41 / 59

10 間隙に住まう(3)

 ここに来て、どれくらいたったかな?  東雨は玲陽の部屋の前の回廊で膝を抱えてぼんやりしていた。部屋の中では、玲陽が治療を受ける、とかで、東雨は簡単に追い出されてしまった。玲陽の傷の状態は、腹内の損傷、としか聞いていなかった。てっきり、刃物か何かで腹を切られたのだと思ったが、そうではないらしい。なんとなく尋ねてはいけない空気を感じて、東雨は黙っている。  目の前の奥庭には、小規模ながら、よく実った畑が広がっている。庭の中に畑を作る、という犀星の発想は、この庭が原型なのだろう。茄子に胡瓜に小松菜、葱…… 観賞用ではなく、確実に食用のものばかりである。自分たちが暮らしていた都の屋敷の畑はどうなっているかな、と東雨は気になった。もう少しで、人参が採れるはずだった。手間をかけて育てた大根も白菜も、収穫期を逃してしまいそうだ。  少し気持ちに余裕がでてきたのか、東雨は色々と思いを巡らせる。落ち着いて見回せば、色々なものが目新しく、興味をそそられる。  畑の向こうには、瓦屋根の平屋が見える。東の離れだ。  確か、若様はあそこで寝起きしていたって言ってたなぁ。  家人が話してくれた犀星の思い出話を辿って、東雨はあれこれと想像していた。  若様、ここで育ったんだよな。  ここには、自分が知らない犀星の人生がある。都で起きた出来事であれば、彼は全てを覚えていたが、ここでのことは全く想像がつかなかった。犀星は昔話など一切しなかったし、自分が聞くこともなかった。もっとも、尋ねたところで答えてくれたとは思われない。  犀星の秘密主義は、今思うと玲陽のことを知られないための配慮であったのだが、東雨はただのケチだと信じていた。毎日性懲りも無く書き続けていた日記のような文も、玲陽と自分をつなぐ、たった一本の頼りない糸だったのだろう。  ズキっと東雨の胸が締まった。  犀星と玲陽が見つめ合う姿が、脳裏に蘇る。見たこともない、必死に相手を想う犀星の表情、そして、それをしっかりと受け止める玲陽の眼差し。  俺、最低……  東雨は抱えていた膝を、両腕で引き寄せ、顔を伏せた。  犀星の文を止めていたのは、他でもない、自分なのだ。  もちろん、それを知る者は誰もいない。いや、一人だけ、東雨の本当の主人である、宝順帝だけは知っている。  犀星のもとに十年もの長きにわたって献身的に仕えてきた侍童、東雨の正体は、まぎれもない、宝順帝が犀星の元に差し向けた間者である。 『いつまでもおまえを、好きにさせておくわけにはいかない』  先日、涼景が口にした際どい言葉は、確かに東雨への警告であった。燕涼景は、自分の正体に気づいている。それは薄々感じてはいたが、正面から言われたのは初めてだった。  犀星の身辺に身を置き、あらゆる情報を皇帝に流す。皇帝への逆心の有無、弱みや失態、汚点だけではない。その能力も才能も成果も、すべてありのままに、だ。あくまでも自分は帝のものであり、犀星は見せかけの主人に過ぎない。決して犀星に忠誠を誓っているわけではない。犀星の懐深く入り込み、真意を引き出すために、無邪気な侍童を演じてきただけである。  ずっと、騙してきた。  東雨は疑問にも思わなかった自分の行動に、今、初めて戸惑いを感じていた。  涼景に脅されたからではない。  自分の心の中に生まれた、不安定で不気味で、正体のわからない未知の感情が、彼を混乱させるのだ。それは突然現れたわけではなかった。随分前から、自分の心に少しずつ降り積もり、層を成して堆積していた。まるで、水底で時間をかけて降り積もる泥のように。それが今、水の渇きによって地上に現れ、見たこともない色調で彼を翻弄している。そして、その水を干上がらせたのは、玲陽の出現だった。彼が現れなければ、東雨はずっと、気づかないふりを続けることができたはずだ。  なんか、腹立つ。  そう思って、すぐにまた、自分は嫌なやつだ、と落ち込む。誰かの存在に動かされている自分は嫌いだ。自分は自分でいたい。誰にも、指図も命令もされたくない。  皇帝、という、この国で最も重たい鎭によって押さえつけられている東雨である。それ以上の負荷には耐えられない。それなのに、勝手に周囲があれこれと動いて、自分はなすすべもなく振り回されている。  やっぱり、腹が立つ。  その苛立ちは、周りへのものか、自分へのものか、判然としない。  東雨はより一層、背中を丸めて自分を抱きしめる。 「ちぇ……」  小さく漏らした声は、年よりも幼く聞こえた。 「暇そうでいいわねぇ」  表の方から回り込んで奥庭に入ってきたのは、撫子色の袍に黒染めの革鎧をまとい、腰に朱塗りの鞘の大太刀を吊るした少女である。 「! おまえっ……」  東雨が一瞬で警戒体制に入る。跳ねるように立ち上がると、玲陽の部屋の引き戸の前に立ち塞がった。 「今、入れないよ。光理様、治療中だから」  だから俺がここを守っているんだ、と言わんばかりの東雨に、少女、玲凛は皮肉っぽく笑った。 「それであんたも追い出されたんだ」 「うるさい!」  図星を突かれて目が泳ぐ。東雨はやはり、玲凛が苦手と見える。 「おまえだってフラフラしてんだろ。暇なのか?」  憎まれ口を叩きつつも、玲凛が警備の仕事で前庭に詰めていたことを、東雨も知っている。自分には任せてもらえない大役をこなす玲凛が、東雨には羨ましくもあった。 「色々とあるのよ。まぁ、あんたみたいな子供に言ってもしかたがない」 「子供って……おまえ、幾つだよ?」 「十六」  ふん、と東雨は勝ち誇ったように鼻を鳴らした。 「俺はもうすぐ十八だ」 「へぇ。そんな顔して?」  玲凛はにやり、と少女らしからぬ不敵な笑みを浮かべる。童顔で年よりも幼く見られることを気にしている東雨は、その仕草に不満をあらわにした。 「顔は関係ないだろ。いちいち、腹の立つ……」 「あんた、東雨っていうんだって? 星兄様に聞いた」 「だから?」 「東雨って、(あざな)?」  何気ない玲凛の問いかけに、東雨は自信を崩されたように真顔になる。 「違うの? じゃぁ、本名?」 「関係ないだろ、そんなの」  顔を背けて、怒ったふりをするが、玲凛はそのようなことを気にする神経を持ち合わせていない。彼女は相当肝が座っているか鈍いか、のどちらかである。その遠慮のなさ、気性の激しさは、とても玲陽と同じ血が流れているようには見えない。玲凛は腕を組んで、 「姓は?」  東雨はぶすっとした顔で、 「……ない」 「なぁんだ。あんた、星兄様の侍童なんてやってるから、それなりの家の出かと思ってた」  呆れたように、玲凛は言った。東雨がかちん、とくる。 「! ほんと、おまえ腹立つな! そういうおまえはあんのかよ、字」 「仲咲」  あっさりとしてやられて、悔しそうに顔を歪め、東雨はさらに言葉を射かける。 「……変なの。凛って名も生意気そうだし!」  本気でそう思っているわけではないが、今はなんでも気に入らない。だが、玲凛は怒ったそぶりもなく、むしろ、嬉しいことを話すような顔になる。 「凛はね。兄様たちがつけてくれたの」 「え?」  玲凛は畑の胡瓜を一本もぎ取ると、井戸端に置いてあった桶の水で軽くあらい、齧り付いた。同じようなことを犀星もやっていたな、と東雨は思い出した。 「兄様たちが小さい頃、近くの村が山賊に襲われたんだって」  食べながら、玲凛は少しずつ話を始めた。 「知らせを聞いて兄様たちが駆けつけたとき、目の前で、弱っていた赤ん坊が死んだ。その赤ん坊の名前が『りん』だった。世界の何も知らないまま、命を終えた子がいる。その子の分まで世界を見て、自由に生きられるように、って、生まれたばかりの私に名付けてくれた。『凛』って字はね、美しいとか、毅然として強い、って意味なのよ。だから、気に入ってる。まぁ、学のないあんたにはわかんないかもしれないけどね」  東雨は顔をしかめた。 「誰が学がないって! 若様にちゃんと教わっている!」 「星兄様に?」 「ああ」  羨ましいだろう、と少々自慢げな東雨だったが、玲凛にはまったく刺さっていない。この数日、東雨は玲凛を遠巻きに観察していた。どうやら彼女は玲陽への執着はあるものの、犀星に対してはほぼ無関心なのだ。東雨にとっては、それが少し意外である。都において、歌仙親王は注目の的である。関心を示さない者の方が珍しいくらいだ。  若様の魅力がわからないなんて、頭悪いのはそっちだろ。  咄嗟にそんなことを考えてしまう東雨は、完全に犀星贔屓と言わざるを得ない。 「まぁ、いいわ」  玲凛は胡瓜を食べ切って、 「ねぇ、東雨」 「呼び捨てすんな! 東雨様だろ!」  思わず、喧嘩腰になって東雨は食ってかかった。せめて、年長者としての矜持くらいは守りたい。 「光理様だって、東雨どの、って呼んでくれるんだ。おまえ、妹なんだろ。少しは……」 「うるさいなぁ」 「うるさいってなんだよ!」 「細かいのよ、いちいち。そういうのはね、私に腕っぷしで勝ってから言いなさいよ」 「!」  一瞬、東雨はひるんで腰を引いた。玲凛が犀家に飛び込んできた時のことを思い出す。暴れ馬を乗りこなし、拳で地面を殴りつけていた姿、その時の形相は今でも悪夢である。  玲凛は東雨の腰の刀をちら、と見た。 「あんた、刀使うんでしょ?」  玲凛の挑発的な態度に、東雨はどうすべきか、と迷った。ここは応じるべきか、相手をしないべきか…… 「稽古、つけてあげようか?」 「いらない。若様につけてもらってる」 「まぁた若様? そんなに星兄様のこと大好きなんだ」 「す……好きなんかじゃ……」  また、図星だ。

ともだちにシェアしよう!