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第3章 第1話(2)

 そんな莉音を気遣って、祖母は町へ買い物に出る際、必ず声をかけて連れ出してくれた。  莉音が起居しているのは、かつて父が勉強部屋として使用していた和室で、いまもまだ、当時の学習机が置かれている。家の出入り口からいちばん奥まった場所にあるので、農作業や山仕事の合間に立ち寄る近所の人々の目を避け、その部屋に引き籠もっていることが多くなった。そのことを不憫に思ったのだろう。  食事の用意の手伝いはするが、やはり祖母の台所であると思うと遠慮してしまう。細かいことを気にする人ではないとわかっていても、どうしても自分の調理場ではないという意識がまさった。  ヴィンセントとの件について、祖母はなにも言わない。大分に来てからもずっと、莉音が抱えている鬱屈を、なんとなく察してくれている部分もあるのだろう。  そしてヴィンセントは、毎日必ず、メッセージを送ってくれていた。  ――おはよう。関東もようやく梅雨が明けました。いよいよ夏本番です。  日本の生活には充分慣れたと思っていたけれど、湿度の高い梅雨と夏の暑さだけは、まだ慣れないようです。そちらも今日は猛暑日という予報が出ていたので、熱中症には充分気をつけて過ごしてください。  ――暑い日がつづきますが、元気でやっていますか? こちらはここしばらく、日本独特の風習である『暑気払い』という名目での会食や飲みの席が増えました。仕事の一環ではありますが、先日行ったお店の鰻がとても美味しく、莉音にもぜひ食べさせてあげたかったです。  毎日届く、日常の他愛ない出来事を記したメッセージ。今日はゲリラ雷雨に見舞われた。取引先の会社が手がけたホテルのオープニングセレモニーに招待されて、一泊二日での北海道出張が決まった。スケジュール変更の連絡をうっかり聞き逃して早瀬に怒られた――  そして最後には必ず、莉音と祖父母を気遣う言葉が添えられている。  莉音からは、まだ一度も返信をしていない。ただ、既読をつけるだけ。それでもヴィンセントは、そのことについて責めたり、返事を催促するようなことは一度もしなかった。ただ毎日、自分の近況を報告しつづける。大分でなにをしているのかとも、帰ってくるのかとも尋ねてこなかった。けれども、送られてくる文面の行間から、ずっと待っていてくれることが感じられた。  彼は待ちつづけてくれているのだ。莉音が自分の成すべきことを見さだめ、決断を下すそのときを。  どうしてあんなに怒ってしまったのだろう。感情的になっていることは自分でもわかっているつもりだった。だが、わかっていることと、それを踏まえて対処することとはまるで違う。自分はただ、感情にまかせて癇癪を起こすことしかできなかった。ヴィンセントはきちんと先まで見据えて、話をしようとしてくれていたのに。  彼が興奮している自分にかわって、場を収めようとしてくれたことはわかる。けれどもその一方で、なぜ、莉音の大分行きを勝手に承諾してしまったのだろうと疑問に思う。最初はそのことに、ひどく腹を立てていた。だが、時間が経つにつれ、いつもの緻密な見通しのうえに成り立つ結論とは少し違う気がして、それが気になった。  ヴィンセントは、どうしてあのとき、あんなことを言ったのだろう。そしていま、なにを考えているのだろう。  風呂掃除を終えた莉音は、廊下に出たところで、ちょうど畑から戻ってきた祖父とバッタリ遭遇した。 「あ……、えっと、お帰り、なさい……」  顔を合わせるのが気まずくて、視線を床に落とす。 「お風呂、洗ってあるから」 「ああ」  祖父もまた、言葉少なに答えて莉音のわきを素通りし、台所に入っていった。冷蔵庫のドアを開けて、製氷機の氷をグラスに入れている音がする。祖母は先程、近所の顔馴染みの家に行くといって出ていったところだった。

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