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第1話 プロローグ
剣の音が、庭に響いていた。
青々とした芝生踏みしめながら、少年は兄たちと対等に剣を交えていた。額には汗が滲み、頬には土がついている。けれどその瞳は、真っ直ぐだった。
エリス・ラナ=ヴァルティア、十二歳。
この日も、三人の兄たちと共に訓練をしていた。
父は海軍の大佐。寡黙だが威厳に満ちたその背中に、エリスは憧れていた。
──僕も、いつか軍人になって、国を支えたい。
そう信じて疑わなかった。
だが、運命は静かに裏切る。
剣を構えたまま、ふいに視界が揺れた。
頭がふらつき、呼吸が妙に苦しい。
踏ん張ろうとした足に力が入らない。
「……なんで……?」
崩れ落ちるように膝をついた瞬間、兄たちが一斉にこちらを見る。
「エリス……お前、まさか……」
そこで意識が途切れた。
*****
目を覚ますと、自室の見慣れた天井だった。
視線を下ろすと、ベッドの脇には、医師。そして、父と母。
「……父上、僕は……どうしたんですか?」
父は無言で数秒エリスを見下ろし、それから冷たく静かに言い放った。
「発現したんだ」
そして一拍。
「お前は──オメガだ」
時間が止まった気がした。
言葉の意味が、脳に染み込んでいくたびに、心が冷えていく。
「え……」
ヴァルティア家は、アルファの血を誇りとする軍人の家系。
一族に、オメガは一人もいない。いてはならない。
父の目が、軽蔑にも似た色を宿す。
「まさか我が家からオメガが出るとはな……」
咄嗟に、母を見た。
けれどそこにあったのは、いつもの優しさではなかった。
哀しげな、でもどこかよそよそしい表情。
「落ち着いたら荷物をまとめろ。寮に移す」
まるで、ただの物を運ぶような口調だった。
──捨てられる。そう思った。
「なぜですか……?今日は倒れてしまったけど、これからは気をつけます。訓練も、勉強も、ちゃんとやります。僕、軍人になりたいんです……!」
必死に縋るように声を出す。
父は、感情を見せなかった。
「オメガ性は、我が家の汚点だ。陰で活躍できる場へ行かせるだけ、感謝しろ」
そのまま静かに、しかし無慈悲に背を向けて部屋を出た。
「……母上……」
残った母に呼びかける。
母は、泣きそうな顔をして、短く呟いた。
「……ごめんなさい、エリス」
そしてそのまま、何も言わずに扉を閉めた。
エリスは部屋で一人きり。
頬をつたう涙の熱が、妙に残酷だった。
*
数日後、何も告げられないまま車に乗せられた。
家族は誰一人、見送りに来なかった。
ただ、遠くで、兄たちがこちらを見ていた。
その表情は、哀しみか、戸惑いか、それとも軽蔑か。分からなかった。
「……さようなら」
車窓から見える家が、どんどん小さくなっていく。
エリスは、最後まで目を逸らさなかった。
*
案内されたのは、色任務課の寮だった。
諜報員のほとんどがオメガ。潜入と色仕掛け、心理誘導に特化した者たちが集う場所。
本来十三歳から入隊可能なはずのそこに、十二歳のエリスは“特例”として放り込まれた。
海軍大佐である父が手を回していた。
制服もない。階級もない。ただ、用意された寝具と簡単な訓練メニュー。
“個人”としての価値だけを試される日々の始まりだった。
「……僕は、ここで生きる」
かすれた声でそう呟いた時、
その翡翠色の瞳の奥に、決意が宿った。
軍人になれなくても。
父に認められなくても。
この命に意味を与えるために──
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