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13 守る者たち(3)
涼景と別れた犀遠は、正殿へのきざはしを登り、中へ入った。
犀遠が招き入れられた正殿は、演武場とも思える広さである。入り口から奥に座る玲格まで左右の壁には十名ほどの兵士が並び、犀遠の動きに不審な点があれば、すぐにでも牽制できる構えで、厳しい表情をくずさずにこちらを見ている。壁の上部の欄間からは、外の光が差し込んで、ちょうど、部屋の中央にその光が映り、玲格までの道を示しているかのようだ。犀遠はその光を一歩ずつ踏みながら、玲格の目前で腰を下ろした。
玲格は、犀遠よりもわずかに年長である。蓄えた髭が余計に年長者の風をあらわしている。彼は玲心と玲芳の実兄であり、玲陽と犀星の叔父にあたる。
犀遠が若い頃は、玲格の真摯で正義感の強い人柄に憧れたこともあった。しかし、ふたりの関係は、玲心の死によって、完全に破壊された。
玲格は、ことのほか可愛がっていた妹の玲心が、自分の気持ちを遂げて犀遠と結ばれたことを、心底喜んでくれた。一族は玲心の叛逆を問うたが、玲格はそれを鎮め、妹の平和な幸せを願っていた。そこには、犀遠にたいする期待も込められていた。
だからこそ、皇帝から妹を守り切ることができなかった犀遠に対し、深い失望と怒りを抱いたのであろう。
犀遠はそのことで玲格からとがめられたことはなかったが、玲心の死を境に、彼が豹変してしまったことは間違いなかった。
見まごうほど似ていた玲芳を無理に妻とし、自分の手元で自由を奪い、誰にも触れさせぬように閉じ込めたのは、玲心への贖罪であったか、歪んだ欲か。玲芳は玲格と婚姻後、屋敷から出ることを禁じられた。
玲心のように、誰かい傷つけさせてなるものか。
玲格の激しく倒錯した感情が、玲家の中で何かを捻じ曲げていったことは間違いなかった。
犀星が都へ上がると、それを機に玲格は玲陽をも砦に幽閉した。玲陽の力を生かすためとされたが、事実上、玲芳と玲陽の親子を、互いに縛るための人質にしたに等しかった。
以後、玲格は、参玲家の男たちを玲陽のもとに送り、体内の傀儡を浄化させ、それによって彼らの命を縛った。玲格に逆らえば、浄化を得られず死に至る。それは、男たち当人だけではなく、その家族にとっても効力を持つ残酷な脅迫だった。
また、傀儡にとりつかれた他の領民たちも、取り払ってもらうために玲格に取り入り、従った。彼らは金を積み、玲格からの許しを得て初めて、玲陽に会うことができた。金を用意できなければ、労働で支払った。それも叶わぬものは、ただ、死を待った。
玲陽は、傀儡に苦しむ人々にとって、唯一の救いであった。
玲格は得られた金銭を軍事に投じ、屋敷の防備を固め、兵を鍛えた。歌仙全域の覇権を取り、皇家への反逆の意思を示す機会をうかがっていたのである。いかに玲家とはいえ、自領を守ることはできても、都に攻め登るだけの力を得ることなど不可能である。しかし、玲格の胸には、玲心を狂い死にさせた者たちへの、深い怨念だけが渦巻き、理でものごとを見ることなど、とうに叶わなくなっていた。
犀遠には、玲格の乱心とも言える行為が、決して理解できないわけではない。犀遠もまた、玲心を守れなかった自分を責め、生きることを手放そうとしたこともある。だが、そんな自分を生かしてくれたのは、玲心の忘形見であった犀星だった。
もし、自分が犀星を玲格から引き離さなかったとしたら、状況は変わっていたのかもしれない。
犀星がそばにいたことで玲格が心の平穏を保てていたなら。
そんな可能性も、当時、かすかに胸をよぎる。だが、それは絵空事だった。犀遠が犀星を引き取れたのは、玲格が犀星を殺そうとした、そんな忌まわしい真実があったからだ。玲芳はそのことに恐怖し、犀星を守るため、玲家から切り離したのだ。表向きだけでも、玲の姓を捨てさせ、犀を名乗らせた。
玲格が玲心を大切に思っていたことは事実だ。だが、それによって、犀星を憎むことは筋が通らないと、犀遠は思う。自分が叔父である玲格に命を狙われたことを、犀星は知らない。彼が玲家に入ることを許されなかった裏に、そのようなからくりがあろうとは、幼い犀星には思い至るはずもなかった。
また、玲陽も玲格にとっては目障りな存在であった。玲芳は父を知らぬ間に、玲陽を身籠った。自分が玲陽を守らねばならないと必死だった玲芳は、常に玲陽のことばかりを案じていた。玲芳に玲心の影を見ていた玲格にとって、玲陽に執着するその姿は、まるで、蕭白の子を抱く玲心のように思われた。
『愛しい玲心が、憎い蕭白帝の子を抱いている』
玲格は妄想に取り憑かれ、玲陽をも手にかけようとした。玲芳は犀遠に話を持ちかけ、命の危機にさらされている二人の赤子を助けてくれるように頼み込んだ。犀遠は迷うことなくそれを承諾した。
こうして、犀星と玲陽は、犀遠の庇護のもとで育てられたのである。
いかに玲心の無念を晴らしたいという一念であっても、玲格は多くの者を巻き込みすぎた。その代償は、あまりにも大きかった。玲格は今も、これからを生きようとする若い者たちの未来すら、奪おうとしている。
これ以上、玲心の亡霊にとりつかれた玲格を、放っておくことはできない。
犀遠はその覚悟で、この場に来たのだ。
玲格は、赤茶色の濃淡を美しくあしらった袍に、褐色の裳を身につけ、腰には深い紅色の直線的な剣を帯びている。玲家に伝わる家宝の剣であり、本来ならば玲芳が持つべきものであった。柄の近くに、銀細工で玲家の家紋である炎の紋があしらわれている。その紋は、玲家の血の象徴である。玲本家の者たちが、生まれてすぐにその額に炎を模した刺青を入れるのは、玲家の血を祀るためとも言われている。
玲格の額にも、犀星たちと同様に、小さな炎の刻印が刻まれている。その炎は、一族の象徴であるばかりか、額にそれを刻んだ者の運命すらも、狂わせるほどの呪いであった。。
犀遠は静かに胸に灯す決意を込めて、揺るがぬ視線を玲格に向けた。
「よもや、おぬし自らが訪ねてくるとは」
年齢よりも、老いた、乾ききった声が、深い水底から届くような響きをもって、そう告げた。犀遠は臆することなく、それを受け止めた。
「よもや、拒まずに通してくれるとは。もう、三十年になるか」
犀遠は言い返した。
「そうだ。おぬしが都に発ったとき以来よ」
玲格は口元に、冷たい笑みを浮かべて見せた。それは余裕であったのか、長年の憎しみの澱であったのか。
「このような突然の再会になろうとはな」
玲格の目は犀遠を捉えているように見えて、実際のところ、どこか遠くに向けられているようだった。
気がふれている?
直感的に、犀遠はその異常を感じ取った。
「正躬、おぬしに聞きたいことがある」
「ほう?」
二人のやりとりを、壁際に居並ぶ二十名ほどの兵士たちは、互いに目配せしながら、慎重に見守っていた。
玲家の私兵は、その多くが玲家の分家の者である。彼らにとって、玲陽はなくてはならない存在であった。それを奪った犀遠は、命を脅かす敵も同じである。分家の者にとっては、玲格こそが命を守ってくれる存在であり、犀遠こそが共通の敵だった。
「いいだろう、侶香。話してみよ」
玲格はしわがれた声で言った。犀遠はゆっくりと息を吐き出した。
「おぬし、玲伯華をどう思うておる?」
その問いは、玲格を動かさなかったが、周囲の兵士を動揺させるには十分であった。兵士の中には古参も多く、犀星が玲家にとってどのような存在であったか、直接当時を知る者もいる。
皇家と玲家本家。その二つの血を合わせて生まれてきた犀星は、彼らにとって愛憎の共存する特殊な存在である。そして、その思いは玲心に心を寄せていた玲格にとっては、殊更激しいものであった。
「その名を聞かされるとは」
表情は動かなかったが、玲格の心がゆっくりと傾き、感情の波がうごめいたのを、犀遠は感じ取った。
「侶香。おぬし、随分と意地が悪くなったものよ」
「おぬしほどではあるまい」
犀遠は眉ひとつ動かさずに言った。
かつての玲格は、手本とするに足る人物であった。玲心の死がそれを狂わせてしまった。そして、玲心を死においやったのは、自分のいたらなさであったことを、犀遠は後悔し続けてきた。
全ては、自分が玲心を愛したことから始まり、そして、今の玲格こそ、その結果なのだ。
彼との決着は、犀遠にとって己自身のけじめである。そして、己の過ちの犠牲となった者たちへの、贖罪である。
「あれはまだ、生きているようだな」
冷たい声が、玲格の口をついた。犀遠は可能な限りの集中力で受けてたった。これは、戦いだ。
「忌まわしい血がこの歌仙に舞い戻ったと聞いた」
「おぬしの甥ぞ」
「そうは思うてはおらぬ」
「ならば、どう思う?」
玲格は無表情のまま呟いた。
「災厄よ」
犀遠はその言葉を、胸に刻む。
犀遠にとって、犀星は希望以外の何ものでもない。真逆の玲格とは、相入れない。犀遠はさらに重ねて問う。
「おぬしは、彼をどうしたいと思うておる?」
その問いは、初めて玲格の表情を動かした。それはわずかであったが、口元に一瞬、笑みが浮かんだのを、犀遠は見逃さなかった。
「実に面白いことを聞く」
玲格の声色には、明らかに何らかの興奮が感じられた。それは業火へとつながる小さな種火のようだ。しん、としずまる正殿の床には、玲格から染み出す黒くどんよりと重たい感情の波が広がっているように思われた。
「一言では言えぬ」
玲格は隠しきれない愉悦とともに続けた。
「花を摘みとり、葉をむしり、枝を折り、樹皮を裂き、根を断ち、虫を放ち、腐り枯れるまで塩水を与え、焼き尽くしてくれよう」
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