」 「はい!」  元気の良い返事を聞いて、犀星は少し安堵したのか、部屋の中に戻っていく。満足そうな東雨に、涼景は小刀を差し出した。 「東雨、これを持って行け」 「懐刀?」  受けとって、東雨はその小ぶりだがずっしりと重い短刀を見た。涼景が懐から取り出したばかりなのに、なぜかヒヤリと冷たく感じる。  全長は東雨の拳二個半ほど、藍色の鞘に銀色の緩やかな曲線の模様が描かれ、先端よりに獣の顔がある。柄頭には碧玉が埋め込まれており、どう見ても高価な一振りであると見て取れる。 「春に見せれば、俺のものだとわかる。おまえを信用するだろう。身分証がわりに持っていけ」 「それは助かります。いきなり行ったら、春さんに斬り殺されそうなんで」 「え?」 「だって、涼景様の妹なんでしょ?」  妹というものはこういうものだ、という顔で、東雨は玲凛を見た。涼景は意図を察して早口に、 「いや、春は凛とは違う」 「涼景様?」  玲凛が問いたげに目を細める。 「いや、深い意味はない」  涼景は視線を逸らした。  気を取り直したように、玲凛は東雨に一歩近づくと、にっこりと笑った。その笑顔を怖いとしか思えない東雨は、相当、心に痛手を負っているのだろう。 「東雨様。くれぐれもお気をつけくださいませ。あなたまでお守りする余裕はございませんので」  ひらひらと軽やかに手を振って、玲凛は颯爽と前庭へと戻っていく。 「……なんなんだよ、あれ」  東雨が泣きそうな声を出した。涼景が淡々と、 「歌仙で一二を争う剣豪、ってところか。凛の強さは天性のもの。争ってもお前に勝ち目はない」 「なんでそんなに強いんだろう」 「血筋、かもな。侶香様の話では、陽は星より、いい腕をしていたと聞くぞ」 「光理様が? あんなにお綺麗で、お優しそうなのに……」 「人は見かけによらない。おまえも、もう、十八なんだろう?」 「……涼景様?」  今度は東雨が涼景に抗議の目を向ける。 「いや、深い意味はない」 「俺の顔のこと、言ってますよね」  東雨は膨れっ面をしたが、それは余計に彼の印象を幼くする。  涼景は不満そうな東雨をじっと見て、それから、不意に真顔になった。 「あと、な」  顎を動かすようにして、涼景は東雨の持つ小刀を指した。 「その刀、おまえにやる」 「え?」 「そのまま持っていろ」  なぜか、その声が低く重たく感じられて、東雨は胸が騒いだ。涼景の目は、感情を失っていたが、同時にそれこそが、彼の今の心であるようにも思われる。 「……どうして」  東雨は改めて、懐刀を見つめた。随所に細工が施されている。やはり、簡単に誰かに譲渡するようなものとは思われない。  東雨はそっと、刀身を引いた。カチャっという小さな音が、柄を握る手にやけに響く。流れる水のような刃紋が美しい。 「あ……」  刃の根元には、ほんのり紫黒い油が塗られていた。かすかに土と苦味の混ざったような臭気が漂う。 「この、匂い…… 烏頭(うず)か……」  東雨の鼓動が早まる。それは警戒か、緊張か。涼景の静かな声が降ってくる。 「気をつけろ、肌に触れても危ない。……いざという時だけ、使え」  東雨は息を呑んだ。これがあれば、東雨でも相手を容易に死に至らしめることができる。 「……どういう、つもりですか?」  東雨は涼景を見上げた。その目は、決して恐れてはいない。  涼景は東雨から目を逸らし、虚空に向けてつぶやいた。 「腕の悪いおまえのための、護身用。それ以外に、何か理由が必要か?」  まただ。また、この声。  感情のない、平坦な、それなのに胸にずしりと響く重たい声音。 「では、薬の件、頼んだぞ。俺は玲家との前線に行ってくる」  涼景はそれ以上東雨を見ることもなく、回廊を渡って姿を消した。  燕涼景、何をたくらんでいる……  じっと、東雨は立ち尽くしたまま考えた。  このような刀を自分に与える理由について。  俺を試している? 試されている?  この刃で誰を斬るか、誰に尽くすか、選べとでもいうつもりか?  冗談じゃない。俺は、誰の指図も受けない。  再び、刀に目を落とす。  冴えて光る刀身には、鋭く冷めた目元が映っていた。

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