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第3章 第1話(3)

 莉音は小さく息をつくと、そのまま玄関に向かった。台所のまえを通って部屋に戻るのは、なんとなく気が引けたからである。たとえおなじ空間にいるのではなくても、祖父とふたりきりになるのは居心地が悪い。思ったところで、こんなんじゃダメだと大きく首を振り、玄関の引き戸を思いきって開けた。途端に蝉の声が大きくなって、ムッとした熱気が全身を包みこんだ。  都心とはまるで異なる、木や草花、土の香り。  夏の暑さはあまり得意ではなかったが、せっかく外に出たのだから少し歩いてみようと家のまえの舗装道路に足を向けた。  車や人の往来はさほど頻繁ではない、ひろびろとした農道。雑木林や田畑がつづく合間に民家が点在し、喧噪や人いきれとは無縁の世界がひろがっていた。  陽射しが東京よりも強く、照り返しもきついのであっという間に汗が噴き出す。だが、山あいから吹いてくる風が、心なしか爽やかに感じられた。  どこという目的もないまま、目の前の景色をぼんやりと眺めながら道なりに進んでいく。祖父母から上京の報せを受けたとき、まさかこんなことになるとは想像もしていなかった。一か月後、二か月後の自分は、どこでなにをしているのだろう。来年のいまごろは、どうなっているのだろう。ただひたすら歩きつづけながら重苦しい溜息が口から漏れた。  このまま祖父母の許にいて、温泉街のホテルの調理場などで仕事を探す。あるいは福岡あたりの調理学校に進学する。どちらも可能な選択ではあったが、現実的とは思えなかった。なにより莉音に、この地域に腰を据える気持ちがない。  将来のこと、進学のこと、祖父とのわだかまり。  ヴィンセントとの関係がこの先どうなるのかはわからないが、まずは自分の気持ちをさだめて、祖父にわかってもらうことが先決だと思った。ヴィンセントのことを抜きにしてても、自分が帰る場所は東京にしかなかった。 「今日もあちいねぇ」  唐突に声をかけられて、莉音はビクッとした。  ふと見ると、すぐわきの畑で休憩中らしき老人がこちらを見ていた。祖父と、同年輩くらいだろうか。 「あ、こ、こんにちは……」  できるだけ地元の人と出くわさないようにと思っていたのに、考えごとをしていたせいで気づかなかった。 「あんた、武造さんとこん孫やろ?」 「あ、はい……」 「東京からイケメンが来たっち言うち、ばあさん連中が騒いどったわ」  やはりすぐにわかってしまうのだと、憂鬱な気分になった。早くこの場を立ち去りたかった。だがその直後、 「大きゅうなったなぁ。お母さんに、よう似ちきた」  しみじみと言われて、莉音は目を瞠った。 「母を、ご存じなんですか?」 「そりゃあ、よう知っちょんとも。狭え田舎やけんな。噂もすぐにひろがる。あんたんお父さんとお母さんが結婚したときも、武造さんとこん和臣(かずおみ)ちゃんが芸能人んごたる嫁さんもろうち帰っちきてん、そりゃもう大騒ぎやったちゃ」  あんたんお母さんな器量よしやったけんなぁと老人は笑った。 「みんなしち入れ替わり立ち替わり見にいっち、最初は驚いてたようだ(たまがっちょったごたる)けんども、すぐに打ち解けちくれちな。明るうて気さくで、ほんとにいい嫁さんやった」  しみじみと言ったあとで、不意にその表情が曇った。 「残念やったなぁ。まだ若かったにぃ、気の毒だった(むげなかった)。あんたも大変だった(やおなかった)ね」  心から母を偲んでくれるその言葉に、莉音は口唇を噛みしめた。

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