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13 守る者たち(2)
玲家の屋敷は、すでに視界の中にあった。
周囲の土地より、一段盛られた高台に、広大な敷地を持ち、それらはすべて、堅牢な柵によって囲まれている。門は正面と裏に二箇所。柵の上部には見張りの櫓が等間隔に並び、ちらちらと兵士の姿も確認できる。
事前の情報では、常時敷地内には百名ほどの私兵が駐屯しているという。何かあれば、その三倍は集めることができるはずだ。犀家の兵は、総動員したとしても百名程度である。正面からの衝突は避けたかった。
そして何より、と犀遠は思う。
玲陽は、自分のために誰かが戦い、傷つくことを受け入れられる性格ではない。たとえ結果を出せたとしても、彼が喜ぶことはない。
無血で済めばよいのだが。
玲格を敵とする以上、それは決して簡単なことではないだろうが、玲家に対して敵意がないことを証明するため、こうして、兵を連れずに涼景と二人だけで訪問することを決めたのだ。
すでにこちらに気づいている見張りの兵たちが、手で合図を送り合いながら、連絡をとっているのが見えた。この訪問はすぐに、玲格のもとに知らされるであろう。
犀遠は、ちらりと涼景を見た。一歩先を先導して馬を進めていた涼景は、その視線に気づいて微かに振り返った。
「ぬかるな」
「御意」
彼らの間に交わされたのは、それが全てだった。
四名の門番の兵士が、彼らを門の外で待ち構えていた。
ふたりは門の手前で馬を降りた。犀遠の馬を預かった馬番が、その鞍に犀家の家紋を見つけて、怯えた表情を浮かべた。
誰もが、この突然の訪問が、何らかの火種となりうると察している。
「突然の来訪、失礼する。犀侶香である。玲|正躬《しょうい》どのに取次願いたい」
犀遠は至極丁寧に門番に告げた。その口調は穏やかで落ち着いてはいるが、決して断れない重々しさがあった。
犀遠の求めに応じて、外門が開かれる。門の目立つ位置に、『玲』の文字をあしらった金色の飾り金具が鈍く光っている。涼景は表情を変えずに、犀遠に従って中へ入った。
兵士がひとり寄ってきて、犀遠に刀を渡すように言う。犀遠は逆らうことなく、腰紐を解いて太刀を預けた。兵士は涼景にも目線を送ったが、涼景はそれには応じなかった。
自分が犀遠の護衛として同行している以上、そして、犀遠が自らの刀を手放した上は、帯刀を妨げられる筋合いはない。また、涼景は、皇帝から専断を許された将であり、戦場でも政でも、皇帝の信に背かぬ限り、その裁量は絶対である。誰も、彼に命じることはできない。犀遠も、それを承知である。
外門から中門へと続く石敷きの参道を進みながら、周囲の状況に注意を払う。参道の脇には低木や薬草が植えられ、視界が遮られている。植え込みの間から奥を探ると、かなりの広さが確認できた。見える範囲に兵舎が三棟、倉庫らしき建物が二棟、厩舎からは馬のいななきが聞こえてくる。
参道の途中には監視塔も備えており、弓を手に構えた兵士が、じっとこちらを見下ろしていた。
ゆっくりと奥へ進むと、彼らの歩みに合わせて、中門が開かれた。両開きの門の向こうには中庭が広がっている。白砂利が敷かれ、中には飛び石の道が見える。整えられた低木と、小さな池、築山も備えた落ち着いた庭である。そんな美しい庭でありながら、回廊のあちこちには、明らかにこちらを意識している兵士の気配を感じる。敷地に入ってから、ずっと空気が緊張しているのがわかる。
敵ながら、いい動きをしているな。
涼景はそんなことを思った。
玲格のいる正殿は目前にある。だが、涼景が犀遠とともに進むのはここまでだ。犀遠がわずかに顎をひいて、涼景を見た。涼景はしっかりとうなずくと、中庭に向く。後ろをついてきていたふたりの兵士が、それを不審に思って制した。
「歌仙親王の命で、当主、玲芳様にお会いしたい」
涼景が落ち着いた声で言った。
兵士は顔を引き攣らせた。涼景が皇帝から与えられている権限を、彼らもよく知っている。断ることはできない。
兵士たちは顔を見合わせ、仕方がない、と一人が案内に立つ。
涼景が背を向けたことを確かめて、犀遠は玲格と対峙すべく、正殿へと入った。
涼景もまた、犀遠の動きを感じ取りながら、自分がなすべきことに集中する。
案内に従いつつも、周囲の警備状況や人の動きを気に掛けながら、母屋の奥へ入る。
玲芳と会うのは、これが二度目である。石のように表情の動かない女性だと、あの時、涼景は思った。玲凛からの情報では、薬の類で言葉を奪われ、思考も鈍らされているらしい。
前回は、何もわからないままの手探りの訪問であったが、今回は違う。玲家という家の特殊性、犀星と玲陽との関わり、玲博や玲格の人間性、そして、懐に入れた、犀遠の手紙。
今の涼景には玲芳の姿はどう見えるのだろうか。
以前と同じように、玲芳はがらんとした部屋に座り、涼景を迎え入れた。御簾や衝立で仕切られてはいたが、その向こうには玲芳を見張るための兵士が控えている。前回は、彼らが自分を警戒しているのかと思ったが、それだけではないことが、今はわかる。
玲芳は玲陽に対する人質であり、玲格にとっては勝手をされるわけにはいかない存在なのだ。
涼景は部屋の前で一礼した。
「ご無礼いたします。歌仙親王殿下の命で参上いたしました、燕仙水にございます」
実際には、今回、犀星は無関係なのだが、この方が話が早い。
それに、このようなことで名前を使ったとしても、犀星がとやかく言わないことは涼景もよくわかっている。
玲芳は橙色の袍に身を包み、静かに彼を見つめていた。
涼景は小さな声も聞き逃すまいと耳を澄ませていたが、入室を促す言葉はなかった。
本来ならば許可なく入るわけにはいかないが、いつまでもこのままでは埒があかない。
仕方がなく、もう一度礼をすると、さっさと進んで玲芳の前に座った。周囲の兵士たちは涼景を止めはしなかった。
「玲芳様」
涼景は最低限の礼儀として、玲芳の顔は直視せず、その首のあたりに目を向けた。
「犀侶香様よりの書状にございます。お改めください」
涼景は、犀遠から預かった絹の袋を、玲芳の前に置く。
玲芳の視線が、ゆっくりと落ち、袋を見る。
だが、彼女は見つめるだけで、手を出そうとはしない。
涼景はしばらく様子を伺っていたが、静かに、声を低めた。
「目を逸らすな。あんたの息子は、今も戦っているんだ」
ぴくん、と玲芳の目元が動く。
玲芳は最後の自我までは失ってはない。あの、強い玲陽の母なのだ。信じるに値する。
辛抱強く、涼景は沈黙した。それは、玲芳にとって必要な時間である。
涼景には、玲芳がどのような葛藤を秘めているのか、想像もつかない。しかし、それでも彼女の中には、玲陽を思う気持ちが消えていないことを信じるしかなかった。それに賭けるしか、今はないのだ。そしておそらく、それは犀遠も同じはずだった。だからこそ、自分はここにいるのだ。
祈るような時間が過ぎ、玲芳の指先がかすかに震えた。
そして、ゆっくりと、自分が動くことができるのを確かめるような速さで、彼女は絹に触れた。
そこからは、流れるように袋を手に取り、澱みなく包みを解いて書状を開く。そこで再び動きがとまり、ただ、かすかに目線だけが書状の上を滑る。
涼景は目を上げ、玲芳の顔を見た。
犀星の母親である玲心は、玲芳と生き映しだったという。彼女の面影には、犀星や玲陽に通じるものが見てとれた。
涼景は、その美しくも凍りついた表情に、何かが揺れるのを見た。
『汝に願わくは、まさに為すべき所を思え。彼の二子、すでに生を選べり』
玲芳の手にした書状が小刻みに震えている。前触れもなく、その両の頬に、きらりと涙が走った。
涼景は、犀遠が何を伝えたのか、わからなかった。だが、その言葉は、玲芳に大きな衝撃をもたらしたに違いなかった。
何もかもを諦め、絶望の中に身を投げていた彼女の心に、かすかな、しかし明らかな光が差し込む。
「帝より全権を委ねられし者よ」
玲芳は、黒曜石のような瞳で、涼景を見た。そこには、強い意志の力があった。
「玲家当主・芳、宝順皇帝の大御心に伏して願い奉る。我が子らに仇なす玲正躬、これを誅し、滅し給え」
涼景の胸が、カッと燃え上がる。
これを、待っていた!
見開いた目に、じわりと熱いものが湧いた。時は来た。彼を阻むものは何もない。
涼景は座したまま、一礼すると、素早く立ち上がり、まっすぐに正殿へ向かった。
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