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第5話 男唇の失守――この男は、まだ何も知らない
梅雨の晴れ間、紫陽花が濡れた風にそよぐ。
青や紫、薄紅の花が道の両側に咲き誇る。
「わーっ!」
無邪気な声が響く。
「待てーっ!」
相馬は、小さな背中を追いかけながら、紫陽花の小径を駆け抜けた。
子供のように笑った。無邪気な笑みが、彼の頬の無精髭を和らげた。
「ねぇ、これ変なの!」
少女が立ち止まり、一輪の花を指さした。
「なんで、いろんな色が混ざってるの?」
相馬が覗き込むと、青、紫、淡いピンクが微妙に混ざり合い、不思議なグラデーションを作っていた。
「ほんとだ、不思議だな」
相馬はしゃがみ込み、じっと花を眺める。
「紫陽花って、毎年違う色になるんだよ」
少女はきょとんとした顔で相馬を見つめる。
「へぇ……じゃあ、前は何色だった?」
相馬は、指でそっと紫陽花の房をなぞる。
気づけば、色が変わっている。それなのに、変わる瞬間はわからない。
(――いつの間に、こんなふうに変わるものなのか)
(俺は変わったのか?それとも、気づいただけで変わった気になってるのか?)
ふと、久住の指が触れた感覚が、肌に蘇る。
冷たく、それでいて熱を帯びた指先。
(……あれも、俺の中の何かを変えたのか?)
そのとき――
「もう、二人とも、はしゃぎすぎよ」
透き通るような声が割り込んだ。
振り向くと、小道の向こうに、女性が立っていた。
ここは、かつて恋人だった彼女とその娘と訪れた場所だった。
「ほら、走り回ったら危ないわよ」
少女は「えへへ」と笑いながら、相馬の背中に隠れる。
相馬も、肩をすくめた。
「お前も相変わらず、世話焼きだな」
「そりゃそうよ。母親だからね」
相馬は鼻を鳴らす。
「しかし……お前、髭はこんなに生やしてるのに、中身は変わらないのね」
「うるせぇよ」
「無駄に渋いのに、無邪気さを保てるって、ある意味すごいわね」
「ほっとけ」
彼女は懐かしそうに微笑む。
「ねぇ、相馬。紫陽花って、いつ見ても違う表情してるのよね」
「は?」
「あなたも、紫陽花みたいに、変わっていってるんじゃない?」
「……俺が?」
「うん。すごく強そうに見えて、実は環境に影響されやすい」
「あなたって不思議なのよね。強く見えるのに、誰かに寄りかかるのが好きでしょう?」
「っ――」
相馬は、一瞬、言葉を失った。
――診察台の上、脱力したままの自分。
――触れられ、導かれるまま、何も考えなかった。
(――俺は……そんなもの、必要としてたか?)
紫陽花の花びらが風に揺れる。
相馬の心の揺れを映すように。
「……ねぇ、相馬。今度はあなたが、自分で自分を支えてあげなきゃいけないんじゃない?」
相馬は、ただ唇を噛みしめた。
「そういうところ、昔から変わらないわね」
「子供みたいに、無邪気で、感情が素直で」
「一緒にいると、楽しい」
「そりゃあ、俺は悩んでるより、笑ってる方が楽しいしな」
相馬は肩をすくめ、軽く笑う。
ふっと風が吹き抜ける。
彼女は、笑いながら、空を仰いだ。
「でも、ある時気づいたの。……あたしが求めてるのって、ちょっと違うなって」
「それだけじゃ、恋人としては足りなかったの」
「私が必要だったのは『自分の道を自分で切り開ける人』だった」
「だから、あのとき『相馬じゃ足りない』 って、気づいちゃったのよ」
相馬は、口を開こうとした。しかし、何も言えなかった。
彼女は微笑む。
「紫陽花は、変わる。でも、それが紫陽花であることに変わりはない」
「変化することは、悪いことじゃないのよ」
目の前に広がる紫陽花の花々。
そこに、診療台で見上げた久住の姿が重なった。
(俺は変わったのか……?)
(それとも、これが本当の俺なのか?)
「ねぇ、ママ!」
少女がぱたぱたと駆け寄り、母親のスカートの裾をぎゅっと握る。
「紫陽花って、どこが本当の色なの?」
その言葉に、相馬は息を呑んだ。
彼女は微笑みながら、少女の髪を撫でる。
「さぁ、どの色も本当なんじゃない?」
少女はぱっと笑顔を見せる。
「そっかぁ!じゃあ、相馬くんも?」
少女の無邪気な問いに、相馬は答えられなかった。
彼の頭の中では、まだ、あの言葉が渦巻いていた。
――「ちゃんと、自分の本音に向き合ってる?」
紫陽花の葉が揺れる。
空が、遠く霞んで見えた。
「……待て」
声が、喉の奥で勝手に漏れた。
久住の足が、ピタリと止まる。
「……俺が探しているのは、お前じゃない」
冷えきった声だった。
その瞬間、心臓が鋭く締めつけられた。
(……なんだ、この感覚は?)
怒りか、それとも――
傷ついたのか?
「……何で……」
自分でも、何を確かめたかったのか分からない。
何を言いたかった?
「何で、俺じゃない?」
問い詰めるような視線を向ける。
久住は、一瞬だけじっと相馬を見つめ――
やがて、わずかに目を細め、口角を上げた。
「お前が望むのは、自分か?」
「っ……!」
喉が詰まり、息が止まる。
久住の目が、奥の奥まで見透かすように刺さる。
「……どうした?」
「忘れられないの?」
低く、静かなのに、耳にじりじりと焼きつく。
「……っ、違う……!」
即座に否定した。だが、その声は、なぜか決定的な響きを持たなかった。
視線を逸らす。
それでも――
(……なんで、動けねぇんだ……)
気づけば、久住の手を見ていた。
細く、しなやかで、美しい指。
鍛え上げられた武骨な手ではない。
だが、その指が肌の上を這う光景を想像してしまい――
(……っ、何を考えてるんだ、俺は)
その瞬間、久住の指が微かに動いた。
(……!)
思考を読み取ったかのように、ゆっくりと手を持ち上げる。
――触れようとするかのように。
(やめろ……)
反射的に、一歩後ずさった。
「……おや?」
久住は、薄く微笑みながら、一歩、相馬に近づく。
「こんなに大きな体で、まさか俺を怖がってるの?」
目が、じっと相馬を捉える。
「――それとも、触れられるのが怖い?」
低く落とされた声が、皮膚の奥まで染み込む。
相馬は歯を食いしばる。
「……そんなわけ、あるか」
「じゃあ――」
久住の指が、ゆっくりと宙を切る。
触れる寸前、一瞬だけ軌道が揺らいだ。
――そして、刺すように押し込まれた。
「この筋肉も、飾り?」
瞬間、全身に電撃のような熱が走る。
「――っ、くそっ……!」
指先が触れた場所から、じわりと熱が広がる。
それは、久住の指がただの皮膚ではなく自分の奥深くに触れたようで――
「っ……やめろ!!!」
衝動のまま、久住の身体を強く突き飛ばした。
(――やっちまった!)
久住の身体は、勢いよく弾かれ、そのまま地面へ倒れこんだ。
「っ……!」
相馬は、反射的に駆け寄った。
(……そんなつもりじゃなかった……!)
倒れ込んだ久住に、思わず手を差し出した。
――だが、久住はその手を取り、確かに握り込むと、そのまま相馬を引き寄せた。
次の瞬間、二人の胸が、ぴたりとぶつかった。
「……っ」
一瞬、世界が静止したようだった。
鍛え上げられた胸板に、別の男の体温がまとわりつく。
肌が吸いつくように密着し、滲む汗が熱の膜をつくる――。
――離れられない。
それは、肌を通して侵食し、奥深くへ染み込んでいくようで――。
(なんだ……この感覚……)
心臓が異常な速さで跳ね上がる。
不快なはずなのに、拒絶しなければならないはずなのに、
この温もりを意識するほど、奇妙な感覚が全身を支配する。
筋肉の隆起が、密着するたびに微細な変化を繰り返す。
何かが目覚めようとしているように――。
汗が、肌の隙間で絡み合う。
その熱が淫靡に染まり、羞恥が一気に襲いかかる――。
相馬の両手は、宙を彷徨った。
伸ばせば届く――久住の腰。
支えられる。触れることもできる。
――だが、それが許されるはずがない。
触れた瞬間、きっと何かが崩れる。
ざわめく心が熱を生み、滲む汗が手のひらにじっとりと張り付く。
相馬は無意識に、大腿を掴むように指を食い込ませた。
あるいは、短パンの布地を強く握り、滲む熱を必死に押さえ込む。
それはまるで――己を繋ぎ止める最後の理性。
(……落ち着け……こんなの……)
だが、久住はすべてを見透かしていた。
「……へぇ」
わずかに笑い、さらに重心を預ける。
相馬の胸へと押しつけられる熱。
ぎしっ…… 筋肉が軋む音が響く。
相馬の胸板に、確かな圧力がかかる。
――だが、相馬は逃げなかった。
それどころか、無意識に胸を張り出す。
押し寄せる久住の重みを――迎え入れるように。
熱を持つ、己の胸筋。
ずっと閉じ込められていた何かが、目覚めるように疼く。
まるで、獣同士の威圧。
相反する力がせめぎ合い、密着する肌が熱を帯びる。
たった数秒。
それなのに――
(……長い……。くそ、長すぎる……!!)
引き延ばされた時間。
一秒が、一万年のように思えた。
脳裏で警鐘が鳴る。赤く、鋭く。
(……離れろ……!さもないと――)
久住の熱が、骨の髄まで蝕んでいく。
このままでは――俺は壊される。
耳元で、低く、静かに囁かれる。
「……どうした?もう俺を突き放さないのか?」
「もしかして――惜しくなった?」
相馬の鼓動が、爆ぜた。
その瞬間、囁きがさらに深く、核心を撃ち抜く。
「――でも、お前の胸は正直だな」
「……っ!!?」
理性を焼き尽くすような、一言。
それが何なのか、相馬は決して認めたくなかった。
(ふざけるな……!俺は……!!)
羞恥と怒りが入り混じり、衝動のままに後ずさる。
「っ……!」
だが、許されるはずがなかった。
久住が相馬の肩を掴み、そのまま壁へと叩きつける。
背後に硬い衝撃――「っ……!」
鈍い音が響く。
逃げ場は、ない。無意識に拳が強張る。
……近い。熱い。
交わる吐息が、熱を孕む。
動けない。力が入らない。
なのに――違和感が、ない。
(……この感覚は……?)
久住の目が、獲物を値踏みするように細められる。
次の瞬間、ゆっくりと、相馬の肩を撫でた。
「いい肩だな……」
久住は品定めするように呟く。
指先でゆっくりと確かめるように肩をなぞった。
鎧のように張り詰めた三角筋。
無駄のない鋼のラインが、肩から腕へと研ぎ澄まされる。
男の象徴たる肩。
久住は、笑みを浮かべながら指で撫でるように弄ぶ。
「こういう肩は、女にはたまらないだろうな?」
「安心感があるし、頼れる男の証みたいなものだ。」
「数え切れないほどの女を、この肩に乗せてきたんじゃないか?」
相馬の肩が、一瞬、跳ねる。
久住は、その反応を愉しむように言葉を重ねた。
「でも――男の誇りも、今は俺の掌の中だ。」
指が、肉を抉るように沈む。
その感触が、相馬の奥底にまで響いた。
「どうだ? こんなふうに弄ばれる気分は。」
「お前の大切な誇りが、俺の手のひらで弄ばれてるんだぞ?」
久住の手は、肩から鎖骨へと流れ、喉仏をなぞるように滑る。
指先が、無言で、確実に相馬の感覚を奪っていく。
「……悔しいか?」
「俺みたいな華奢な男に――こんなふうに好き勝手触られて?」
そう囁き、久住は指先で相馬の顎を容赦なく持ち上げた。
「……なのに、どうして。」
「そんなに荒い息を吐いてる?」
「っ……!!」
相馬は思わず喉を詰まらせた。
後頭部を壁に叩きつけるように、必死に逃れようとする。
――だが、逃げ道など、最初からなかった。
(終われ……終われ……終われ……!!)
(早く終わってくれ……!!)
――なのに、俺はまだ、ここにいる。
――抵抗すら、していない。
もっと……深く、もっと……強く。
(……どうして……身体が……)
――そのとき、脳裏に鮮烈な錯覚が焼きついた。
久住のもう片方の手が、ゆっくりと相馬の腹筋をなぞる。
その硬さを測るように、指先が滑る。
最初は撫でるように、そして次第に、指に力が込められ――
爪がわずかに食い込み、指が沈み込む。
(っ……!)
次の瞬間――
タンクトップの裾を、久住は迷いなく掴んだ。
思考が追いつく前に、勢いよく捲り上げられ――
いや、それだけでは終わらない。
久住の手はさらに布地をたぐり寄せ、引き裂くように剥ぎ取る。
――一瞬にして、鍛え抜かれた胸板が曝け出された。
鋼のような筋肉が、冷気に晒され、僅かに収縮する。
それすらも、久住の指は正確に拾い上げた。
触れるや否や、ためらいなく深く指を食い込ませる。
たわみながらも弾力を返す、男の厚い胸板――。
掌では抱えきれない膨らみを確かめながら、久住はふっと微笑む。
「……こんなに硬いのに、こんなにも脆い」
――瞬間、悪夢から目が覚めた。
久住は、何もしていない。
触れてなどいない。
剥ぎ取られてなど、いない。
――なのに。
幻想の名残が、肌に震えを残していた。
(……何を、俺は……っ!!)
――その様子を、遠くから静かに見つめる影があった。
視線の先――そこに広がるのは、信じがたい光景。
ジムの壁際。
そこでは、一人の大柄な男が、年下の華奢な男に追い詰められていた。
――いや、普通なら、その構図はあり得ない。
相馬昴。
このジムで彼の名を知らない者はいない。
屈指の実力者であり、その肉体はまさに鍛え抜かれた鋼。
その全てが、「強さ」と「精悍さ」の象徴だった。
だが、今――
その相馬が、壁を背に立ちすくんでいる。
身じろぎ一つせず、目の前の男に圧倒されている。
まるで、獲物。
――捕食者と、捕らえられた獣。
なぜだ。
あの華奢な男は、一体――何者だ?
(……どういうことだ?)
あれは――「圧されている」のだ。
相馬の身体は、たしかに動かない。
しかし、それは決して無理やり拘束されたからではない。
むしろ、自ら身体を委ねているように見える。
相馬の腰が、わずかに前へと突き出されていることに気づく。
相手の体温を求めるかのように。
筋肉に刻まれた汗の筋が、ジムの照明を反射しながら流れ落ちていく。
さらに、視線を上げると――
相馬の顔が、紅潮していた。
健康的な小麦色の肌に滲む、わずかな赤み。
羞恥か、それとも――昂ぶりか。
そして、相馬の唇が、わずかに開いた。
浅く、荒い呼吸が、震えるように漏れる。
(……っ!)
男同士なのに。
あんなに男らしいのに。
相馬昴が――獲物になり得るのか?
年下の男の指先が、相馬の肩をなぞる。
わずかに爪を立てる仕草。
その瞬間、相馬の喉が震えた。
――細い指が、たったそれだけで。
あの屈強な肉体を、意のままにしている。
ありえない。
だが、目の前の光景は、紛れもない現実だった。
気づけば――
胸の奥が、ざわめく。
喉が渇くような感覚が、ゆっくりとこみ上げる。
無意識に、手のひらが熱を帯びる。
(……なんだ、これ……)
ジムの喧騒が遠のく。
音が消え、世界が静まりかえる。
目の前の光景だけが、鮮明に焼き付いていく。
そして――
その人物の心の奥で、何かがゆっくりと目を覚ました。
至近距離。
「……やめろ」
そう言うつもりだった。
――だが、絞り出した声は、まるで喘ぎだった。
「……は……ぁ……もう……」
それは、聞く者によっては、懇願にも聞こえたかもしれない。
飢えた躯が、満たされることを求めるように――。
久住の目が細められる。
その視線には、ぞくりとするほどの愉悦が滲んでいた。
次の瞬間、久住の顔がすっと沈み込む。
深く、相馬の胸に顔を埋める。
「っ……!!?」
圧倒的な密着感。
そして、そこから立ち上る濃密な雄の匂い。
「……はぁ……」
久住の鼻先が、逞しい胸板の間を彷徨う。
汗と熱が入り混じる肌を、貪るように、ゆっくりと嗅ぎ回る。
(なっ……!? こ、こいつ……何を……っ!!)
相馬の全身が、弾かれたように震えた。
――だが、逃げられない。
それどころか、久住が嗅ぐたびに、くすぐったいような、妙に痺れる感覚が体を駆け巡る。
「っ……!」
気づけば、相馬の肩がわずかに揺れていた。
撫でられるのを待つかのように――いや、わずかに震えていた。
(違う……!)
なのに――
相馬は、無意識に両腕を折りたたみ、軽く久住の胸元を押した。
だが、それは拒む力ではなく――
包まれることに怯えるようで……けれど。
(……俺が……こんな……)
「――可愛いですね」
耳元で囁かれた途端、顔が真っ赤に染まった。
「っ……!!」
誰かの視線が、肌に突き刺さるような気がした。
羞恥が脊髄を焼くように駆け抜け、喉が震えた。
「……や……め……」
言葉にならない声が、唇から零れ落ちる。
「ふぅん」
久住の指が、相馬の顎をすくい上げる。
「じゃあ……」
親指で、ゆっくりと唇を撫でる。
「……舌を出してください」
「っ……!!?」
相馬の目が見開かれた。
何を言っているのか、わからない。
――いや、わかりたくなかった。
だが、久住の指先は、無理やり唇を開かせた。
そして――
「っ……!!」
抵抗する間もなく、久住の唇が、相馬の唇を塞いだ。
――思考が、一瞬、空白になる。
触れた瞬間、思考が硬直する。
(男に……キスなんて……っ)
違う。
こんなはずじゃない。
なのに――。
温かく、柔らかい感触。
女性の唇とはまるで違う。
甘やかすような柔らかさはない。ただ、絡みつく熱と、抗えない圧だけがあった。
――逃げなければならない。
なのに、身体がまるで命令を聞かない。
気づけば、相馬の手は久住の胸元を掴んでいた。
力を入れれば、すぐに引き剥がせるはずだった。
(なんで……俺は……)
羞恥も、罪悪感も、すべてがどこか遠くへ押しやられる。
今、相馬の中にあるのは、ただ――このキスの感触だけだった。
男の唇は、思っていたよりも熱い。
いや――こんな温度を、俺は知っているはずがない。
熱が骨の奥まで染み込んでいくような――いや、深く刻み込まれていくような感覚。
自分が、知らない世界に引きずり込まれていく――そんな錯覚すら覚えた。
――くちづけが、ゆっくりと離れる。
久住の顔が、すぐそこにある。
相馬は、一瞬、呼吸の仕方を忘れた。
何かを言わなければならない――そう思うのに、声が出ない。
何を言っても、取り繕えない。そう悟った。
睨むことしかできなかった。
久住は、じっと相馬を見つめ――くすりと笑う。
「もっと素直になれ、相馬昴」
相馬が言葉を探すより早く、久住は身を翻した。
遠ざかる背中を見つめながら、ふと、脳裏にあの紫陽花がよぎる。
(紫陽花の色が変わるように、俺も……変わっていくのか?)
背中から、一言だけ、冷ややかな声が落ちる。
「――舌を出さなかった罰、覚悟しておけ」
灼熱の視線が、最初からずっと、この光景を見つめていた。
あの細い男が去った後も――
ただ一人、壁際に立ち尽くす相馬昴の姿を、凝視し続けていた。
(……なぜ、動かない?)
あの男が去った今も、微かに震えている。
隆々とした胸が、かすかに上下する。
だが、それは単なる呼吸の動きではない。
満たされぬ何かを訴えるように――。
(……あの相馬昴が、こんな顔をするのか)
ジムで最も屈強な肉体を持つ男。
その男が、今は何かを失ったように、ぼんやりと壁にもたれ、わずかに開いた唇から荒い息を漏らしている。
目を伏せながら、指が無意識に胸元を這う。
ほんのわずか、掠める程度の触れ方。
――それなのに。
その仕草は、あまりにも官能的だった。
相馬自身、まだそこにない指の感触を、確かめるように――。
男は、無意識に奥歯を噛みしめた。
胸の奥で、じわりと熱が滲む。
(……なんだ、この感覚は)
押さえ込もうとするほど、ゆっくりと燃え広がっていく。
そして――
相馬の唇が、微かに動いた。
(……舐めた?)
乾きを癒すように、ゆっくりと舌が上唇を撫でる。
そのわずかな動きすら、妙に淫靡だった。
――それを、見ていた男の喉が鳴った。
(……なんだ、今の……)
相馬昴。
あの男が、欲求不満のまま取り残されたような顔をしている。
(……今、この隙間を埋めたら?)
もし、あの逞しい胸元に手を伸ばし――
滴る汗を、舌で掬ったなら?
(……どんな顔をする?)
想像しただけで、熱が滲む。
強張る指先。疼く掌。
――あの胸筋、この手の中に収めてみたい。
そして、男はゆっくりと拳を握りしめた。
「いつか――」
低く囁く。
狩人が獲物に宣告するように。
「この手で、お前を満たしてやる」
「望もうが、望むまいが――だ」
「――壊れるまで、な」
* * * * *
可哀そうな相馬。
久住による弄びは、まだ終わらない。
そして——相馬の身体を狙う者は、もう一人ではなかった。
目覚め始めた欲望。
歪みゆく関係。
相馬と久住の結末は?
そして、相馬の肉体を巡り、新たに交わる男たちは——?
💠無料連載はここまでとなります。
これまで応援してくださった皆さま、本当にありがとうございました。
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