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第1話
「好きな香りはありますか?」
アロマオイルを扱う店に行くとよく尋ねられる。だけれどその問いにきちんと答えられたことはない。
なぜかと言えば、ボクの好きな香りはたったひとつ。それはアロマオイルとして抽出できない好きな人が放つ香りだから──。
首都高・谷町ジャンクションを見下ろせる三十階建ての高層ビル。その二十階にある新興の広告会社に勤める二十四歳になったばかりのボク、逢沢季羅 は社会人二年目を迎えた。
大手の広告会社の内定を蹴ってまでこの会社に入ったのは理由がある。それはこの会社を立ち上げた人が憧れのコピーライターだからだ。
アロマセラピストの母を持つボクは小さいころから香りに敏感だった。自然の香りから香水の人工的な匂い、そして人の体臭まで瞬時に嗅ぎ分けることができるのはもはや特殊能力と言ってもいいかもしれない。母も仕事柄、香りには気を使っているようで、香水の新作が発売されるとたびたびデパートへボクを連れて出かけた。そのときコスメ売場で見かけたハイブランドの香水のキャッチコピーとの出会いが、いまの仕事に就いたきっかけだった。
シックなカラーで統一された売場に海外のモデルの煌びやかな写真とシンプルなキャッチコピーの入ったポスターは誰もが目を奪われただろう。
──吐息まで香る、フレグランス
どんな香りなのだろうと、子供ながらに胸がドキドキとした記憶が頭のなかに一瞬でこびりついた。
大学へ入ると広告業界のいろはを学び、このコピーを書いた人がどういう人かということも理解した。彼の著書はすべて読み、携わった広告にはすべて目を通した。もしかするとそのコピーライターのマニアともいうのかもしれない。マニアでファン、そしていまは上司となった。
ボクの上司で社長の横峰明日哉 は三十歳で最大手の広告代理店を飛び出し、この会社を設立した。それから三年で初めての新卒としてボクを採用。憧れの人が設立した会社へ入社したものの、社長の明日哉さんは想像していていたよりも態度は冷徹で仕事に対して非常に厳しい人だった。それくらいではないと会社は成り立たないのかもしれないけれど、入社当時はこの会社を選んだことを後悔したくらいだ。
でもいまは違う。毎日、出社することが楽しみで仕方がない。
仕事はもちろんのことだけれど、彼に会いたいからと言っても過言ではないだろう。しかしそれは会いたいということ以上に「嗅ぎたい」という行動がそう思わせているというのが正解かもしれない。
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