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13 守る者たち(1)

 玲陽が犀家に匿われ、半月が過ぎた。  昨夜、犀星が玲博と接触した限りでは、彼らが玲陽を諦める様子はなかった。  前庭には、およそ三十名の犀家の私兵が詰めていた。また、犀家と玲家の領地の境界の川のそばで、常時数名の斥候が、監視にあたっていた。  前庭は犀遠と玲凛、川の前線は涼景が担当した。犀星は玲陽の部屋を離れない。玲陽を守るために考えうる最強の布陣であった。  しかし、いつ終わるとも知れない連日の警戒で、その疲労は重くなっている。  玲家は大きく兵を動かすことはなかったが、それに油断して防衛体制を緩めるわけにはいかない。犀遠がよく鍛えている兵たちではあるが、士気は長くは持たないだろう。  そろそろ、決着をつけねばならぬな。  犀遠は現状を憂い、判断を迫られていた。  このまま、延々と時を長引かせるわけにはいかない。また、今の状態で犀星と玲陽を都に返しても、どのような形で玲家が手出しをしてくるかもわからない。  今こそ、禍根を断つべく動くとき、と、犀遠は意を決した。  ゆるい午後の日差しが、晴れ渡った空を照らし、秋風が煌めいて歌仙の風景を包み込んでいる。  屋敷の警備を玲凛に任せ、犀遠はひとり、外門を出た。  黒染めの袍に腕を通したのいつぶりであったか。控えめだが、丁寧に作り込まれた細工のある帯には、刀を模した犀家の家紋が縫い取られている。腰の太刀は大ぶりで、その深青の鞘にはうっすらと浮かび上がる暗い金色のあやどりが見られる。  久しぶりに屋敷の外に出ると、季節が大きく移り変わっているように思われる。  見慣れていた森の茂りは半ばほど枯れ落ちて、真新しい落ち葉が地面を覆っていた。藪の中に見える赤い色は、柘榴であろう。昔、犀星と玲陽があのあたりでつまみ食いをし、飛び出してきた蛇に驚いて逃げ帰ってきたことを思い出した。犀遠は頬をゆるめ、目元に優しさを浮かべる。あの時の二人の豊かに動いた表情も、命がみなぎるように跳ね回っていた姿も、しっかりと心におさめている。  ふたりと過ごした時間は、犀遠の生涯でもっとも幸せな時であったと思う。  犀遠は、犀星と玲陽のどちらとも、血のつながりがない。また、いかなる親族関係にもない。しかし、それがなんだと言うのだ。  こうして、玲陽の有事に、犀家の家人が一丸となって臨んでいるのは、犀遠を含め、皆の心が結びついている証である。  血よりも情。名よりも実。  犀侶香は襟を正して、乗馬を進めた。  緩やかに下る坂道の先に、歌仙の農村が広がっている。半月前、犀星はこの景色を朝靄の中に見ながら、玲陽のもとへ向かったのであろう。  あの朝、犀遠は敢えて、手出しをしなかった。  それは、十年間、犀星が自分の使命と定めてきた努力に水をさすことを嫌った、犀遠なりの配慮であった。  もちろん、望まれればどのような協力も惜しむものではなかったが、犀星が父に告げたのは、馬を貸して欲しい、との申し出だけであった。  犀星は、己の信念を貫いた。  今度は、その成果に自分が答えるべき時である。  自分にしかできないこと、そして、せねばならないことがある。決して、失敗を許されない、たった一度の大きな賭け。  犀遠はその大仕掛けを前に、久々に浮き立った。  やるべきことは、犀星と玲陽が教えてくれた。  あとは、成すだけだ。  馬の歩調はゆっくりとしていたが、その歩みは力強く、前へ踏み出す気迫を感じさせた。  田畑に出て作業する領民たちが、犀遠を振り返って笑顔で頭を下げた。犀遠も、微笑みながら頷いた。  領主自ら領地内を歩くことは、犀家領内では見慣れた景色だった。犀遠は気さくに皆に話しかけ、時には冗談を言い、時には親身に相談に乗った。飾らないその人柄は、領民たちに慕われ、みなが『侶香様』と字を呼んだ。玲家領とはまるで違う、素朴な交流がここにはある。  犀星と玲陽も、よく犀遠について農村を回っては、あちらこちらで寄り道をしつつ、世の中の機微を学んだ。少年たちの心は、この土地と共にあった。  乾いた風は冷たかったが、陽光に温められた道の土は、ふんわりと甘い匂いを放っている。心地よさが足元から湧き立ってくるようだ。  犀遠は行くてへと目を凝らした。  玲家との境界となっている川の辺りに、数人の人影がある。見張りにあたっている涼景と、犀家の私兵だ。  犀遠が近づいていることにいち早く気づいて、涼景が周囲への警戒を続けながら、馬で駆けてきた。 「侶香様、いかがなされました?」  精悍なその顔に、わずかな不安が浮かんでいる。 「星になにかありましたか?」 「いや、驚かせてすまぬ」  犀遠は笑顔で、 「星なら心配はない。今頃、陽と一緒に昼寝でもしているだろうから」  涼景が安堵とも不満とも知れぬ微妙な表情をする。昨夜も犀星は玲陽の部屋の種火を絶やしたのだ。東雨の帰りを案じて軽率に一人で動いたことも気にかかる。  少々、気を緩めすぎていないか?  そんな涼景の胸中を察して、犀遠は目を細める。  涼景が自分には敬意を払いつつも、犀星に対しては感情を露わにすることが、犀遠には嬉しくてならない。  本当に、こやつらの将来が楽しみでならん。  犀遠は小さくニヤリとした。 「案ずるな。星はたるんでいるわけではない」 「!」  しまった、というように、涼景が照れ笑いを浮かべる。 「ただな、星も陽も戦い疲れている。判断が鈍っているのも事実だ。短い間に、あやつらは多くのものと向き合い過ぎた」  涼景は表情を和らげると、頷いた。  自分はどうしても、犀星に大きな期待をかけてしまう。それは涼景の素直な気持ちだが、その犀星とて、人の子である。歌仙に到着した頃の、ボロボロに傷んでいた犀星が、玲陽のためにどれだけの苦難を超えてきたか。そこに費やした精神力ははかりしれない。  それを思うと、急に犀星という人間が愛しくてたまらなくなる涼景である。  前線に立つ者としてはあるまじき笑みで、涼景はしばし目を閉じた。犀遠がそれを咎めることはない。  涼景が顔を上げるのを待って、犀遠は声を抑えて切り出した。 「涼景。おまえに頼みがあって、来たのだが」  何事か、と涼景は犀遠の顔を見た。犀遠は安心させるように微笑むと、 「急ですまんが、おまえの命、わしに預けてはくれんかな?」  さすがの涼景も、さらりとかけられたその言葉に、呆然としてしまう。  犀遠は涼景の返答も聞かずに、帯に刺していた絹の袋を手に取ると、涼景に差し出した。 「わしと一緒に玲家に行ってくれ。わしが格を惹きつけるから、おまえはその間に、これを芳に渡して欲しい」  涼景はその絹袋を見つめた。中身はおそらく、犀遠がしたためた書状に間違いないだろう。  内容は?  涼景は何も言わず、犀遠を見上げ、その表情の中に、万事を託して悔いのない決意を見た。  暗い朱色に白い糸で曼珠沙華を縫い取った艶やかな絹袋は、犀遠から涼景の手に渡った。 「確かに」  涼景は短く答えた。その口元には、満足そうな笑みが浮かんでいた。  玲家はその血の始まりに神を持つとも言われる、古からの血脈である。  この地が歌仙と呼ばれるようになる前から、一帯を支配してきた。豊かな農地と、川という水脈、血縁関係で固く結ばれた本家と分家の絡み合う御前町を抱え、皇帝に対しても決して引かぬ胆力をそなえた一族だった。  少し前、その玲家の当主候補であった玲心は、先の皇帝・蕭白との間に一男をもうけた。当時は玲星と呼ばれた、今日の犀星である。  しかしこれは、玲家にとっては裏切りであった。『皇家は玲家の血を求めない』とした、数代前からの約義に反する行為であった。玲家は玲心の妹である玲芳を都につかわし、生まれたばかりの犀星を連れ帰った。そして、この玲家の血を持つ親王を皇帝に差し出すことと引き換えに、玲家の有事にはいかなる条件であろうとも、皇帝の勅命を持って鎮圧に助力することを求めた。現皇帝の宝順は、犀星を自分の手元に置くことを強く望み、この申し出に応じた。  かくして、犀星は皇帝に召し上げられ、玲家は時の朝廷の権力の一端を握って、さらに血による領内の支配を強めたのである。  因縁深い玲家の領地に、犀遠は涼景とただ二騎で踏み入った。  隣接しているとはいえ、玲心の一件があって以来、犀遠が玲家を訪ねることはなかった。玲家もまた、犀家を嫌い、両者は目に見える争いこそなかったものの、交流はかなり制限された。その影響は、次の世代にも暗い影を落とし、犀星と玲陽は幼い頃から、さまざまに辛苦を味わってきた。特に犀星は、母の実家である玲家に、一歩たりとも入ることを許されず、玲陽が玲芳に呼ばれる時は、いつもひとりで門の外で待っていた。犀星の命は、玲家が皇帝と盟約を交わす際の切り札である。危害を加えられることはなかったものの、強い疎外感を感じ続けていたことは事実だった。  玲家の屋敷へと続く道を行けば、すれ違う領民たちが驚いて傍に避けた。みなが、犀遠の顔を知っていたわけではない。その馬の鞍につけられた犀家の家紋を見て恐れたのだった。  領民の中には、玲家の分家の血筋を継ぐ者が多くいる。彼らは生まれながらにして、自分たちの血を尊ぶあまり、他者に対して不寛容であった。  涼景は、こちらを蔑視するような領民たちの仕草を横目に見ながら、玲陽のことを思い出していた。  まさに、不寛容の頂点に君臨する玲家本家、その嫡男である玲陽が、家風とは真逆の性質を持っていることに、改めて驚きを感じる。他者への底知れぬ深い寛容の心は、まさに玲陽そのものだ。しかし、それは彼が玲家の人間ではなく、犀遠の意思の影響下で育てられた結果であることを表している。  陽。おまえは幸運だぞ。  多分に主観の入った感想を、涼景は抱いた。

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