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13 守る者たち(4)
犀遠は、嬉々とした色が見え始めた玲格の面から、目を離さなかった。
この男は、本当にその通りのことをするだろう。
犀星が大切に思うものを、一つずつ目の前で奪い、苛むであろう。
それはもう、玲格の心の崩壊と同様に、とめることのできない現実となっていくのだ。
「正躬。おぬしは、そこまで堕ちたか」
寂寥と後悔は、犀遠の声を震わせた。
玲格の目が、異様に輝く。犀遠の見せた動揺は、玲格の精神に享楽すら与える。
「どうだ、侶香よ。おぬしも共に見ぬか? |心《しん》に取り憑いた悪しき芋虫が炎の中でのたうつ姿は、さぞ胸がすくであろうぞ!」
ゾッとして、何人かの兵士が身を震わせた。
犀遠は心の乱れを押し殺した。そして、まるで、最後を告げるかのように、ゆっくりと問いかけた。
「おぬしは、その芋虫が、蝶ととして飛ぶ様を見たいとは思わぬか?」
「笑止!」
玲格の鋭い声が飛んだ。
「きさまも陽と同様、あの虫の毒にあてられたと見える」
犀遠は心に波風が立とうとも、平生を貫いた。相手の挑発に乗って冷静さを欠くほど、彼は若くはない。
「生かしておいても、害にしかならぬ」
その言葉は犀遠への敵意であると同時に、兵士たちへの命令でもあった。兵たちが、一斉に刀を構えた。
「待て!」
一括でその場の空気を変える、よく通る声が響いた。
犀遠はわずかに口元を緩めた。振り返らずとも、それが何を意味するのか、彼にはわかっていた。
正殿の入り口に、燕涼景が立っていた。
犀遠の前に進み出て、涼景は毅然として玲格を見下ろした。
「玲正躬! 玲子芙様の命により、帝の名をもって、貴殿を断ずる!」
響き渡ったその布告に、兵士たちはどよめきたった。後には退かぬその決意は、涼景の強い眼差しが物語っている。
「なるほど。はかったか」
玲格が小さくつぶやいた。
「正躬よ」
犀遠は静かに立ち上がると、静かに呼びかけた。
「かくなる上は、帝の意に反しても戦う必要はあるまい。おぬしがこれ以上、伯華や光理に関わらぬというのなら、命までは取らぬ」
その言葉は、犀遠がかつて慕った玲格に手向けた、最後の温情であった。
「帝が何する者ぞ。我が意志は強固なり」
玲格は、一切の感情を捨てた面持ちで、二人の来訪者を見つめた。
静かな嘆きの景色が、犀遠の面に浮かぶ。もう、玲格を救うことはできないのか。
その時、廊下の方からばたばたと慌ただしい足音がして、入り口から軽装備の伝令が駆け込んできた。
「おそれながら申し上げます!」
大きく礼儀を欠いていが、伝令がもたらした情報は、そのような無礼も容認されるべきものであった。
「先ほど、犀家領内にて、子衡様のご遺体が発見されました」
玲格は表情を動かすことはなかった。
「お身体には浅い傷がございましたが、致命傷には至らず。傷口の変色により、毒により絶命されたものと見受けられます」
その知らせに、じっと玲格を見据えていた涼景の目元に、わずかに影がさす。
……浅い傷……そして、毒……やりやがった。
涼景の胸で、小さな火が吹き消された。
玲格は目を細めた。どこか、ぼんやりとした、視点のさだまらない目は、それでも犀遠を見ているようである。
「犀家領内、とは。これは、いかなることか?」
玲格は息子の死を悼むより、敵の弱みを得たことに満足を覚えているようだった。
犀遠は何も言わない。
玲家本家の人間である玲博が殺された。それも、現在、敵対している犀家の領地内で起きたこととなれば、玲家にも、犀家を討つ名目が備わったこととなる。
「生きて帰すな」
玲格の号令は、その場の全員の運命を、一つの方向に押し流す。
涼景は刀を抜いた。そのまま一気に玲格を狙う。その太刀筋に一切の迷いはない。だが、どん、という重い音と同時に、天井から格子が落ちてきて、玲格と涼景の間を遮った。
「落とし格子か!」
玲格は悠然と背を向け、御簾を潜って屋敷の奥へ姿を消していく。
行く手を阻まれた涼景の背後から、兵士たちが襲いかかる。涼景は素早く格子を数段駆け上がり、大きく跳躍して、兵士たちの背後に着地すると、身を翻して、兵士を格子際に追い詰め、立て続けに打ち据えた。鍛え抜かれた涼景の肢体は、どのような動きにも俊敏に反応し、その速度についてこられる者はいない。
後方の敵を抑えると、犀遠を背後に庇って、残りの兵士たちに向き合う。
危急を告げる鐘の音がけたたましく鳴り響いた。
刀を構えた兵たちの後ろから、弓を手にした増援が走り込んでくる。間髪入れずに放たれた矢が降り注ぐ。犀遠が咄嗟に衝立を蹴り上げて盾にし、涼景もそこへ転がり込んだ。矢が衝立の向こうに刺さる音が途切れると、涼景は衝立の陰から飛び出し、身を低めて正殿の入り口まで突進する。そのすぐ後ろを、犀遠が続く。四方八方から振り下ろされる刀を、涼景は駆け抜け様に弾き、押し返し、薙ぎ払った。その気迫は戦場を駆ける虎の如くしなやかで、緋色の衣がはためき、舞うかのごとく軽やかだ。暁将軍、燕涼景の真価はここにある。
予想以上の動きに、兵士ばかりか、犀遠までが息を呑んだ。まさに、考えるより早く体が反応する涼景の身のこなしは、誰も寄せ付けはしない。まるであらかじめ全てが決められていたかのような迷いのない動きで、正殿の入り口までもう一息、というところまで前進する。と、一人の兵士の行動が目に入った。
「くっ!」
何が起きるか察しはしたが、兵士に駆け寄る間もない。入り口と涼景たちの間に、再び、格子が落ちた。前後を格子で挟まれる形で、正殿内に閉じ込められる。格子の向こうから、弓兵たちが二の矢をつがえてこちらを狙い、引き絞る。咄嗟に涼景は犀遠の前に立った。すべての矢を受けようとも、守るべき価値のある者は心得ている。
犀遠は低く唸った。
矢が音を立てて一斉に二人に向けて放たれる。その瞬間、犀遠は涼景の体を突き飛ばした。犀遠の機転に、涼景は瞬時に応じ、床を転がって矢をかわす。飛び起きると、犀遠もまた、際どいところで直撃を避けていた。
さすがは犀将軍だ。
涼景の目が意気も高く輝いた。
刀を持たない犀遠を庇い、涼景は壁を背にして後退った。格子が遮って、剣兵の侵入はないが、弓の攻撃は長くはかわせない。このまま閉じ込められた状態が続くことは死を意味する。
そのとき、足元から微かに振動が近づいてくることに、涼景は気づいた。
馬のいななきが聞こえ、荒々しい馬蹄の音が入り口の向こうから一気に近づいてくる。
「どけぃ!」
罵声と、悲鳴。金属のぶつかる音と、重たいものが地面に叩きつけられる音。
磨かれた正殿の床を蹴立てて、一騎の騎馬が飛び込んできた。興奮した馬に何人かの兵士が蹴散らされる。
「きおったか」
思わず、犀遠は笑った。
愛弟子、玲仲咲である。
「どうして……」
正殿深くに馬で駆け込むその傍若ぶりに驚き、涼景は思わず呟いた。犀遠が微笑し、
「わしが正装で出かけたのを、不審がっていたからな。後をつけてきたのだろう」
涼景は少女の気配に気づけなかった自分の未熟を思い知る。
「凛! 格子を!」
飛んできた矢を刀で払い落としながら、涼景は叫んだ。
「任せて!」
玲凛は馬の鞍に立つと、身軽に宙を舞った。周囲の兵士が、思わずその姿に目を奪われる。桜色の薄手の袍と、紅色の長衣、帯の群青と朱色の鞘。そして、黒く長い髪。艶やかなその姿は、とても戦場には似つかわしくない。
玲凛は正面に棒立ちしていた兵士の肩を足場として踏みつけ、部屋の角の二枚の壁を交互に踏んで駆け上がり、狙いを定めて強く跳ねた。そのまま、宙吊りになっていた落とし格子の仕掛けの紐に飛び移る。その衝撃で、わずかに格子が持ち上がった。しなやかで無駄のない体術は、彼女の秀でた素質があればこそ、である。格子の隙間から、すかさず涼景と犀遠が転がり出る。
「よくやった!」
犀遠に褒められ、玲凛は年相応にニッコリと笑った。
「叔父上、鞍に!」
言われて目を向ければ、玲凛が乗りつけた馬の鞍に、門で預けた犀遠の太刀がくくりつけてあった。
「気がきくな」
またもや、玲凛は満足そうだ。
「玲格が奥へ逃げた」
太刀を構えて玲凛と並び、犀遠を背後に守りながら、涼景は言った。
兵士たちがじりじりと包囲の輪を縮めてくる。庭のほうからも、大勢がこちらを目指している気配がある。
「母上のところだわ!」
玲凛が瞬時に判断する。
「ついてきて!」
玲凛の声を合図に、三人は動いた。
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