45 / 45
第38話 裏切りの影
リューネス王国の外交任務を終え、グラント中将の隣で新たな任務書類に目を通し、通常業務へと戻る日々──
しかし、エリスは遠征報告書の束を整理している中で、ある“異常”に気づく。
それは、いくつかの遠征先で奇妙な共通点があったことだった。
兵の配置、襲撃のタイミング、地形利用の誤認……
まるで誰かが“内部から”情報を流しているような痕跡。不審に思ったエリスは、独自に調査を進めていった。
「……これは、アイゼンコマンドの中に敵がいる」
そう確信した矢先、エリスは一人の中将の執務室に呼び出される。いつものように報告を持参して扉を叩いた、その瞬間。
「呼び出して悪いな、ヴァルティア中佐」
重く冷たい声とともに背後から意識を刈り取られる。
目を覚ましたそこは、薄暗く冷たい、密閉された金属の部屋。エリスは全身を拘束具を嵌められた状態で寝台の上に固定されていた。
──敵国・ノールの秘密軍事基地研究所。
かつて戦火を交えた国。その拠点に、彼は“奪われた”。
始まりは、皮膚の外から流される特殊な電磁波だった。
こめかみに押し当てられた細く尖った装置。外部から遠隔操作された機械が作動するたびに、頭の奥が焼けつくような激痛が走る。
「ぁぁぁあぁぁあああああぁぁあ!!」
叫び声が部屋に響き、視界が白く染まる。
思考が破壊されていく。
だが、それでもエリスは必死に自我を保とうと、奥底で叫んでいた。
(僕は……僕は……!)
「さすがヴァレオンが誇る戦闘部隊員だな。これでもまだ保つとは…」
ガラス越しにそれを観察するノールの研究員が、面白そうに唇を歪める。装置は何度も何度も電磁波を放ち、エリスの神経回路に“異物”を流し込んだ。
目が虚になっていく中、それでも──
「……チッ。しぶといな。明日には使えるようにしたいんだが……おい、直接埋め込め」
そう命じる声が遠くから聞こえた。
再び装置が起動する音。
金属音と操作音。
エリスのこめかみに、今度は皮膚を小さく切開して直接チップが埋め込まれた。
「起動しろ」
「──あああああっ!!あぁああああぁぁぁあ!!」
起動された神経装置から脳内に直接命令が流れ込み、視界が暗転する。断末魔のような絶叫を最後に、意識がブラックアウトした。
静寂の中。
闇の底で、声が囁く。
『ノールの潜入諜報員、エリス』
『貴様の任務だ。ヴァレオン王国の新型兵器データを奪取せよ』
その声に従うように、何かが脳の奥で切り替わる感覚。命令と義務が書き換えられ、記憶が上書きされていく。
そして──
目を開いたエリスの瞳から、“色”が消えていた。ヴァレオンの国を思い、立派な軍人になろうと諦めない、あの鋭く炎の燃えるような視線はもうない。あるのは、命令を実行するただの機械、冷たく無機質な眼差しだけ。
ヴァレオン王国の、エリス・ラナ=ヴァルティア。忠誠と誇りを胸に戦っていた男は、ここで失われた。
彼は、“ノールの兵”として、再びヴァレオンへと戻ることになる。
*****
昨夜、エリスの姿が見えなかった。
「……どこ行ったんだ」
深夜の兵舎を一通り周ったグラントだったが、結局その気配を見つけることはできなかった。
だが、翌朝。
エリスは何事もなかったかのように、自室から出てきた。
整えられた制服、無表情ともいえる落ち着いた顔つき。
いつも通りの時間に、いつも通りの足取りで執務室へ向かっていく。
(──気のせいだったか?)
そう思おうとした。
だが、何かが違った。
「任務報告書、こちらにまとめました」
提出された資料は完璧。仕事上での一線を置いた態度もいつもと同じ。
けれど──
夜。
執務を終え、二人きりの時間になっても、その表情は崩れなかった。
「疲れてるのか?」
「いえ」
そっけない返答。声に温度がない。ただそれだけの言葉に、心が遠ざけられていくような感覚がした。
また次の夜も。
抱き寄せるようにして、唇を重ねた瞬間。
(──匂いが、しない)
エリスからは、何も感じなかった。
いつもは、たとえ発情期でなくても、キスをすれば体温が上がり、柔らかい甘い香りがふわりと広がった。春の陽だまりのような優しさに、蜜のような濃い色香が滲んでいたはずだった。
それが、ない。完全な無臭。
(……そんなはずがない)
グラントは、彼の匂いで気持ちを読み取っていた。嬉しい時も、恥ずかしい時も、嫉妬している時も。彼のフェロモンは、彼の“心”を雄弁に伝えてくれていた。
だが、今。目の前にいるエリスは、まるで感情のない人形のようだった。
「エリス……」
もう一度名を呼ぶ。その目がこちらを見る。
けれど──そこには何の揺らぎもない。
光のない瞳が、ただこちらを“視認している”だけだった。冷たい感覚が背筋を伝う。
目の前の男は、“エリス”じゃない。
*
グラントは、静かに動き出した。
その異変が本物だと確信した瞬間、迷いはなかった。だが、その調査は、密かに行わなければ。
「……クローネ」
執務室の扉を閉め、周囲の視線が届かないことを確認してから、声をかけた。書類を手にしていたクローネ・アストレアは、その声の温度でただならぬものを察する。
「……何があった」
「エリスの様子がおかしい。……ここ数日で、確信に変わった」
簡潔に、だが確実に。エリスの“匂いがしない”こと、感情の反応が完全に欠落していることを伝えると、クローネの表情が険しくなる。
「上には?」
「まだだ。お前だけに話す。誰にも、気付かれるな」
「了解した。全力で協力する」
グラントは即座に調査を開始した。ただし、水面下で。
軍の正式な命令や監察部の動きを借りるわけにはいかない。まだ、これは“疑念”の範疇を越えていない。
グラントはエリスが不在だった日から最近までの行動履歴を追った。基地の入退出記録、内部資料の閲覧ログ、連絡履歴、接触していた上官たち──
そして、浮かび上がったのは、異常な閲覧件数。
エリスが、極秘指定の“特殊戦闘部隊用兵器”関連資料に何度もアクセスしていた。しかも、それらの一部は閲覧許可を持たない者には開示されないはずの機密だった。
(なぜ、許可なしで……)
さらに、閲覧直後にアクセスログの改ざんが試みられていた痕跡まで残っていた。情報に触れたことを隠す意図がある。それは、本人の意思でなければ行えない操作だった。
そして、最も不自然だったのは──
エリスがその直前、特定の一人の上官と、何度も個人的な接触をしていたこと。
(……ライナー中将)
対外諜報との関係を持つ軍内でも屈指の古参将校。
誰もが名を知る存在であり、かつてはダグラス元帥と並び、訓練兵時代から国家の礎を支えてきた英雄の一人だった。
彼の名が、記録の中で何度も登場する。それは偶然ではないはず。
真相にたどり着くには、まだ証拠が足りない。だが、グラントの中で警鐘は確実に鳴っていた。
エリスを取り戻すだけでは終わらない。
この裏にある“腐った根”を掴まなければ──
グラントの目は、鋭く光を帯び始めていた。
ともだちにシェアしよう!

